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新世暦411年 初冬・12月12日


 封筒には、ギルドの印があった。

 宗一郎は折り畳まれた紙を開き、窓からの光へ向けた。

 朝食を片づけていた凛が、その手元を見る。


「ギルドからですか?」

「ああ。今日、顔を出してほしいそうだ」


 アリアが、椅子を引いたところで動きを止めた。


「依頼?」

「いや。今回の件で、話を聞きたいとある」


 紙には、体調が許せばと添えてあった。

 難しければ訪問へ切り替えること、日時も変更できること。その二つが、面会の用件よりも前に書かれている。

 宗一郎は最後まで読み、卓へ置いた。


「行ってくる」


 凛の目が、胸元へ向いた。

 寝台から起き上がるのに、もう手は借りなくなっていた。家の中なら一人で歩けるし、食事も普段に近い量を取れる。

 それでも、長く立っていると、ときどき息を整える間があった。


「私たちが帰ってからでは……」

「明るいうちに済ませたい。長い話にはしない」

「それ、自分で決められるの?」


 アリアが尋ねる。

 宗一郎は紙へ目を戻した。


「途中で切り上げていいと、書いてある」

「書いてあっても、我慢したら意味ないからね」


 凛も、小さく頷いていた。

 宗一郎は二人を見て、僅かに笑った。


「……分かった。疲れたら帰る」

「約束ですよ」

「ああ。帰ったら、何を話したか聞かせる」


 アリアが少し考えたあと、立ち上がった。


「じゃあ、外套持ってくる。今日は寒いよ」


 凛は卓の上の封筒を、濡れない場所へ移した。


「寄り道は、ほどほどにしてくださいね」

「そのつもりだ」



 街の風は冷たかった。

 宗一郎は外套の前を合わせ、ゆっくり歩いた。

 足元を確かめるほどではないが、以前と同じ調子で進もうとすると、胸の奥に鈍い重さが残る。

 大通りへ出る手前で一度足を止め、荷車が通り過ぎるのを待った。


 店先に、色のついた紐が吊るされていた。

 小さな包みを並べた台もある。硝子の器を磨いている店主の横で、子供が飾り紐を選んでいた。

 もう、そんな時期かと思った。


 宗一郎は歩き出した。

 ギルドの扉を押すと、暖められた空気と、人の声が流れてきた。


 掲示板の前で、二人のハンターが依頼書を見比べている。

 奥の卓では、革帯を広げた男が仲間と話していた。

 いつもと同じ光景だった。


 けれど、受付の女性は宗一郎を見ると、手にしていた書類を置いた。


「宗一郎さん。お身体は、もう……」

「歩く分には、問題ない」


 彼女は頷き、すぐに奥へ目を向けた。


「お待ちしていました。どうぞ、こちらへ」


 記帳を求められることもなく、脇の通路へ案内された。

 すれ違った職員が足を止め、軽く頭を下げる。

 宗一郎は、そのたびに視線を返した。


 執務室の前には、淡い茶色の髪をきちんとまとめた女性がいた。

 ギルドマスターの秘書を務める、エルナだった。面会の調整や各所との連絡、報告書の整理を担っている。

 胸元へ抱えていた記録帳を片腕へ移し、宗一郎へ軽く頭を下げた。


「お越しいただき、ありがとうございます」

「大げさだな」

「長い道中の後ですので。まず、お掛けください」


 彼女が扉を開けた。

 卓の向こうで、大柄な男が立ち上がりかけた。

 ガルド・レイン。この支部を預かるギルドマスターで、かつては前線に立つAランクのハンターだった。

 短く刈った髪には灰色が混じり、上着越しにも肩と胸の厚みが分かる。現場を退く原因となった左膝の古傷を庇い、足の位置を直してから背筋を伸ばした。


「……戻ったな」

「ああ」


 ガルドの目が、宗一郎の顔から立ち姿へ動いた。


「先に言っておく。依頼を押しつけるために呼んだんじゃない。今日は、確認だけだ」

「手紙は読んだ」

「書いても、遠慮する奴がいるんでな」


 宗一郎が椅子へ座ると、エルナが温かい茶を置いた。

 湯呑みのそばには、水の入った杯もある。


「休憩が必要でしたら、いつでも仰ってください」


 ガルドは腰を下ろし、卓に置いた一通の書状へ手を添えた。

 ギルドのものとは違う印が、封蝋に残っていた。


「元老院から照会が来ている。失踪事件と、その後の帰還についてだ」


 宗一郎は、その印を見た。


「同行者からも、報告はあったはずだが」

「元老院には届いているそうだ。こちらへ伝えられた範囲は限られている」


 ガルドが書状を開いた。


「エルネスト・クロイツが死亡したこと。お前が、その戦闘に関わったこと。それと、失踪者の帰還が始まったことだ。詳しい経緯は、今日確かめるよう求められている」


 宗一郎は頷いた。


「同行したのは、シオンという知人と、元老院の職員だ。リゼット・ベルクレールという」


 ガルドが書状へ視線を落とし、その名を確かめた。


「調査に同行した職員だな」

「ああ。戦闘には、シオンと俺の二人で入った」


 エルナが、シオンの名を書き留めた。

 ガルドは続きを急かさず、一度書状へ目を戻した。


「学院で失踪した者の中に、お前と暮らしている生徒が二人いたとある。その二人も、戻ったんだな」

「ああ。凛とアリアだ。今日は、二人とも学院へ行っている」


 ガルドの肩が、僅かに下がった。


「……そうか」


 エルナも、静かに息を吐いた。


「お二人とも、無事で何よりです」


 その声には、記録のためではない温かさがあった。

 宗一郎は二人へ目を向け、頷いた。



 控えめなノックがしたのは、確認を始めて間もなくだった。

 エルナが応じ、扉を開ける。


 廊下に立っていた男を見て、ガルドが立ち上がった。


「セプティム機関長!」


 初老の男が、軽く頭を下げた。

 厚い外套を同行の職員へ預け、室内へ入る。


「場所を借りる。無理を言ったな」

「いえ。ご用意はできております」


 ガルドの声が変わっていた。

 宗一郎は椅子へ座ったまま、男を見た。


「お前が来るのか」

「君を、もう一度こちらまで呼ぶわけにはいかんだろう」


 セプティム・アルトマンは宗一郎の前で足を止めた。


「顔色は、前に会ったときよりいい」

「そうか?」

「あのときの君は、眠っていても休まらない顔をしていた」


 宗一郎は、湯呑みへ目を落とした。

 セプティムは返事を求めず、向かいへ腰を下ろした。


 ガルドは、二人の間へ一度だけ目を向けた。

 宗一郎が元老院へ赴いたことは知っていた。

 だが、第七機関長が自ら地方の支部まで訪れ、こんな口調で話す相手だとは、受け取った書面からは分からなかった。


「先に、礼を言わせてほしい」


 セプティムが言った。


「帰還した者たちの確認が進んでいる。長く家族を待たせた者もいる。君たちが動かなければ、この再会はなかった」

「俺一人では、戻せなかった」

「承知している。だから、君からも聞きたい」


 エルナが記録帳を開いた。

 ペン先が、紙の上で止まる。


「どこからだ」

「エルネストに接触するまでの経緯から。確認できたことと、同行者から聞いたことを分けて話してくれ」


 宗一郎は頷いた。

 場所を絞り、足取りを追い、戦闘へ向かった経緯を、言葉を選んで説明した。

 神竜の居城で交わした問いの内容は、ガルドたちの前では語らなかった。セプティムも、そこへ話を戻そうとはしない。

 既に提出された報告を確かめ、足りない箇所だけを尋ねた。


「エルネストの死を、最後まで見届けたのは」

「シオンだ。俺は、その前後の記憶がはっきりしない」


 エルナのペンが動いた。


「では、その部分はシオン様の証言と照合する事項として残します」

「ああ」


 ガルドが、卓の向こうから宗一郎を見ていた。

 宗一郎はいつも、短い報告を済ませると、報酬を受け取ってすぐに帰る男だった。

 その男が今は、遠い街で起きた戦闘と、大勢の帰還について話している。


「今回の件で、この街へ危険が及ぶ可能性はあるか」


 ガルドが尋ねた。

 宗一郎は少し考えた。


「分からん。だが、同じ契約者がまた禁則を定めることはない」


 セプティムが頷いた。


「事件の原因となった人物は死亡した。その確認は取れている。ただし、まだ整理の済んでいない情報もある。全て解決したと、こちらから広く触れ回る段階ではない」

「承知しました」


 ガルドは、エルナと目を合わせた。

 彼女が短く頷く。


 宗一郎が息を整えるのを見て、エルナはペンを置いた。


「少し、お休みになりませんか」


 宗一郎は首を振りかけた。

 朝の二人の顔が浮かび、杯へ手を伸ばす。


「……そうさせてもらう」


 ガルドは何も言わず、机の端にあった書類を伏せた。



 同じ頃、凛とアリアは学長室の前にいた。

 中から穏やかな声がして、扉を開ける。


「来てくれたか。さあ、座りなさい」


 アルベルド・リヒターは机を離れ、窓際の椅子を勧めた。

 机には教本が開かれ、余白へ何枚もの紙が挟まれている。

 二人が座るのを待ってから、彼も向かいへ腰を下ろした。


「授業には、少し慣れたかね?」

「はい。皆が、ノートを貸してくれて」

「実習も、今は見てるだけだから。大丈夫です」


 アリアが答えると、アルベルドはゆっくり頷いた。


「急がなくてよい。休んだ分を一度に取り戻そうとすると、帰ってから休めなくなる」


 凛が膝の上で指を揃えた。

 アルベルドは、その手を見てから顔へ目を戻した。


「眠れているかね」


 二人の返事が、一拍遅れた。

 昨夜も、宗一郎の寝台で眠った。

 もう一緒に寝るかとは言われなかった。寝る時間になると二人が部屋へ来て、宗一郎が掛布をめくってくれた。


「……はい」


 凛が頷いた。

 アリアも、何でもない顔をして頷く。


「なら、よい。眠れない日や、教室にいるのがつらい日があれば、担任に話しなさい。うまく説明できなくとも構わん」


 凛は顔を上げた。


「……ありがとうございます」


 アルベルドは笑みを返した。

 それから、少し声を和らげる。


「宗一郎殿は、どうしているかね」

「今日は、ギルドへ行っています」


 アリアがすぐに答えた。


「もう一人でも歩けるんですけど、まだ長く動くと疲れるみたいで。無理しないって約束はしたんですけど」

「朝も、胸が痛まないか確かめたんです。ご飯は食べられていますし、昨日より楽だとは言っていました」


 凛が続ける。

 アリアが、その隣で頷いた。


「でも、大丈夫ってすぐ言うから」


 アルベルドは、二人の顔を見ていた。

 尋ねた途端、さっきまで慎重だった言葉が次々に出てくる。


「……頼もしい世話役が二人もおるな」


 二人は口を閉じた。

 アリアが頬を掻き、凛は少し俯いた。


「お前たち自身の休息も、忘れぬようにな。宗一郎殿も、それを望んでいるだろう」


 凛は、朝の食卓を思い出した。

 自分の分を先に食べろと言う声。学院であったことを聞きたがる、優しい目。


「……はい」


 アリアも、今度はゆっくり頷いた。



 茶が注ぎ足された。

 セプティムは、閉じられた記録帳へ目を向けた。


「ここまでの確認は、両者で照合してくれ。食い違いがあれば、推測で埋めずに残しておいてほしい」

「かしこまりました」


 エルナが答える。

 セプティムはガルドへ向き直った。


「ここからは、元老院で受けた照会に関わる話になる。宗一郎と、二人で話をさせてもらえるか」


 ガルドは、宗一郎を見た。

 彼が頷いたのを確かめ、椅子を引く。


「隣におります。何かあれば、お呼びください」


 エルナが記録帳を閉じたまま立ち上がった。

 二人が退室し、扉が閉まる。

 廊下の足音が遠ざかるまで、セプティムは話し始めなかった。


「シオンの報告は、聞いている」


 宗一郎が顔を向ける。


「胸を貫かれた後も、戦いを続けたそうだな」

「……ああ」

「そのときの変化を、君自身はどこまで覚えている」


 宗一郎は、自分の掌を見た。


「断片だけだ。何が起きたか、全て説明はできん」


 セプティムは頷いた。

 追及する様子はなかった。


「分からないものを、今ここで説明しろとは言わん。ただ、私がどう見ているかは、伝えておきたい」


 宗一郎は、男の目を見た。


「私は、君の力は超越者に並ぶと見ている」


 室内が静かになった。

 宗一郎の表情は変わらなかった。


「エルネストを倒したからか」

「以前の観測報告と、胸を貫かれた後も戦い続けたというシオンの証言を踏まえての判断だ。ただ、正式に認定したわけではない」


 セプティムは、膝の上で手を組んだ。


「私はあの戦いをこの目で見ていない。エルネストを倒したのも、君とシオンの二人だ。君一人でどこまで戦えたかは、報告からは分からん」

「どう見られようと、俺にできることは変わらん」

「そうだろうな。だが、君と関わる者の判断は変わる」


 宗一郎は、閉まった扉へ一度目を向けた。


「ガルドたちには?」

「伝えていない。伝えたのは、先ほど彼が説明した範囲だ。回収したヴィンディクタもアーティファクトという事にしている。因果遺物が発見されたとなるとさらに面倒な事になるからな」


 セプティムの声は落ち着いていた。


「今回、私が来たことで、君への扱いは慎重になるだろう。それでも、この分類を支部内へ広げる必要はない」


 宗一郎は頷いた。


「何を聞きたい」

「これから、どうするつもりだ」


 宗一郎は少し考えた。


「身体を治す」

「その後は?」

「二人と暮らす。必要なら、仕事もする」


 セプティムは黙って続きを待った。

 宗一郎も、黙った。

 やがて、初老の男の口元が僅かに動いた。


「……それで全部か」

「今は、それで十分だ」


 朝、学院へ出かける二人の顔が浮かんだ。

 今夜、何を食べたいと言っていただろうか。

 帰る前に聞いておけばよかったと、そこで思った。


 セプティムは、宗一郎の視線が一瞬柔らかくなったのを見た。


「この力を、元老院のために使えと言いに来たのではない」


 宗一郎が目を戻す。


「ただ、今回のような危険へ再び向かうことがあれば、可能な限り連絡をもらいたい。何も知らずに人を送り込み、君たちの戦いへ巻き込むことは避けたい」

「……できる限りは、そうする」

「それでいい」


 セプティムは背を起こした。


「君を知ろうとする者は、これから増える。私たちの側でも、必要のない接触が重ならぬよう調整する。今回の確認も、同じ説明を何度も求められずに済むようにするためだ」


 宗一郎は、少しの間その顔を見た。


「助かる」


 セプティムが頷いた。

 帰り際、宗一郎は一つ尋ねた。


「リゼットの父親には、会ったか」

「ああ。まだ、ゆっくりだが話せている」


 男の声が、僅かに低くなった。


「本人からも、確認したいことはある。ただ今は、家族と過ごす時間を先に取ってもらっている」

「……そうか」


 宗一郎は、静かに頷いた。



 ガルドとエルナが戻ったとき、宗一郎は外套を手にしていた。

 セプティムは最後に照会先を確かめ、同行の職員とともに部屋を出た。

 扉が閉まってから、ガルドが長く息を吐く。


「……とんでもない相手と、顔が繋がったものだな」

「必要があって、訪ねただけだ」

「必要があっても、普通はあそこまで通れん」


 ガルドは椅子を示した。


「立ったままでなくていい。あと一つだけ、確認させろ」


 宗一郎は腰を下ろした。


「今後の依頼だ。今回の功績と、以前から届いていた報告を無視して、これまで通りに割り振るわけにはいかん」

「登録は、今のままでいい」


 ガルドが眉を動かした。

 エルナは、取り出しかけた別の書類を止めた。


「……そう言うと思った」


 ガルドは腕を組んだ。


「だが、BだからBの仕事だけ任せれば安全、とは考えられなくなっている。お前の力を当てにして、無理な依頼を持ち込む奴も出るだろう」

「受けるかどうかは、俺が決める」

「ああ。それを、窓口にも徹底する。まずは療養中として、仕事の打診を止めておく」


 エルナが頷いた。


「復帰の時期は、改めてご相談ください。面会や取次ぎの申し入れも、直接ご自宅へ向かわせず、こちらで確認します」


 宗一郎は二人を見た。


「……頼む」


 ガルドは、短く顎を引いた。


「強い奴でも、休むときは休め。同居している二人にも、心配をかけているんだろう」


 宗一郎の口元が緩んだ。


「もう、言われている」



 階下へ降りると、昼の光が入口の床まで伸びていた。

 宗一郎は歩調を緩め、受付の前を通った。


「……あの」


 声をかけたのは、掲示板の脇にいた若い男だった。

 革の胸当てに、手入れの行き届いた剣。宗一郎と目が合うと、背筋を伸ばした。

 その後ろで、大柄な青年が盾を持ち直す。

 短杖を持つ少女と、弓を背負った少女もいた。


「宗一郎さん、ですよね」


 宗一郎は四人を見た。

 弓の少女が、先に笑う。


「ほら、やっぱり。私、そうだって言ったでしょ」

「ミナ、少し待って」


 短杖の少女が、小さく袖を引いた。

 剣の青年が咳払いをする。


「レクトです。こっちは盾役のボルク。魔術師のフィーネと、斥候のミナ。四人で組んでます」


 名乗るたび、後ろの三人が軽く頭を下げた。

 宗一郎は、レクトの顔をもう一度見た。


「西の林道か」


 青年の目が開いた。


「覚えていてくれたんですか」

「大きな盾を持って、前に立っていたな」


 宗一郎の視線が、ボルクへ移った。

 大柄な青年は、盾を握る指へ力を込めた。


「……はい。あのときは、本当に」


 言いかけて、頭を下げる。

 その顔を見て、宗一郎も林道の光景を思い出した。



 木立の奥から、獣の咆哮が響いた。

 宗一郎が駆けつけたとき、四人は道の端へ追い詰められていた。


 熊によく似た魔物だった。

 黒褐色の毛に覆われ、肩の辺りだけが異様に盛り上がっている。二本の脚で立ち上がると、若いハンターたちを遥かに見下ろす高さになった。

 その足元に、折れた矢が落ちていた。


「ボルク、下がれ!」


 レクトが叫んだ。

 剣を構え直そうとするが、踏み出した片脚が震えている。

 フィーネの前では、作りかけの術式が崩れた。ミナが次の矢をつがえるより早く、魔物の腕が振られた。


 盾が鳴った。

 ボルクの身体が押し潰されるように沈み、片膝が地面へついた。

 盾の上端が大きくへこみ、支えていた左腕が力を失った。


「くっ……!」


 立とうとした。

 けれど、脚が持ち上がらない。

 顔を上げると、魔物がもう一方の前脚を振り上げていた。

 太い爪が、冬へ向かう薄い陽射しを遮った。


 避けられない。


 ボルクは歯を食いしばり、動かない腕ごと盾を引き上げようとした。


 その横を、黒い影が走った。


 宗一郎は最後の一歩を強く踏み込み、跳んだ。

 宙で身体を傾け、片脚を伸ばす。

 靴底が、魔物の横腹へ深くめり込んだ。


 ドンッ!


 重い音が、林道に響いた。

 振り上げられていた爪が、空を掻いた。

 巨大な身体が真横へ吹き飛び、道端の灌木を薙ぎ倒す。幹へ叩きつけられ、枝と枯葉が一斉に降った。


 ボルクは、盾を半分持ち上げた姿勢のまま動けなかった。

 目の前には、着地した男の背中があった。


「動ける者は、怪我人を後ろへ」


 宗一郎が言った。

 レクトが我に返り、ボルクの肩を掴んだ。

 ミナも反対側へ回る。


 倒れた魔物が、低く唸った。

 宗一郎は、四人が下がったことを確かめてから、その前へ歩いていった。


*


「あの大きさの魔物が……蹴りで飛ぶなんて、思いませんでした」


 ボルクが言った。


「もう駄目だと思ってたんです。盾も、腕も、動かなくなって」


 隣で、レクトが唇を結んだ。


「俺も、助けに入れなかった。前に出ようとして、脚が……」


 宗一郎は青年を見た。


「その後は動いた。仲間を下げたろう」


 レクトが顔を上げた。


「……はい」


「無事に戻ったなら、それでいい」


 宗一郎はボルクの左腕へ目を向けた。


「腕は、もういいのか」


 ボルクが一度、自分の腕を見た。

 あのとき盾を支えていた左腕には、腫れが出ていた。


「はい。今は、何とも」


 答えた顔に、嬉しさが滲んだ。

 ミナが、仲間を押しのけない程度に前へ出る。


「その後も何度か見かけたんです。でも、いつもすぐ帰っちゃうから。レクトなんて、話しかける練習までしてたんですよ」

「してないだろ」

「『次こそ礼を言う』って、三回くらい」


 フィーネが俯いて笑った。

 レクトは赤くなり、宗一郎へ向き直った。


「……剣を、少し教えていただけませんか。今すぐじゃなくて、時間があるときでいいので」


 真剣な目だった。

 宗一郎は少し黙り、自分の胸元へ手を添えた。


「今は、身体を治している」


 四人の表情が変わった。


「すみません。知らなくて」

「いや。治ったら、訓練場で会うこともあるだろう」


 レクトが顔を上げた。


「そのときなら、少しは見られる」

「……はい!」


 声が大きくなり、彼は慌てて周囲を見た。

 宗一郎は僅かに笑い、四人へ目を向けた。


「今日は、これから依頼か」

「近郊の薬草採取です。四人で、日が暮れる前に戻る予定で」


 フィーネが答えた。


「雪が残っている場所は、帰りの時間を多く見ておけ。行きより足が遅くなる」


 彼女は頷き、鞄から小さな手帳を出した。

 ミナがその肩越しに覗き込む。

 ボルクは盾の留め具を締め直し、レクトは深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 宗一郎は手を上げ、扉へ向かった。

 背後で、小さな声がした。


「……やっぱり、かっこいいよね」

「聞こえるって、ミナ」


 扉を閉める直前、宗一郎はもう一度だけ振り返った。

 四人が揃ってこちらを見ていて、目が合うと、慌てたように頭を下げた。



 学院の午後は、ゆっくり過ぎた。

 凛はノートを閉じ、窓の外を見た。

 ギルドでの話は、もう終わっただろうか。


「凛、次の教室、行こう」


 アリアが呼んだ。

 凛は頷き、教本を重ねる。


「学長先生、怒らなくてよかったね」

「どうして怒るの」

「いや。二人で世話焼きすぎって、言われるかと思った」


 凛が小さく笑った。


「自分たちも休みなさいって、言われたでしょう」

「それは、そうだけど」


 アリアが鞄を持ち直す。

 廊下へ出ようとしたところで、同級生の男子生徒が凛へ声をかけた。


「凛。これ、研究会で配ってた資料」


 差し出された紙には、冬の薬草の管理方法が書かれていた。

 凛は受け取って、顔をほころばせた。


「ありがとう。取りに行こうと思ってたの」

「……うん」


 少年はまだ、何か言いたそうだった。

 廊下から教師の声がすると、少年は口をつぐんだ。


「また、研究会で」

「うん。またね」


 凛が手を振る。

 アリアは少年の顔を一度見てから、凛と並んだ。


「何?」

「……別に」


 凛は不思議そうに首を傾げた。

 アリアは前を向いた。

 帰ったら宗一郎に話そうかと思い、それは少し違う気がして、やめた。



 宗一郎は、帰りの大通りで足を止めた。

 朝に見た飾り紐が、風に揺れている。

 その隣の魔道具店で、店主が小さな台を窓際へ寄せていた。


 布の上に、石が並んでいた。

 光の角度が変わると、青い一粒の内側が、澄んだ水のように明るくなった。

 宗一郎は、窓へ近づいた。


 店主が顔を上げる。


「ご覧になりますか」


 宗一郎は少し迷った。

 凛の、寄り道はほどほどにという声を思い出す。


「……座れるか」

「もちろん。中へどうぞ」



 石は、耳飾りに仕立てられていた。

 青い方は、透明な結晶を細く削り、短い金具の下へ下げてある。動かすと、面ごとに違う青が見えた。

 その隣には、丸く磨かれた赤い石があった。

 耳たぶへ収まる小さな形で、縁の細い金属が、石の色を引き立てている。


「どちらも、少し変わった石でしてね」


 店主が、小さな布を台へ広げた。


「身につける方の魔力に馴染むと、内側へ淡い光が宿るんです。同じ石でも、少しずつ輝きが違って見える」

「何か、術を使えるのか」

「いえ。明かり代わりになるほど光るものでもありません。身につけて、色の変わり方を楽しむ品です」


 店主が青い耳飾りを、掌の上へ載せた。

 石の奥に、ごく小さな光が灯った。

 指で向きを変えると、その光は結晶の面へ溶けて見えなくなる。


「外すと、また少しずつ元へ戻ります。使い手を選んだり、契約を求めたりはしませんよ」


 宗一郎は、青い石を見た。

 凛が髪を耳へ掛ける仕草が浮かんだ。

 銀白の髪の間で、この青はよく映えるだろう。


 赤い方へ目を移す。

 笑うと、アリアの髪はよく揺れる。

 小さくても色の深い、この石が似合いそうだった。


「贈り物ですか」

「ああ」

「25日の?」


 宗一郎は、店先の飾り紐へ目を向けた。


 12月25日には、大切な人へ贈り物を渡す。

 古くから続く習わしだが、いつ始まったのか、宗一郎は知らなかった。

 家族へ。友人へ。想いを寄せる相手へ。

 相手を思い浮かべながら品を選び、冬の一日に手渡す。

 街では、毎年この時期になると、贈り物の包みが増えた。


 宗一郎は、二つの耳飾りへ目を戻した。

 25日には、二人とも家にいるだろうか。

 夕食の後なら、ゆっくり渡せるだろう。


「……そうだな」


 店主が微笑んだ。


「それぞれ、お包みしましょうか」

「ああ。二人分、頼む」



 細長い箱には青い耳飾りを、小さな四角い箱には赤い耳飾りを収めてもらった。

 店主は薄い布でそれぞれを包み、紐を掛けた。

 留め金の扱いと、普段の手入れについて聞く。

 宗一郎は説明を確かめ、代金を払った。


「喜んでいただけるといいですね」


 差し出された包みを受け取る。

 どちらも、掌に収まるほど軽かった。


「ああ」


 宗一郎は外套の内側へしまった。

 席を立つ前に少し休んでから、店主へ礼を言って外へ出る。

 空はまだ明るかった。

 学院が終わるまでには、家へ戻れそうだった。



「ただいま!」


 扉の開く音がして、宗一郎は顔を上げた。

 アリアが居間へ来る。その後ろから、凛が覗いた。


「おかえり」


 二人の目が、まず宗一郎の顔を、それから卓の上を確かめた。

 湯呑みと、ギルドの封筒。


「早く帰れた?」

「ああ。少し、店には寄ったが」


 凛が外套を掛けながら振り返った。


「疲れてないですか」

「途中で座って休んだ」

「……よし。ちゃんと休んだんだね」


 アリアが笑った。

 宗一郎も、その顔を見て笑った。

 彼女の耳元で、赤い髪が跳ねた。


「何?」

「いや」


 宗一郎は、隣の椅子を引いた。


「今日は、どうだった」


 凛がそばへ来た。

 座る前に、宗一郎の手へそっと触れる。


「私たち、学長先生とお話したんです」

「何と言っていた」

「ちゃんと休めって。私たちも、宗一郎も」


 アリアが反対側へ座った。


「そっちは? ガルドさん、何の話だった?」


 宗一郎は、ギルドでの確認のことを話した。

 元老院からセプティムが来たこと。仕事は当分休むことになったこと。それから、若い四人組に呼び止められたこと。


「剣、教えるの?」

「治って、会うことがあればな」

「じゃあ、まだ先ね」


 アリアがすぐに言った。

 凛も頷く。


「まずは、元気になってからです」


 宗一郎は、二人の顔を見た。


「分かっている」


 凛が、安心したように微笑んだ。

 銀白の髪を耳へ掛ける。

 宗一郎は、ほんの少しだけ目を留めた。


「……何か、ついていますか」

「いや。何でもない」


 まだ、言わずにおいた。

 寝室の引き出しの奥に、小さな包みが二つある。

 今、渡してしまってもいい。

 けれど、待っている日が一つあるのも、悪くなかった。


 凛が夕食の支度をしようと立ち上がった。

 アリアも、その隣で袖をまくる。


「今日は、何が食べたい?」


 宗一郎は二人を見上げた。


「温かいものがいい」

「じゃあ、元気が出るようにお肉のスープにしようか」

「パンも、温め直すね」


 二人が台所へ向かう。

 宗一郎は椅子へ背を預け、行き交う声を聞いた。


 12月25日。

 その日の二人の顔を思い浮かべて、彼は静かに口元を緩めた。

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