第9話「口先だけで、勝利した」
夜が明けたばかりの帝都は、まだ薄い藍色の靄に包まれていた。
下賜された邸宅の窓から差し込む朝の光は淡く、庭の薔薇は夜露を纏って静かに輝いている。石畳の通りに人影はまばらで、聞こえてくるのは早起きの小鳥の囀りと、遠くで荷馬車が軋む音くらいのものだった。帝都に朝が訪れる、その静謐なひととき。タクミが下賜された屋敷での二日目の朝は、そんな穏やかな空気の中で始まった……はずだった。
「タクミ様。お客様がお見えです」
朝食の支度を整えていたメイドのハンナが、怪訝そうに告げに来た。こんな早朝に、いったい誰か。
この屋敷の場所を知る者は、そう多くない。リズの身を案じて様子を見に来たゲルハルトか。あるいは、選抜の首尾を知らせに来たガルムか。そのどちらかだろうと見当をつけながら、タクミは玄関の扉を開けた。
だが、そこに立っていたのは、予想のいずれでもなかった。
「ふん、これが皇帝陛下から賜った屋敷か。……なるほど、平民に与えるにしては上等だが、僕の生家に比べれば物置小屋のようなものだな」
仕立ての良い礼服に身を包んだ青年――コニャックだった。その背後には、揃いの装いをした取り巻きが数人、控えている。腕を組み、屋敷を値踏みするように見上げる姿は、朝から実に鼻持ちならない。
タクミは、しばし記憶を探るように首を傾げた。
「ええと……ブランデー、だったか?」
「僕の名前はコニャックだ――ッ!!」
顔を真っ赤にして、コニャックが叫んだ。せっかくの気取った登場を、名前を間違えられて台無しにされたのだから、無理もない。
「朝から騒がしいな。それで、リキュール殿が俺の家に、何の用だ」
「だからコニャックだと言っている!」
こめかみに青筋を立てながら、コニャックはびしりとタクミを指差した。
「貴様のような素性も知れぬ流れ者が、リズの伴侶だと? 笑わせるな! 家柄も、実力も、この僕の方が遥かに上だ! リズに相応しいのは、僕をおいて他にいない!」
朝靄の中に、コニャックの甲高い声が響き渡る。五年間、リズに片想いを募らせ続けた男の執念だけは、本物らしかった。
その騒ぎを聞きつけたのだろう。屋敷の奥から、とてとてと軽い足音が近づいてきた。
「もう、朝から何なの、うるさいわね……」
寝ぼけ眼をこすりながら、階段を下りてきたのはリズだった。しかも――薄手の寝間着一枚という、あられもない姿で。豊かな胸元は布地を大きく押し上げ、しなやかな肢体の線が朝の光に透けている。結い上げていない金の髪が、寝乱れたまま肩に流れていた。
「なっ……!」
コニャックの顔が、今度は羞恥で真っ赤に染まった。慌てて目を逸らすが、その視線は行き場を失ってあちこちを彷徨っている。
そして、次の瞬間、彼の顔色が羞恥から怒りへと激変した。
「き、貴様ぁ……! リズがそんな格好で……まさか貴様、昨夜リズと同じ屋根の下で……一緒に、寝たのか……!?」
わなわなと震えながら、コニャックがタクミに詰め寄る。想像したくもない光景が、彼の脳内で暴走しているらしい。
一方、階段の途中で自分の格好にようやく気づいたリズは、みるみる耳まで赤くなった。
「――っ、な、何見てるのよ変態! コニャック、出ていけぇ――ッ!!」
手近にあった花瓶を投げつけそうな勢いで叫ぶと、リズは身を翻し、脱兎のごとく二階へと駆け戻っていった。
残されたコニャックは、扉の前で拳を握りしめて震えている。
「貴様……!」
「そう睨むな。それより、わざわざ朝早くから来たんだ。討伐軍に志願しに来たのか? 腕に覚えがあるなら、歓迎するぞ」
タクミが、しれっと挑発した。
「はぁ!? 誰があんな……あんな獣どもの巣窟になんぞ、行くものか!」
コニャックは吐き捨てるように言い放った。
――だが。
その一言に、タクミの目がすっと細くなった。獣ども。今、確かにそう言った。
(妙だな。討伐の相手が獣人であることは、まだ公にはされていないはず。帝国は連中を「蛮族」と呼び、その正体をあえて伏せている。それを、なぜこの貴族のお坊ちゃんが知っている?)
「ほう。獣ども、とはな。討伐の相手が何者か、ずいぶん詳しいじゃないか」
「なっ……」
コニャックの肩が、びくりと跳ねた。
「し、知らん! 僕は何も知らんぞ! た、ただ、そういう噂を聞いただけだ!」
あからさまに動揺し、しどろもどろに誤魔化す。その反応こそが、何よりも雄弁だった。この男は、何かを知っている。
タクミがその違和感を胸に留めた、ちょうどその時だった。コニャックの背後、朝靄の向こうから、いくつかの人影が進み出てきた。
「これはこれは、剣闘試合の優勝者殿。朝早くから、失礼いたしますな」
慇懃な口調でそう言ったのは、恰幅の良い中年の男だった。仕立ての良い外套の胸元には、見覚えのある紋章が輝いている。帝国貴族議会の、議員バッジだ。その後ろには、同じ紋章を掲げた男たちが数名、揃って控えていた。
――なるほど。コニャックは囮か。本命は、こいつらだ。
タクミは即座に状況を読んだ。議員の目は笑っていない。慇懃な笑みの裏で、こちらの底を測ろうとする冷たい光が覗いている。懐には、封蝋のされた書状らしきものが見て取れた。
「志願書ですか? あいにく、募集の締め切りはとうに過ぎていましてね」
タクミが、にやりと笑って言った。
議員の笑みが、一瞬、凍りついた。
「……は?」
志願書。つまり、この男は兵士になりに来たのか、と。夜明け前から議員を引き連れて押しかけた政治的圧力を、まさかの「志願兵」扱いである。完全に、馬鹿にされていた。
「き、貴様ぁ! 志願だと!? 議員先生方を、志願兵呼ばわりか! ふざけるのも大概にしろ!」
横でコニャックが喚き立てる。だが議員は、ひとつ咳払いをして、辛うじて表情を取り繕った。
「……失礼。我々は、帝国貴族議会よりの正式な書簡をお届けに参りました」
封蝋のされた書状を、うやうやしく差し出す。だが、その手は微かに震えていた。この議員もまた、タクミという男の底が読めず、緊張しているのだ。
「内容は……姫殿下の、即時帰城の要求。並びに、婚姻の白紙撤回を求めるものです。つきましては、三日以内に、ご返答を賜りたく」
「そうだ! 断るに決まっているだろう! リズは、この僕と結婚するんだ! なあ、そうだろうリズ!」
コニャックが横から割り込み、屋敷の中に向かって叫んだ。当然、返事はない。
タクミは、差し出された書状を受け取りもせず、静かに口を開いた。
「なるほど。……しかし、おかしな話ですね」
「な……何がです」
「皇帝陛下の勅命により、蛮族討伐軍が編成された。そして姫殿下は、その討伐軍の指揮官に任じられている。戦時において、軍の許諾もなく指揮官を勝手に動かすことは、皇帝陛下でさえ、できないはずですが?」
議員が、ぐっと言葉に詰まった。
「そ、それは……」
図星だった。軍事行動中の指揮官を、戦時に無断で動かす。それは明白な軍令違反にあたる。帝国法の根幹をなす軍事法典にも明記された事項であり、いかに貴族議会といえど、覆せるものではない。
「し、しかし、姫殿下は帝室の血を引く、尊きお方。その御身柄は、我ら貴族が……」
「そうだそうだ! リズは姫なんだぞ! 軍の都合なんぞ、関係あるか!」
コニャックが腕を組み、勝ち誇ったように加勢する。だが、それは完全に的外れだった。軍の「都合」ではなく、軍の「法」を指摘されているというのに、感情論で返している。議員が、思わず苦い顔をした。味方の的外れな援護ほど、足を引っ張るものはない。
「と、とにかく! 三日以内に、お返事を! さもなくば……」
議員は書状をぐいと突き出したが、「さもなくば」の続きが出てこなかった。「どうなるのか」を、具体的に言えないのだ。脅すための材料を、何一つ持ってきていない。
タクミは、ゆっくりと首を横に振った。そして、静かな、しかしよく通る声で告げた。
「――今は、軍事行動中だ」
空気が、ぴりりと張り詰めた。
「そして、軍事行動中の指揮官である俺と姫の会話は、その全てが軍事機密にあたる。……その内容を探ろうとする行為が、いったい何を意味するか。賢明な議員先生方なら、考えるまでもないでしょう?」
議員の顔から、完全に血の気が引いた。
軍事機密の探索。それはすなわち、指揮官への諜報活動であり、ひいては皇帝に対する反逆と見なされても、文句の言えない行為だ。夜明け前に、護衛を引き連れて指揮官の私宅を訪れた――その事実だけで、十分に不自然。言い逃れの余地は、もはやどこにもなかった。
「わ、我々は、決してそのような……ただ、書簡をお届けに……」
しどろもどろになりながら、議員は差し出していた書状を、そそくさと懐へ引っ込めた。そして、深々と頭を下げる。
「し、失礼、いたしました! 本日はこれにて……ッ!」
言うが早いか、踵を返して逃げ出した。残りの取り巻きたちも、蜘蛛の子を散らすように、我先にと去っていく。見事な、いや、無様な撤退だった。
戦わずして、勝つ。それもまた、タクミの狙い通りだった。
「お、おい! 待てよ、お前ら! 置いていくな!」
一人、取り残されたコニャックが、慌ててその背中を追いかけようとする。だが、議員たちは振り返りもしない。松明代わりに持っていたらしいランタンの灯を手に、彼はぽつんと門前に立ち尽くした。
ぐるりとタクミを睨みつけ、コニャックは声を絞り出す。
「お、覚えていろよ、平民風情が……! 僕は諦めんぞ、リズは絶対に、この僕が……! こ、これで済むと思うな! 貴様の邪魔を、徹底的にしてやるからな……!」
捨て台詞を残し、コニャックもまた、渋々と門を出て、朝靄の向こうへと消えていった。
「――もう、行った?」
しばらくして、二階から着替えを済ませたリズが下りてきた。今度はきちんとした略装姿で、髪も手早く整えられている。だが、その頬にはまだ、先ほどの羞恥の名残が微かに残っていた。
「ああ。議員もろとも、綺麗に追い返した」
「議員……って、貴族議会の?」
「ああ。婚姻の白紙撤回を求める書簡を届けに来た。まあ、体のいい脅しだな」
リズは、あからさまに顔をしかめた。
「あいつら、本当にしつこいんだから。五年前もそうだったのよ。私が剣闘試合の優勝者と結婚するって決めた時も、猛反対してきて。『平民の血で帝室を汚す気か』って。結局あの時は、お祖父様が黙らせてくれたんだけど……五年経っても、諦めてなかったのね」
うんざりしたように溜息をつくと、リズはふと、感心したような目でタクミを見上げた。
「でも……さっきの『軍事機密』ってやつ、すごかったわね。あんな追い返し方があるんだ。私、力でねじ伏せることしか知らなかったから……ああいうの、新鮮」
目を輝かせるリズに、タクミは肩をすくめてみせた。
「ハッタリだよ」
「え?」
「この国に来たばかりの俺が、帝国の軍法の中身なんて、知るわけがないだろう」
リズが、ぽかんと口を開けた。
「え……えぇ!? 嘘?、あれ、全部でたらめだったの!? あんなに堂々と……『皇帝陛下でさえできない』とか、言い切ってたじゃない!」
「言ったな。だが、あの状況で、そんな法があるかどうかを確かめる術は、あいつらにはない。指揮官の私宅に夜明け前から押しかけたという、後ろめたさもある。堂々と、さも当然のように言い切れば、相手は勝手に信じ込む。……奴らを追い返すための、ただの方便だ」
リズは、しばし呆気に取られていたが、やがて、くすくすと笑い出した。
「……もう。あなたって、本当にとんでもない人ね」
感嘆と呆れがない交ぜになった、けれど確かに温かい笑みだった。剣の腕でも、家柄でもなく、たった一枚の舌先で貴族議会を退けてみせる。この男の底知れなさが、リズにはたまらなく頼もしく、そして――どうしようもなく魅力的に映るのだった。
だが、タクミの表情は、すぐに真剣なものへと変わった。
「それより、リズ。一つ、気になることがある」
「なに?」
「おまえが着替えている間、コニャックが妙なことを口走った。討伐の相手を――『獣ども』と言ったんだ」
リズの顔から、笑みが消えた。
「……獣人のこと? でも、討伐の相手が獣人だってことは、まだ公にはされてないはずよ。帝国は『蛮族』って呼んで、正体を隠してる」
「そうだ。なのに、あいつは知っていた。しかも、問い詰めたら、あからさまに動揺して誤魔化した」
タクミは、腕を組んで思案した。
「ギルドでも話しただろう。獣人は、本来、討伐されるような相手じゃない。……それを、あの男は『獣ども』と吐き捨てた。あれは、脅かされている側の口ぶりじゃない。狩る側の口ぶりだ」
「なのに、この遠征は組まれた。そして、コニャックのような貴族の子息が、なぜかその真相を知っている」
リズの表情も、次第に引き締まっていった。あまりにも不自然な符合。この遠征の裏には、まだ自分たちの知らない、何か大きな企みが隠されている。その予感が、二人の間に静かに漂った。




