第10話「真の仲間は、金で転ばぬ」
それから、二日が過ぎた。
その日もまた、朝の穏やかな時間だった。メイドが、来客を告げに来る。
「タクミ様。お客様がお見えです」
今度は誰か、と玄関へ向かうと、そこに立っていたのは見慣れた巨躯――ガルムだった。だが、その隣にはもう一人、見慣れぬ人影がある。
「よう、タクミ! 邪魔するぞ……って、うおっ!? なんじゃこの立派な屋敷は! 城の目の前の一等地たぁ聞いとったが、想像以上じゃのう!」
ガルムは屋敷を見上げ、素っ頓狂な声を上げた。それから、その隣に立つ人物へと、タクミの視線が向く。
すらりとした長身の、若い女だった。フードを目深に被っているが、その頭からは――ぴょこりと、獣の耳が覗いている。ネコのそれによく似た、三角の耳。腰のあたりには、しなやかな尻尾が揺れていた。背には、自分の身の丈ほどもある長弓を負っている。
獣人だ。ギルドの受付が言っていた、あの――。
そのとき、また例のごとく、二階から軽い足音が近づいてきた。
「もう、朝から騒がしい……って、今度は誰なの……」
寝ぼけ眼のリズが、またしても寝間着姿のまま、ひょっこりと階段に姿を現した。
「なっ……」
今度はガルムが、思わず目を逸らす番だった。歴戦の戦士も、さすがに姫君の寝乱れ姿には目のやり場に困るらしい。だが、そこは百戦錬磨、すぐにニヤリと下品な笑みを浮かべてみせた。
「ほほう? こりゃまた……昨夜は姫さんと、随分お楽しみだったようじゃな、タクミ!」
「なっ……ち、違っ……!」
自分の格好に気づいたリズの顔が、朝日よりも赤く染まった。
「ち、違うわよ! ガルム、あんたも出ていけぇ――ッ!!」
二日前とまったく同じ叫び声を残して、リズは再び二階へと駆け上がっていった。ぱたぱたという足音が、どこか可愛らしい。
「がっはっは! 相変わらず元気じゃのう、姫さんは!」
ガルムは豪快な笑いが屋敷に響いた。
しばらくして、身なりを整えたリズが、仏頂面で下りてきた。
「……で? 朝っぱらから何の用なの、ガルム」
むすっとしたまま問うリズに、ガルムは傍らの獣人の女を手で示す。
「おう、そうじゃった。こいつを紹介しに来たんじゃ。カティア、っていう。腕利きの獣人の狩人でな。今回の依頼に、参加してくれるそうじゃ」
「よろしく」
カティアと呼ばれた女は、フードを外し、短く挨拶した。琥珀色の瞳が、鋭くこちらを見据えている。人懐こさはないが、その立ち姿には、歴戦の手練れだけが持つ静かな迫力があった。
リズは、その紹介を聞いて、きょとんとした。
「……で、他の仲間は? ガルムが見つけてきてくれた腕利きって、まさか、この一人だけ?」
その問いに、ガルムの豪快な表情が、ばつの悪いものへと変わった。
「……すまん、タクミ。面目ない」
ガルムは、太い首を垂れた。その仕草に、タクミは眉を寄せた。
この男が頭を下げるところを、見たことがなかった。剣闘試合の決勝で敗れた時ですら、この巨躯は膝をついたまま清々しく笑っていたのだ。
「何があった」
ガルムは、しばらく顔を上げなかった。
朝の光が、その白髪混じりの頭に落ちている。傍らのカティアは、腕を組んだまま黙って壁にもたれていた。何かを知っている顔だった。
やがて、ガルムは低い声で言った。
「……集まらんかったのじゃ」
「集まらない?」
「一人もな」
リズが、息を呑んだ。庭の薔薇が、朝風に揺れていた。
広間の卓に、四人が着いた。メイドのハンナが茶を運び、静かに下がっていく。扉が閉まると、部屋には朝の光と、気まずい沈黙だけが残った。
ガルムは、茶に口をつけなかった。卓の上で太い指を組み、しばらく何かを整理するように黙っていた。やがて、意を決したように顔を上げる。
「事情を話す。お前さんに言われた通り、ワシはギルドの腕利きどもに片っ端から声をかけた。剣闘試合の決勝まで残った連中にもな」
ガルムは、太い指を折り始めた。
「ギルドで一番腕が立つと評判の大剣使い。二回戦でワシと当たった槍の兄弟。B級だが場数だけは誰よりも踏んどる老いぼれ。それに、東部から流れてきた双剣の女……十四人じゃ。十四人が、その場で受けると言ってくれた」
その顔に、一瞬だけ誇らしげな色が浮かんだ。
「腕の立つ奴らばかりでな。これだけおれば、樹海だろうが何だろうが行けると思った。……一昨日までは、そう思っとったんじゃ」
声が、そこで沈んだ。
「昨日じゃ。……昨日の朝、一人が来て、断ると言いおった」
「一人が」
「そこまでは、まだ驚かんかった。気が変わることもある。……じゃが、その日のうちに、二人目が来た。昼過ぎに三人目。夕方には、まとめて四人が来おった」
ガルムの拳が、卓の上で固く握られた。
「夜になる頃には、十四人全員じゃ。……カティア、ただ一人を除いてな」
「全員が……?」
リズが、身を乗り出した。
「どうして。理由は聞いたの?」
「聞いた。皆、同じことを言うんじゃ。急に都合が悪くなった、別の仕事が入った、家族が病気になった。……理由は違えど、全員、嘘と分かるような苦しい言い訳をしおる」
「そんなの、明らかに……」
「おかしい。ワシもそう思うた。じゃから、最後に来た若いのを、ワシは引き止めた。腕を掴んで、酒場の裏に連れ込んで。ただ、正面から聞いた。何があったんじゃ、と」
彼は、目を閉じた。
「そいつは、泣きそうな顔をしとった。……そして、こう言いおった」
声が、低くなる。
「『すまねぇ、旦那。俺だって行きたかった。……でも、あんな額を積まれちまったら、断れねぇんだよ』とな」
広間が、静まり返った。
「金じゃ」
ガルムは、目を開けた。
「誰かが、あいつら全員に大金を握らせたんじゃ。『今回の案件からは手を引け』とな。……一人二人ならともかく、十四人全員にじゃぞ。相当な額を、一晩で動かしとる」
その言葉に、リズの表情がさっと変わった。
「一晩で、十四人分……?」
彼女は、卓の上で指を組んだ。傭兵一人を釣るのに、いくら要るか。討伐の報酬を上回る額でなければ、彼らは動かない。それを十四人分、しかも即金で。
帝都でそれができる人間は、多くない。そして、それをする理由がある人間となれば、さらに絞られる。
リズの脳裏に、二日前の朝が蘇った。包帯だらけの身体を引きずり、門前で拳を震わせていた男。議員たちに置き去りにされ、それでも捨て台詞だけは残していった男。
――貴様の邪魔を、徹底的にしてやるからな。
「……コニャックだわ」
リズが、ぎりりと歯を噛んだ。
「間違いない。あいつよ」
「あの坊ちゃんか?毎年一回戦で沈んどる?」
「そう、その坊ちゃんよ」
リズは、吐き捨てるように言った。
「腕は立たないけど、家は帝国屈指の大貴族なの。父親は内務総監。……十四人分の金くらい、あの人にとっては小遣いみたいなものだわ」
彼女の拳が、震えていた。
「自分では何一つできないくせに、金だけはあるのよ。剣で勝てないから、金で邪魔をする。……なんて卑劣な」
「まあ、坊ちゃんらしいと言えば、らしいがのう」
「笑い事じゃないわ!」
リズが、卓を叩いた。
「ガルムが三日かけて集めた人たちよ。あなたが一人ずつ頭を下げて回った人たちでしょう。それを、あいつは一晩で――」
そこで、声が詰まった。悔しいのだ。自分のためにこの男が走り回ったことも、それが幼馴染の嫌がらせ一つで無に帰したことも。
カティアが、壁際で小さく息を吐いた。
「……あんた、いい主だな」
「え?」
「なんでもない」
だが、タクミは――静かに笑っていた。
その笑みに、最初に気づいたのはガルムだった。
「……なんじゃ、お前さん」
「いや」
タクミは、顎の前で組んでいた腕を解き、人差し指だ卓を叩いた。
「一つ、聞かせてくれ。ガルム。おまえのところにも、来たんだろう。金を持った男が」
ガルムの動きが、止まった。太い首が、ゆっくりと持ち上がる。
「……なぜ、分かる」
「十四人全員に配って、束ねているおまえだけ素通りする理由がない。……むしろ、おまえが本命だろう」
広間が、静まり返った。
ガルムは、しばらく卓を睨んでいた。
「――ああ。来た」
ガルムはぽつりと話し始めた。
「一昨日の晩じゃ。他の連中より、桁が一つ多かった。……ワシが受ければ、全員が黙ってついてくると踏んだんじゃろうな」
「なぜ、断った」
「断るに決まっとろうが!」
ガルムは、鼻を鳴らした。
「……いや、正直に言えばな。一瞬だけ、指が動いた」
彼は、自分の手を見下ろした。
「ワシはもう若くない。傭兵稼業も、いつまで続けられるか分からん。あの金があれば、酒場の一軒でも買って、余生をのんびり過ごせる。……そう考えた」
太い指が、ゆっくりと握られた。
「じゃが、その瞬間に思い出したんじゃ。闘技場での戦いを」
「あの時の試合か」
「そうじゃ」
ガルムは、顔を上げた。
「ワシは負けた。何が起きたのかも分からんまま、あんたに動きを止められてな。……あの時、悔しいとは思わんかった。ただ、こう思ったんじゃ。この兄ちゃんの後ろについて行けば、何かとんでもないものが見られるかもしれん、とな」
彼は、そこで一度、大きく息を吸った。
「五十年生きて、そう思ったのは初めてじゃった。……それを、金で売れるか」
沈黙が落ちた。リズは、その横顔を見つめていた。この男は、報酬のために来たのではない。名誉のためでもない。ただ、この先を見たかっただけなのだ。
「ガルムには悪いが……好都合だ」
タクミが、静かに言った。
「え?」
リズが、きょとんとして彼を見上げる。
「考えてもみろ。コニャックは、金をばら撒いた。その結果、金で心が揺らぐ者は、皆去っていった。つまりあいつは、俺たちの代わりに、仲間の選別をしてくれたようなものだ」
タクミは、卓の向かいに座る二人を見やった。
「もし奴が何もしなければ、十四人が揃ったまま樹海へ入っていた。……そして、最初に本当の危機が訪れた瞬間に、何人が残ったと思う」
リズの目が、見開かれた。
「……あ」
「金で降りる者は、命でも降りる」
タクミは、あっさりと言った。
「あの晩に降りた奴らは、樹海の奥で降りていた。しかも、逃げ場のない場所でだ。……そうなってから知るより、今知れたほうが遥かにいい」
彼は、視線をカティアへ移した。
「カティア。おまえは、なぜ残った」
カティアは、しばし黙っていた。やがて、腕を組んだまま、ぽつりと言った。
「……あたしのとこにも、来たよ」
全員が、彼女を見た。
「昨日の夜だ。宿の前で、上等な身なりの男が待ってた。顔は覚えてない。……袋を出して、中を見せてきた」
「いくら」
「数えてない」
カティアは、短く答えた。
「見た瞬間に、断ったからな」
ガルムが、太い眉を上げた。
「見もせんで断ったんか。……なんでじゃ」
「金で動く仕事じゃないからだ」
琥珀色の瞳が、どこか遠くを見るように揺れた。
「あたしには、あたしの理由がある。……今は、言わない」
その声には、確かな決意が滲んでいた。
「ただ、大樹海に用があるのは、本当だ。あんたたちの依頼に乗るのも、嘘じゃない。……足手まといには、ならないよ」
「それで十分だ」
タクミは、あっさりと頷いた。
「え、いいの?」
リズが、思わず口を挟んだ。
「理由も分からないのに? これから命を預け合う相手なのよ」
「言いたくないことを吐かせて、それで何になる」
タクミは、静かに言った。
「無理に暴けば、こいつは次から本当のことを言わなくなる。……語りたくない事情の一つや二つ、誰にでもある」
カティアの耳が、ぴくりと動いた。琥珀色の瞳が、意外そうにタクミを見ている。
「それに、聞かずとも分かることはある」
タクミは、続けた。
「金を見もせずに断った。それだけで十分だ。……理由が何であれ、この女は金より重いものを抱えている。そういう人間が、いざという時に逃げるものか」
カティアは、しばらく黙っていた。
やがて、ふいと顔を背けた。
「……変な奴だな、あんた」
だが、その耳の先が、わずかに赤かった。
「リズ」
タクミは、まだ少し腑に落ちない顔をしているリズに向き直った。
「数だけ揃った烏合の衆より、金で転ばぬ二人の方が、遥かに頼りになる。コニャックは、俺たちに最高の仲間を選り分けてくれた。……礼を言ってやりたいくらいだ」
その言葉に、リズは毒気を抜かれたように、ぽかんとした。
それから、ふっと、肩の力が抜けたように笑った。
「……そうね。あなたにかかったら、コニャックの嫌がらせも、ただのお膳立てになっちゃうんだから」
だが、笑った後で、彼女はふと真顔になった。
「でも、タクミ。一つだけ気になることがあるの」
「なんだ」
「コニャックが金を出したのは、間違いないと思う。……でも、あいつ一人でそこまでやるかしら」
リズは、指を組んだ。
「あの人、五年間ずっと私に付きまとってきたけど、やることはいつも正面からなの。試合に出て、負けて、それでも来る。……こんな、裏から手を回すような真似は、あいつの性に合わない気がする」
タクミの目が、細くなった。
「……誰かの入れ知恵か」
「分からない。ただ」
リズの声が、低くなった。
「あの日、あいつの後ろには貴族議会がいたわ」
広間が、静まり返った。
ガルムが、髭を撫でながら唸る。
「面倒な話になってきたのう」
「なるさ」
タクミは、窓の外を見た。
「こちらが動けば、向こうも動く。……今回は金で済んだが、次はどうかな」
その声には、警戒よりもむしろ、面白がるような響きがあった。
窓の外では、すっかり昇った朝日が、庭の薔薇を明るく照らしている。集まった仲間は、たったの二人。だが、その二人は、どんな甘言にも、どんな大金にも揺らがなかった、真の同志だった。




