第7話「父は、伝説的英雄だった」
ギルド内に足を踏み入れた瞬間、酒臭い喧騒が二人を包んだ。昼間だというのに酒を呷る者、壁一面に貼られた依頼書を吟味する者、奥で賭け事に興じる者。見慣れぬ東方風の装いに、値踏みするような視線がちらほらと集まる。
タクミは動じることなく、まっすぐ受付へと歩み寄った。カウンターの向こうでは、栗色の髪を後ろで束ねた女が、帳簿に何やら書き込んでいる。
「すまない。少し尋ねたいことがある」
「はい、いらっしゃいませ。ご依頼ですか? それとも登録を……」
顔を上げた受付の女――名札には「マレーナ」とある――が、営業用の笑みを浮かべた。
「ライセンスはお持ちですか?」
タクミは懐から一枚の金属製の札を取り出し、カウンターに滑らせた。マレーナがそれを手に取り――ぴたりと動きを止める。
「……A級、ライセンス」
声が裏返った。まじまじと札を見つめ、それからタクミの顔を、信じられないという目で見上げる。
「A級がすごいの?」
横からリズが無邪気に問うた。
「すごい、なんてものじゃありません。A級というのは、全冒険者の中でも――」
勢い込んで身を乗り出したマレーナが、そこで言葉を切った。
声のした方を見たのだ。フードの奥から覗く金の髪。そして、その下の顔。
息を呑む音がした。
「あ、あの……もしや、そちらの方は……」
声が震えている。周囲に聞こえぬよう、マレーナは声を潜めた。それから弾かれたように立ち上がり、カウンターの脇へと二人を手招きする。
「ど、どうぞ、こちらへ! 奥のお部屋へ!」
騒ぎになる前に、と気を利かせたらしい。二人は人目を避けるように、ギルドの奥まった一室へと通された。
小さな商談室だった。古びた円卓と、擦り切れた椅子が数脚。壁には帝国の広域図が貼られている。
扉が閉まると、リズはようやくフードを下ろした。金の髪が、肩へ流れる。それだけの動作で、マレーナが背筋を伸ばして立ち上がりかけたので、リズは苦笑して手で制した。
「いいから、座って。今日はただの、彼の付き添いよ」
「は、はい……」
マレーナは腰を下ろしたものの、椅子の端に浅く掛けたままだった。
「それより、さっきの続き」
リズは、身を乗り出した。
「A級って、いちばん上のランクなの? だとしたら、さすがタクミよね」
得意げな口ぶりだった。自分のことでもないのに、鼻が高いらしい。
「……いえ、それが」
マレーナは、恐縮しきった顔で首を振った。
「A級は、全冒険者の中でも上位一パーセントに入るかどうかの領域です。それだけでも、この街のギルドでは滅多にお目にかかれません。……ですが、いちばん上ではないんです」
「上があるの?」
「S級がございます。さらにその上に、SS級」
マレーナは、指を二本立てた。
「S級ともなれば、名前を言えばどこのギルドでも通じます。SS級となると……もう、伝説みたいなものですね。大陸全土でも、片手で数えるほどしか」
「へえ」
リズは、ちらりとタクミを見た。
「じゃあタクミなら、そのSS級ってやつなんじゃないの?」
得意げに言うと、タクミは軽く肩をすくめた。
「S級以上になると、どこのギルドへ行っても顔が知られる。有名人扱いは、何かと面倒でな。A級くらいが、ちょうど身軽で都合がいい」
マレーナは、感心とも呆れともつかない顔をした。上げようと思って上げられるものではないのだが、この男はどうやら、上げないほうを選んでいるらしい。
「――さて」
タクミは、椅子に掛け直した。
「まず知りたいのは、目的地――大樹海と、その周辺の地理だ」
マレーナは、壁の地図を指し示した。
「こちらが、帝国の北東部一帯です。北の果てに、大山脈が連なっています。切り立った崖と万年雪に覆われた、人の寄せ付けぬ無人地帯。そして、その山脈の麓から南東にかけて広がっているのが――大樹海です」
深緑に塗られた広大な森林地帯を、マレーナの指がなぞる。
「なるほど。森はかなり深いようだな。それに、地形の起伏も相当ありそうだ」
「はい。街道は、大樹海の外縁に沿うように敷かれています。帝都から出て、いくつかの都市を経由しながら伸びているのですが……」
「妙だな」
タクミが地図に顔を近づけた。
「街があるのは、基本的に街道の南側か、東側ばかりだ。つまり、大樹海と街道の間――森に近いこの一帯には、街がないのか?」
鋭い指摘に、マレーナは少し驚いた顔をした。
「よくお気づきで。……ええ、その通りです。大樹海に近い側には、人が寄り付きませんから。ただ、一つだけ例外があります」
彼女は、街道よりもさらに森に寄った位置を指した。
「ここ――エーデルフェンという街です。街と言っても、村に毛が生えた程度の、小さなものですが」
「エーデルフェン、か」
タクミは地名を口の中で転がした。大樹海の目と鼻の先にある、唯一の集落。
「なるほど。まずは、その街を拠点にすることを考えよう」
そこまで話したところで、マレーナがふと、案じるような顔になった。
「しかし……お客様、本当に大樹海へ行くんですか? あそこは、一度迷い込んだら二度と出てこられない、死の森ですよ」
声に、隠しきれない気遣いが滲む。
「外縁でしたら、薬草採りや狩りで入る方もいらっしゃいます。ですけど、奥は別です。奥へ入って戻ってきた方なんて、S級の方でも……いえ、S級だからこそ、行かないんです。ああいう方は、割に合わない仕事はなさいませんから」
「一人もいないのか」
「そうですねぇ」
マレーナは、指を顎に当てて考え込んだ。
そして、思い出したように顔を上げた。
「……いえ。一人だけ、うちのギルドに記録が残っておりますよ」
「誰だ」
「ずいぶん昔の話ですけどね。……前帝陛下です」
リズの動きが、止まった。
「テオドール陛下。……あの方、玉座に就かれる前は冒険者でいらしたんです。それも、SS級の」
マレーナは、懐かしむような目をした。
「わたしがまだ駆け出しの受付だった頃、先輩から聞かされました。あの方が名簿に名を連ねていた時期があるって。……台帳の古い綴りを引っ張り出して、見せてもらったこともあります」
「……本当に?」
リズの声が、掠れていた。
タクミは、その横顔を見ていた。今まで一度も見たことのない顔をしている。
「本当ですとも」
マレーナは、得意気に答えた。
「大陸中を渡り歩かれたそうです。魔物の巣を潰し、盗賊団を壊滅させ、飢えた村に食糧を運んで。……名を上げるより先に、行った先で厄介事を片づけてしまう方だったとか」
彼女の身振り手振りが大きくなっていた。やはり自分のギルドに所属していた英雄の活躍は、誇らしいのだろう。
「気づいたら、SS級になっていた。そんな話でしたね」
「その方――」
リズが、身を乗り出した。
「もっと詳しく聞かせて」
その勢いに、マレーナが目を丸くした。そして――そこで、ようやく自分が誰に何を語っているのかに思い当たったらしい。
顔から、血の気が引いた。
「……あ」
「なに?」
「も、申し訳ございません! わたし、姫殿下の前で、なんてことを……」
彼女は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、額が卓につきそうなほど頭を下げた。
「差し出がましいにも程がございます。ご息女に向かって、人伝の噂話など――」
「やめて」
リズが、鋭く言った。
マレーナが、びくりと肩を震わせる。
「……そうじゃないの。ごめんなさい、大きい声出して」
リズは、そう言い直した。
そして、しばらく言葉を探していた。
「続けて。……お願い」
その声に、マレーナは不思議そうに顔を上げた。
「知らないの、私」
リズは、首を振った。
「父のこと。城に肖像はあるわ。記録もある。……でも、それは全部、玉座に就いてからのものなの」
彼女は、膝の上で手を握った。
「冒険者だった頃の父を知ってる人が、城には一人もいないのよ」
タクミは、その言葉を黙って聞いていた。
――そういうことか。
この女は、父を英雄として知っている。国中の誰もが知っている形でだ。だが、その手前にいた男のことは、何一つ知らない。皇女に語られるのは、皇帝の話だけだからである。
だからこの女は今、ギルドの受付に頭を下げている。人伝の噂話を、もっと聞かせてくれと。
「……何でもいいの」
リズは、続けた。
「どんな些細なことでも」
マレーナは、しばらく彼女を見ていた。そして、そっと椅子に座り直した。
「……台帳を、探してみます。古い綴りは、地下の書庫に押し込んであるはずです。何年分もありますから、すぐには出てこないかもしれませんけど。……次においでになる時までに、当たっておきます」
「――ありがとう」
その声には、先ほどまでの無邪気さとは違うものが混じっていた。
しばらく、沈黙が落ちた。
やがて、リズは無理やり明るい調子を作った。
「――で、話を戻すけど。その死の森に、私たちは行くのよ」
「え」
マレーナが、目を丸くした。
「本気ですか」
「本気よ」
リズの答えにマレーナは絶句した。それから、何かに気づいたように首を傾げた。
「……でも、おかしいですね」
「何がだ」
「大樹海の近辺や、近くの街道では、しょっちゅう盗賊や魔物退治の依頼が来ます。ですが……今、お調べになったあの一帯だけは、今のところ何の依頼も出ていないんですよ。一件も」
タクミの目が、すっと細くなった。
「いったい、何が目的なんです?」
マレーナの問いに、タクミは静かに答えた。
「大樹海の、蛮族討伐の依頼を受けた」
その一言に、マレーナの顔色が変わった。彼女は素早く周囲を見回すと、ぐっと身を乗り出し、声を潜めた。
「……大樹海の蛮族って。それ、獣人の方たちのことですか?」
「獣人?」
「お願いですから、ここでは間違っても、あの人たちのことを『蛮族』なんて呼ばないでください。トラブルになりますから」
マレーナの口調は真剣そのものだった。
「貴族様やお偉い方は、蛮族だなんて思っていらっしゃるのかもしれません。でも……あの人たちは、私たち人間とそんなに変わりませんよ。言葉も通じますし、優秀な冒険者だってたくさんいます。このギルドにも、獣人族の方がいらっしゃいますし。カティアさん、っていうんですけど」
その言葉を聞いた瞬間、タクミの中で、いくつかの違和感が一本の線に繋がった。
「……やはりな。何かがおかしい」
低い呟きだった。リズが怪訝そうに彼を見る。
「どういうこと、タクミ」
「ヤポニクにも亜人種はいる。だが、話の通じない連中じゃない。彼らの土地を侵しさえしなければ、無意味に人間を襲うような種族でもなかった」
タクミは腕を組み、思考を巡らせた。
「言葉が通じ、冒険者として街に溶け込む者すらいる種族。そんな相手が、なぜ『討伐』の対象になっている? しかも、その一帯だけ、他の魔物や盗賊の依頼が一切出ていない。まるで――誰かが、その地域の情報を意図的に伏せているかのようだ」
リズの表情も引き締まった。言われてみれば、あまりにも不自然だった。
「そもそも、今回の遠征が、どういう経緯で計画されたのか。一度、きちんと調べてみる必要がありそうだな」
その声には、これまでとは違う、鋭い警戒の色が滲んでいた。




