第6話「未知の場所へ、私も踏み出す」
朝の光が、天蓋の隙間から柔らかく差し込んでいた。
「……おはよう、タクミ」
寝ぼけ眼をこすりながら、リズが上体を起こす。結局あの後、タクミは城の客室に泊まり、二人は朝食の席で顔を合わせたのだった。窓の外では、帝都がゆっくりと目を覚まし始めている。祭りの喧騒が去った通りには、いつもの穏やかな朝が戻りつつあった。露店の主人が店を開き、パン屋の煙突からは白い煙が立ち上る。水売りの声が石畳に反響し、朝靄の中を荷馬車がのんびりと行き交っていた。
「今日はどうするの?」
焼きたてのパンを頬張りながら、リズがタクミに尋ねた。昨夜あれほど心を乱していたことなど、朝の光の中ではどこか遠い出来事のようだ。だが、テーブルの下で時折タクミの様子を窺う視線には、まだ隠しきれない甘さが残っていた。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします」
入室してきたのは、近衛副団長のゲルハルトだった。相変わらず生真面目な面持ちで、手には数枚の書類を携えている。
「リーズレット殿下に、伝達事項がございます」
背筋を伸ばし、恭しく一礼する。
「本日までに決定する予定でございました此度の帝国遠征軍ですが……昨日の謁見での急な仰せにより、殿下ご自身が同行なさることとなりましたゆえ、編成を根本から見直すこととなりました。詳細が定まり次第、追ってご連絡いたします」
リズは焼き菓子を口に運びながら、気のない相槌を打った。
「それと」
ゲルハルトはタクミへと視線を移した。
「タクミ様には、皇帝陛下より邸宅が下賜されました。場所はこちらにございます」
差し出された一枚の地図を、タクミが受け取る。帝都の一角、城からほど近い区画に、赤い印がつけられていた。
「メイドも付けてございますので、今宵からでも、そちらでお休みいただけます」
「メイド?」
その一言に、それまで我関せずといった様子だったリズが、ぴくりと反応した。フォークを持つ手が止まる。
「……メイドって、何人? 若いの? 美人?」
矢継ぎ早の質問に、ゲルハルトが虚を突かれたように瞬きをする。
「は……住み込みの者を一名、手配したと聞いておりますが。年齢や容姿までは、私も存じ上げず……」
「ふうん……」
リズの声が一段低くなった。頬を膨らませ、じとりとした目つきでタクミを横目に睨む。婿となるべき男の家に、若い女が住み込むという事実が、どうにも面白くないらしい。当のタクミは素知らぬ顔で紅茶を啜っている。
「しかし、家を一軒丸ごととは。皇帝陛下も、随分と気前がいいものだな」
「まあ……姫殿下の婿候補ともあろうお方が、宿無しの風来坊では、帝国としても格好がつきませんので」
ゲルハルトの遠慮のない物言いに、タクミは肩をすくめた。
一方、リズは地図を覗き込んでいた。その位置を確かめた瞬間、ぱっと表情が明るくなる。
「ここ、お城から目と鼻の先じゃない。……決めた。今日から私も、タクミの家に泊まることにするわ」
「なっ……!」
紅茶を吹き出しかけたのはゲルハルトだった。慌てて口元を押さえ、必死の形相でリズに詰め寄る。
「お、お待ちください殿下! それはなりません! 皇帝陛下のお許しもなく、そのような……」
「お許しなんて、出るわけないでしょう。だから、私が勝手に行くの」
「そういう問題ではございません! だいたい、警備の体制が……」
「警備なんていらないわ。賊が出たって、返り討ちにしてやるもの。それにタクミもいるんだし、何の心配もないでしょう」
あっけらかんと言い放つリズに、ゲルハルトは頭を抱えた。帝国最強の姫騎士が「賊など返り討ち」と言えば、確かに反論のしようがない。だが立場というものがある。皇族の令嬢が、婚姻前の男の家に転がり込むなど、前代未聞の醜聞だ。
「そう申されましても、体面というものが……」
「いいの、ゲルハルト。もう決めたから。この話は終わり」
ぴしゃりと言い切って、リズは焼き菓子の最後の一切れを口に放り込んだ。
「お祖父様には……そうね、遠征のための軍議を開いている、とでも言っておいて。嘘じゃないでしょう? 実際、これから作戦を練るんだから」
ゲルハルトは、たっぷり十秒は天を仰いでいた。それから、この世の全ての苦労を背負ったような深い溜息とともに、力なく一礼する。
「……仰せのままに。ですが、くれぐれも、御身だけはお大事になさってください」
悄然と退出していくその背中を、タクミは同情の眼差しで見送った。あの生真面目な副団長の胃が、これから先どれほど酷使されることになるのか、想像に難くない。
ゲルハルトが去ると、二人はその日の動きについて相談を始めた。
「さて。まずは大樹海周辺の地理と、蛮族とやらの正体、それに規模について、情報を集めなければな」
タクミは地図を折り畳みながら言った。
「そのために、今日は冒険者ギルドに行く。ちょうど剣闘試合が終わったばかりだ。腕自慢の強者どもが、まだ大勢この帝都に残っているだろう。その中から、使えそうなやつを選び抜く。幸い、優勝賞金がある。傭兵を雇う元手としては十分だ」
「えっ、ちょっと待って」
リズが眉をひそめた。
「さっきのゲルハルトの話、聞いてた? 今回の遠征は、もともと帝国軍が計画してたことなのよ。準備だってもう進んでる。傭兵なんて雇わなくても……」
「たかが蛮族相手に、正規軍を動かすなど大袈裟すぎる」
タクミは即座に切り返した。
「正規軍というのは、統率された人間同士の戦にこそ真価を発揮する。だが、樹海に潜む亜人相手では勝手が違う。地の利も、戦い方も、何もかもがこちらの常識から外れている。むしろ、身軽で戦い慣れた個の力のほうが役に立つ」
リズは反論の言葉を探したが、見つからなかった。整然と隊列を組んだところで、鬱蒼と生い茂る樹海では機動力を殺されるだけだ。理屈は通っている。
「まあ、姫のお守りのためには、正規軍も仕方がないのかもしれんがな」
「お守り、って……」
リズがむっと頬を膨らませる。
「私、自分で戦えるんだけど」
「わかっているさ」
タクミは笑って、それから少し声を落とした。
「ただ、当初の計画とは事情が変わった。俺一人を蛮族退治に送り出して、そのまま見殺しにするつもりだったなら、帝国も軍など出さなかっただろう。だが、リズが同行するとなればそうもいかない。皇女に万一があってはならんからな。帝国もそれなりの軍をつけなければ、収まりがつかんのだろう」
その言葉に、リズの表情が翳った。昨日、謁見の間で祖父が漏らした本音――「邪魔者は消す」という選択肢が確かに存在していたこと――が、まだ胸の奥に小さな棘となって残っている。
「帝国軍か。まあ、考えようによっては、弾除けは多いに越したことはない。せいぜい、壁として使ってやるとするか」
冷徹な物言いだった。だが、その裏には帝国という組織への静かな警戒が滲んでいる。この男は、帝国を完全には信用していない。リズにはそれが分かった。そして、その警戒心はおそらく正しいのだということも。
「それじゃあ、冒険者ギルドに行ってみるよ」
タクミが腰を上げる。すかさずリズも立ち上がった。
「タクミ、私も行く」
「冒険者ギルドだぞ。どんな場所か分かっているのか」
タクミは苦笑した。
「荒くれ者たちの溜まり場だ。お姫様が行くようなところじゃない」
「いやよ、留守番なんて」
リズは唇を尖らせ、それから少しだけ声を小さくした。
「……それに昨日、私と離れないって、言ったじゃない」
上目遣いにそう言われては、タクミも降参するほかなかった。昨夜、袖を掴んで離さなかった手の温もりが、まだ記憶に新しい。
「……分かった。仕方ないな」
城を出て、二人は帝都の大通りを歩いていた。祭りの熱気は多少落ち着いたとはいえ、まだ屋台の並ぶ通りは賑わっている。焼き栗の匂い、大道芸人の笛の音、駆け回る子供たちの歓声。昨日と変わらぬ、平和そのものの光景だった。だがその平和の裏で、一ヶ月後には自分たちが樹海の奥で刃を交えているかもしれないのだと思うと、リズの胸に妙な感慨が過ぎった。
だが、その賑わいが二人の姿を見た途端、別の意味でざわめき始めた。
「あ、あれって……」 「昨日の剣闘試合の……!」 「姫殿下だ! 本物だ!」
人だかりがみるみる膨れ上がっていく。金の髪をなびかせた皇女と、その隣に立つ優勝者の組み合わせは、帝都中の話題をさらった後だ。隠れる術などない。
「これは……まずいな」
タクミはリズの全身を素早く見渡した。仕立ての良い上衣に、金糸の刺繍が施された帯。どこからどう見ても、貴人の装いだった。
「リズ、その格好、目立ちすぎじゃないか」
「うーん、普通の格好だと思うけど」
当人はきょとんとしている。長い金の髪は絹のように艶やかで、姿勢はどこまでも凛としており、その美貌は雑踏の中でも一際輝いていた。仮に襤褸を着せたところで、隠しきれるものではないだろう。少なくとも、一般市民の風体ではない。
「まずいわね」
「とにかく、冒険者ギルドに行く前に、一旦古着屋でも見ていかないとな」
二人は顔を見合わせ、人目を避けて路地裏へと退避した。
古着屋の軒先で、タクミは手早く平民風の外套と服を二着見繕った。リズは店の奥で着替え、しばらくして出てきたものの、どこか不満げな顔をしている。
「……きつい」
胸元を押さえながら、リズがぼそりと呟いた。庶民向けの簡素な服は、その豊かな胸の主張を抑えきれず、今にも縫い目が悲鳴を上げそうになっている。
「どう? 変じゃない?」
くるりと一回転してみせる。粗末な布地越しにも隠しきれない起伏に、道行く人々が思わず二度見していくのを、当のリズは気づいていない。
「よく似合っている。……ただ、悪目立ちしている点は変わらないな」
「なっ……そういう意味じゃないでしょ!」
顔を赤くして睨みつけるが、タクミの視線は至って真面目だった。変装のつもりが、むしろ別の意味で人目を引いてしまっている。この点だけはどうにもならないらしい。
「まあ、いい。とにかく急ごう」
誤魔化すように歩き出したタクミの後を、リズはぶつぶつと文句を言いながら追いかけた。
大通りを外れ、裏路地を幾つか抜けた先。古びた石造りの建物の壁に、剣と杯を組み合わせた紋章の看板が掲げられていた。帝都冒険者ギルド「交差する剣と杯」の本部。傭兵や冒険者たちが日々出入りする、荒くれ者たちの巣窟だ。
中からは、酒と汗と、鉄の匂いが入り混じった喧騒が漏れ聞こえてくる。
「さて」
タクミが重い木の扉に手をかけた。
「ここからが本番だ」
リズは小さく息を吸い込み、頷いた。剣闘試合とも、謁見の間とも違う、初めて足を踏み入れる世界がその先に広がっている。
二人は同時に、扉をくぐった。




