第5話「氷の剣を持つ騎士と、炎の剣を持つ王子」
謁見を終えた日の夜、リーズレットはタクミを自室へと招いた。
城の奥、皇族の私室が並ぶ一角。廊下を進むごとに人の気配が薄くなり、代わりに窓の外から届く祭りの喧騒が遠く小さくなっていく。案内の侍女が一礼して下がると、リーズレットは何やらそわそわと落ち着かない様子で、自らの手で扉を押し開けた。
「ここが……おまえの部屋か」
部屋の中に足を踏み入れた瞬間、タクミは思わず立ち止まった。
皇女に相応しい広さと格式を備えたその部屋は、しかし想像していたものとはまるで違っていた。壁際に据えられた重厚な書棚には、装丁も色とりどりの恋愛戯曲の台本がびっしりと並んでいる。天鵞絨張りの寝台の上には縫いぐるみがいくつも折り重なって転がり、机の端には食べかけの砂糖菓子の包み紙が丸められたまま放置されていた。壁に飾られているのは家紋でも武功の記録でもなく、押し花にした薔薇の栞。鎧や剣といった武人らしい調度品は部屋の隅に追いやられ、代わりに花の刺繍が施された天蓋の布が寝台を柔らかく覆っていた。
剣を振るえば帝国中の誰もが膝を折る姫騎士の部屋とは、とても思えない。
――そういえば、退場の通路でこいつは言っていたな。部屋を見たら引くぞ、と。
あの時のリーズレットは、必死に自分を下げて幻滅させようとしていた。だが実際に足を踏み入れてみれば、引くどころか、その落差にむしろ好感すら覚える。帝国最強の看板の裏に、これほど愛嬌のある素顔を隠していたのかと。
「な、なによ。文句あるの」
リーズレットは頬を赤らめながら、タクミの視線を遮るように棚の前へと素早く立ちはだかった。普段の堂々とした振る舞いはどこへやら、両手を背に回して書棚を隠そうとする仕草は、秘密の日記を覗かれた娘そのものだった。長身の彼女がそうして身を縮めていると、かえって隠しきれていない棚の背表紙が目立ってしまうのだが、当人はそれに気づいていない。
「いや。存外、可愛らしい趣味をしていると思っただけだ」
「うるさいうるさい! 見るな!」
両手を広げて棚を隠そうとするが、ほとんど隠せていない。羞恥に染まった顔で睨んでくる姿は、闘技場で幾百の刃を風で薙ぎ払った女とはまるで別人だった。
からかい半分にその背表紙を眺めていたタクミの目が、ふと一冊のタイトルで止まった。
「『氷の騎士と、たった一人の温もり』……こういう筋書きが好みなのか?」
「ちょっ……それは……!」
図星だったらしい。リーズレットの耳まで赤くなる。
「ま、まあ、そういう話は嫌いじゃないけど……。べ、別に自分と重ねてるわけじゃないから!」
しどろもどろの弁明が、かえって答えを物語っていた。タクミは小さく笑い、追及するのはそこまでにしておくことにした。
寝台の傍に置かれた小さなテーブルを挟んで、二人は椅子に腰を下ろした。ほどなく、心得た様子の侍女が湯気の立つ紅茶と、焼き菓子の載った皿を運んでくる。扉が静かに閉じると、部屋には二人きりの時間が満ちた。窓の外から届く祭りの灯りが、カーテンの隙間からぼんやりと差し込んでいる。
向かいに腰を下ろしたリズを、タクミは改めて眺めた。鎧を解いた略装のせいか、闘技場での凛々しさとは打って変わって、豊かな肢体の線が隠しようもなく浮き出ている。特に、テーブルの縁に乗り上げるようにして存在を主張するその胸元は、意識するなというのが無理な話だった。目のやり場に困る、というのはこういう状況を言うのだろう。もっとも当の本人は、そんな男の内心などつゆ知らず、無防備に紅茶へと手を伸ばしている。
ふと、リーズレットが茶器に視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
「ねえ……さっき、謁見の間で気づいたんだけど」
「ん?」
「あなた、初めて私のこと『リーズレット』って名前で呼んでくれたわね」
その声のトーンが少しだけ変わった。甘えた調子の奥に、何か確かめるような響きが混じっている。
言われて、タクミも思い返す。出会ってから今まで、ずっと「姫」「おまえ」としか呼んでこなかった。謁見の間で皇帝に宣言した時、初めて彼女の名を口にしたのだと、指摘されて初めて気づいた。あの時は場の勢いに任せた一言だったが、リーズレットにとっては違ったらしい。
「そういえばそうだったな」
「……嬉しかった」
小さな声だった。俯いた拍子に、金の髪がさらりと頬にかかる。
「ずっと『姫』とか『おまえ』とか呼ばれてて……それが当たり前だと思ってたのに、名前を呼ばれた瞬間、なんか、こう……」
うまく言葉にならないのか、両手で自分の胸元を押さえた。生まれた時から「姫」であり続けた人間にとって、固有の名を呼ばれるということが、これほどまでに特別な響きを持つとは。タクミ自身、想像もしていなかった。
「だから、ね」
一呼吸おいて、リズは意を決したように顔を上げた。
「これからは名前で呼んで。私もそう呼ぶから」
上目遣いにタクミを見る。潤んだ瞳の奥に、隠しきれない期待が揺れていた。
「リズって、呼んで」
「わかった、リズ」
名前を呼ばれた瞬間、リーズレット――リズの頬がまた赤く染まる。何度呼ばれても慣れる気配がなさそうだった。
「タクミも、これからはそう呼ぶから」
こそばゆそうにはにかむ顔は、帝国最強の姫騎士という肩書からは想像もつかないほど、年相応の女の顔をしていた。窓の外を渡る夜風が、開け放たれた窓から一陣、二人の間をすり抜けていく。
名前で呼び合う、ただそれだけのことに、リズの胸はまだ小さく高鳴っていた。
テーブルの向こうで紅茶を口に運ぶタクミを、リズはそっと窺い見る。黒髪の下の涼しげな目元、危なげのない所作。昨日、闘技場で自分を打ち破った男が、今はこうして自分の部屋で寛いでいる。その事実が、いまだに現実のものとは思えなかった。
視線を泳がせたリズの目が、ふとタクミの背後――書棚の一角で留まった。『氷の騎士と、たった一人の温もり』。先ほどからかわれた、あの一冊。何十回と読み返した物語の一場面が、自然と脳裏に蘇る。
氷のように無愛想な騎士に、心を寄せていく姫。あるとき姫は、勇気を振り絞って騎士にこう告げるのだ。
『これからは、名前で呼んで。わたくしもそう呼ぶから』
あの一節を読むたび、リズは姫の健気さに胸を熱くしたものだった。だが今になって分かる。あれは健気などという生易しいものではない。自分の心の柔らかい部分を、相手にそっと差し出すということ。拒まれるかもしれない恐怖を呑み込んで、それでも一歩を踏み出すということ。今しがた自分が口にした台詞が、どれほどの勇気を要したか。物語の姫の心が、初めて我が事として胸に迫ってきた。
物語の中で、騎士は短くこう答えた。『承知した』と。
――タクミの答えも、同じくらい短かった。
わかった、リズ。たったそれだけ。それだけのことが、こんなにも胸を満たすなんて。ページの上でしか知らなかった感情の色が、今、自分の内側で鮮やかに息づいている。
「ねえタクミってさ」
紅茶を一口含んでから、リズが切り出した。指先でカップの取っ手を弄びながら、視線はどこか宙をさまよっている。
「あの試合の時、なんで本気出さなかったの?」
核心を突く一言だった。昨日の剣闘試合、タクミはリズの聖剣と風の刃の同時攻撃に、完璧に対応してみせた。戦い慣れた者特有の、相手の力量を測るような間合いの取り方。リズはそれを見逃していなかった。五年間、数えきれないほどの挑戦者と刃を交えてきた彼女の目は、伊達ではない。
「本気だったよ。ただ、リズの身体に傷をつけたくなかっただけだ」
カチャン、と。リズの手からフォークが皿の上に落ちた。
数秒間、瞬きすら忘れていた。そして耳から首筋にかけて、みるみると赤が広がっていく。もはや茹でた海老と見分けがつかない。
「……っ」
口が開いては閉じ、開いては閉じを繰り返している。言葉が喉の途中で渋滞を起こしているらしい。テーブルの端を掴む指先に、無意識のうちに力がこもっていた。
「な、なにそれ……ずるい……」
かろうじて絞り出した一言がそれだった。テーブルの下で、リズの膝がもじもじと擦り合わされている。
両手で顔を覆って、くぐもった声で呟いた。
「試合中にそんなこと考えてたの……? 私、殺す気で突いてたんだけど……?」
事実である。風の刃を幾つも同時に展開し、全方位から叩きつけていた。あれを食らえば並の戦士なら挽肉になっていただろう。それを寸分違わず見切り、しかも自分に傷一つ負わせないよう手加減しながら制していたのだと思うと、リズの中で羞恥と感嘆がない交ぜになって渦を巻いた。
指の隙間からちらりとタクミを睨んだ。
「ばか……そんなの、好きになるに決まってるじゃん……」
本音が漏れた。城の一室の片隅、窓の外に広がる帝都の夜景を背に、帝国最強の戦姫が完全に陥落していた。
しばらくの間、リズは顔を覆ったまま俯いていた。指の隙間から見える耳も首筋も真っ赤で、紅茶の湯気よりもよほど熱を持っていそうだった。タクミはそんな彼女を急かすことなく、静かに紅茶を口に運んでその時間を待った。
だが、羞恥の熱がわずかに引くと、代わりに別の感情がリズの胸をよぎった。
「……でもさ。それって、結局私、手加減されて負けたってことだよね」
顔を上げたリズの表情には、拭いきれない翳りがあった。
「五年間、誰にも負けなかった。本気で、全力で戦って、それでも勝ってきた。なのに……あなたには、傷一つつけられないように気を遣われながら、負けたの」
声が沈んでいく。戦う者としての矜持が、ちくちくと胸の内を刺しているのだろう。手加減されたという事実は、恋心とはまた別のところで、彼女の自負を確かに揺さぶっていた。
「――それは違う」
タクミは静かに、しかしはっきりと否定した。
「俺が勝てたのは、リズの聖剣があったからだ」
「……聖剣?」
「あの試合の終盤、リズの剣を奪って一振りした時、リズの風はどうなった」
言われて、リズははっと息を呑んだ。脳裏に、あの一瞬の光景が鮮明に蘇る。奪われた聖剣がタクミの手で閃いた刹那、あれほど猛々しく渦巻いていた風が、嘘のように霧散したのだ。
「……消えた」
「そうだ。あの剣には、魔法を断ち切る力が宿っているらしい。もしあれがなければ――正面から風を纏ったリズと斬り合っていたら、俺はおまえの足元にも及ばなかっただろう」
淡々とした口調だった。だからこそ、その言葉には妙な説得力があった。
リズはじっとタクミを見つめた。謙遜なのか、それとも本心なのか。この男の涼しい顔からは、真意が読み取れない。ただ一つ確かなのは、その言葉がひどく優しい響きを持っていたということだった。自分の矜持を、そっとすくい上げるような。
「しかし――もし戦いの最中に、リズがその聖剣を敵に奪われて、しかもその敵が聖剣を使いこなせる相手だったら、どうなる?」
からかいの熱がすっと引いて、リズは瞬きをした。真剣な問いだと、直感で分かった。
聖剣には、魔法を断ち切る力が宿っている。もしその刃が敵の手に渡り、敵がその力を引き出せるだけの技量を持っていたなら――話は一変する。振るわれるたびに、リズの魔法はことごとく無力化されてしまうだろう。
「つまり、剣を奪われた上に使いこなされたら……私の魔法は、封じられるってこと」
声が掠れた。今まで欠点などないと信じていた自分の強さに、初めて明確な穴を見つけてしまったような表情だった。
そして、リズは想像した。もし本当に、そんな絶体絶命の場面が訪れたなら――目の前のこの男は、あの物語の氷の騎士のように、颯爽と自分を助けに来てくれるのだろうか。窮地の姫を、その剣で守り抜いてくれるのだろうか。
タクミは静かに続けた。
「その時は、俺がいる」
その一言に、リズの表情から強張りが抜けた。飾り気のない、けれど揺るぎのない一言。それは物語の騎士が姫にかけた誓いの言葉と、不思議なほど重なって聞こえた。
「……そうね。あなたがいれば」
根拠のない、しかし確かな安堵だった。まだ見ぬ脅威への備えを、今この瞬間に交わした約束のように、リズは静かに胸に刻み込んだ。窓の外で祭りの太鼓の音が遠く響き、部屋の空気を柔らかく揺らしていく。
その温かさの余韻に浸りながら、リズはふと、タクミの腰に佩かれた剣に目を留めた。
物語の氷の騎士は、凍てつく氷の剣を携えていた。では、目の前のこの男は――黄金の剣を持っている。鞘から覗く柄の意匠は東方風の、見慣れぬ造りだった。
「……ねえ、その剣。ちょっと見せてもらってもいい?」
昨日から気になっていた。オリハルコンの聖剣とまともに打ち合って、刃こぼれ一つしなかった剣。あんな業物、そうそうあるものではない。騎士としての興味が、抑えきれずに頭をもたげていた。
「気になるか」
タクミは腰から剣を鞘ごと抜き、テーブルの上にそっと横たえた。抜き放たれた刀身が、燭台の灯りを受けて鈍く光る。黄金色の地金は、しかし見る角度によって、燃え立つような緋色の揺らめきを帯びていた。
「緋々色金。俺の故郷、ヤポニクに伝わる宝刀だ」
「ヒヒイロカネ……」
「ヤポニクには、フジと呼ばれる霊峰がある。天を衝くほどの高さの、雪を頂いた美しい山だ。だが、その内には今なお絶えぬ炎を宿している。この剣は――その霊峰の炎の力を鍛え込んだものだと伝えられている」
炎の力。リズはごくりと唾を呑んだ。雪を被った山が、その内側に灼熱を秘めている。まるでこの男そのものだと思った。涼やかな面差しの奥に、底知れぬ何かを隠している。
その時、また物語の一節が蘇った。氷の騎士の持つ氷の剣。それは普段はただの美しい剣だが、姫がその刃に祈りを捧げた時、まばゆい輝きを放って真の力を解き放つのだ――と。
半ば無意識に、リズの手が刀身の柄へと伸びていた。
「あ、ちょっと触ってみても……」
言い終わるより早く、その指が柄を握り込んでいた。
――瞬間。
「っ……あ……」
膝から力が抜けた。まるで栓を抜かれた水瓶のように、身の内から何かがすうっと吸い出されていく感覚。指先から柄へ、柄から刀身へと、目に見えぬ流れが伝っていくのが分かる。
そして、ヒヒイロカネの緋色の輝きが――増した。
黄金の地金の内側で燻っていた炎が、リズの手を通して息を吹き返したかのように、刀身全体が鮮やかな緋色に燃え立ったのだ。
「な、なに、今の……?」
慌てて手を離すと、輝きはゆっくりと元の鈍い黄金へと戻っていった。リズの手には、名状しがたい脱力感だけが残っている。まるで、自分の中の力を少しばかり剣に分け与えたような。
物語の姫が、氷の剣に祈りを捧げて真の力を解放したように。今、自分はこの炎の剣に――。
背筋を、ぞくりと甘い戦慄が駆け抜けた。
オリハルコンの聖剣と互角に渡り合う、正体不明の宝剣。見たこともない不可視の糸を操る技。そして今の、この不可思議な現象。目の前にいる、東方の辺境から来たと嘯く一介の旅人は――いったい、何者なのか。
リズは、この男の全てを知りたくなった。
「タクミ。あなた……ただの旅人じゃ、ないでしょう」
まっすぐに射抜くような視線だった。誤魔化しは許さない、という戦士の目。
タクミは、隠す素振りも見せずに小さく笑った。
「鋭いな。……いいだろう。どうせいずれ話すことだ」
紅茶のカップを置き、彼は静かに語り始めた。
「俺の名は、タクミ・アマギ。ヤポニクの――第三王子だ」
リズの目が見開かれた。
「兄が二人いる。もっとも、腹違いだがな。俺には王位継承の資格はない。だが、それがかえって兄たちの神経を逆撫でした。母の身分が低かろうと、力を持つ弟の存在は、玉座を争う者にとっては目障りな棘だからな」
その口調に、悲愴さはなかった。ただ淡々と、遠い国の出来事を語るように。
「父は俺の身を案じ、この緋々色金を託して国を出るよう命じた。表向きは武者修行。実際のところは――厄介払いと、王家の宝を戦火から遠ざけるための、両方だろう」
リズは言葉を失っていた。第三王子。異母兄との確執。追われるように故国を後にした身の上。この飄々とした男の背に、そんな重いものが負わされていたなんて。
だが同時に、彼女の頭の中では、まったく別の思考が高速で回り始めていた。
――他国の、王族。
帝国では、貴族と平民の間に、決して越えられぬ身分の壁がある。ましてや皇族と平民の婚姻など、帝国の長い歴史を紐解いても前例が一つとしてない。だからこそ、祖父も、居並ぶ貴族たちも、タクミとの結婚に難色を示したのだ。素性の知れぬ剣闘試合の優勝者、というだけでは。
だが、他国の王族であれば――話は、まるで違ってくる。
王族同士の婚姻。それは政略として、むしろ歓迎されこそすれ、身分違いと蔑まれる筋合いのものではない。もし最初から謁見の間でその素性を明かしていれば、たとえ祖父や貴族の多くが反対したとしても、少なくとも「身分」という最大の障壁は、初めから存在しなかったことになる。
なのに、なぜ。
「……ねえ、タクミ」
リズの声が、微かに震えた。
「あなた、王族なんでしょう。それなら、どうしてお祖父様にそう言わなかったの? 最初から身分を明かしていれば、蛮族討伐なんて危険な賭けをしなくたって……私と結婚する道は、もっと簡単に開けたはずよ」
問い詰めるような口ぶりになった。責めているのではない。ただ、分からなかったのだ。この明晰な男が、なぜわざわざ最も困難な道を選んだのか。
タクミは、しばし窓の外に目をやった。遠くに揺れる祭りの灯りを見つめながら、静かに口を開く。
「帝国は、平和だ。帝都は豊かで、人々は祭りに酔いしれている。……だがな、リズ。この国の辺境はどうだ」
「え……」
「痩せた土地に貧しい暮らし。魔物や蛮族の脅威に、日々怯えながら生きている者たちがいる。帝都のこの繁栄は、そういう辺境の犠牲の上に、辛うじて成り立っているとも言える」
リズは、返す言葉を持たなかった。城の中で、剣の稽古と政務の勉強に明け暮れてきた自分は、この国の本当の姿を、どれほど知っているというのだろう。
「おまえはこれから、それを自分の目で見て、学んでいかなければならない。帝国を継ぐ者としてな。城の中の玉座に座っているだけでは、決して見えないものがある」
そして、タクミはリズへと視線を戻した。その瞳が、静かに問いかけてくる。
「リズ。おまえは――外の世界に、興味はないのか」
その一言が、リズの胸を貫いた。
外の世界。
脳裏に、この二日間の出来事が次々と蘇る。試合で手加減されていたと知った時の、あの疼くような羞恥。誰にも見抜けなかった聖剣の弱点を、あっさりと言い当てられた時の驚き。そして――「その時は、俺がいる」と言われた瞬間の、抑えきれない胸の高鳴り。
一つ一つは、些細な出来事のはずだった。それなのに、積み重なるたびに、リズの中で何かが決定的に塗り替えられていく。
この男は、自分を檻の外へ連れ出そうとしている。五年間、無敗の称号という名の鳥籠の中で、少しずつ窒息していた自分を。
――見たい。
外の世界を、この目で見たい。この男の隣で。
「……もう無理」
ぽつりと漏れた声に、タクミが顔を上げる。
――好きすぎて、頭おかしくなる……
顔を覆った指の隙間から、真っ赤に染まった耳が覗いていた。五年間、誰にも見せたことのない、ただの二十一歳の女の顔だった。
だが次の瞬間、リズの脳裏に、あの物語の結末がよぎった。
『氷の騎士と、たった一人の温もり』――その終幕で、氷の剣を持つ騎士の正体は、姫の国と敵対する隣国の王子だと明かされる。そして正体を知られた騎士は、姫を巻き込むまいと、彼女の前から静かに姿を消してしまうのだ。
炎の剣を持つ、辺境の王子。
目の前の男の境遇が、あまりにも物語と重なりすぎていて、リズは言い知れぬ胸騒ぎを覚えた。
「……そろそろ夜も更けてきたな。俺はそのへんの宿を探して休むとしよう」
名残惜しさを噛み殺すように、タクミが席を立ちかけた。
その仕草が、物語の騎士が姫の前から去る場面と、ぴたりと重なった。
――行かないで。
その瞬間、リズの手が反射的にタクミの袖を掴んでいた。自分でもその速さに驚いたのか、目を丸くする。
「……待って」
「リズ?」
「ま、まだ話したいこと、色々あるし……。城の客室くらい、いくらでも用意できるんだから。わざわざ宿になんて泊まらなくていいでしょ」
早口の言い訳だった。本音はもっと単純で、もっと子供じみたものだということは、タクミにも、そしてリズ自身にも、痛いほど伝わっていた。物語の姫のように、この男を見失いたくない。ただ、それだけだった。
しばしの沈黙が落ちた。窓の外では祭りの残り火が揺れ、遠くから酔客の笑い声がかすかに届いている。リズは掴んだ袖を離さぬまま、じっとタクミの返事を待っていた。
やがてタクミは苦笑して座り直した。
「わかった。もう少し、ここにいよう」
安堵と気恥ずかしさがない交ぜになった顔で、リズはそっと視線を逸らした。だが掴んだ袖だけは、いつまでも離そうとしなかった。
物語の騎士は、姫の前から去った。けれど、目の前のこの男は――行かないでと願った自分の手を、振り払わずにいてくれた。
それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
窓の外では、帝都の夜景に祭りの残り火が揺れていた。テーブルの上の紅茶はすっかり冷めていたが、リズの頬の熱だけは、一向に冷める気配がなかった。
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