第37話「憎いのと、殺していいのは違う」
北門が開いた時、ヴァルデンブルクの街は静まり返っていた。
三万の市民は、三日間の包囲で疲れきっていた。市場は閉じ、荷は動かず、噂だけが飛び交っている。蛮族が街道に出たという話。商館区で軍と私兵が睨み合っているという話。
その門から、一人の女が入ってきた。
銀の軽装鎧。背に流した金の髪。腰には青みがかったオリハルコンの剣。そして、兜はない。市民たちが通りの両側から見つめる中、女は大通りの真ん中で足を止め、声を上げた。
「――ヴァルデンブルクの民に告げる」
闘技場で鍛えた声だった。石壁に反響し、大通りの端まで届いた。
「私はリーズレット・ヴァレンタイン。ヴァレンタイン皇家が娘。此度の遠征軍を預かる者だ」
ざわめきが、波のように広がった。
「これより、この街の商館区に、樹海の民を入れる」
ざわめきが、悲鳴に変わった。
「蛮族だと!?」「なんてことを!」「殿下、正気ですか!」
罵声が飛んだ。石を投げようとした者もいた。だがリズは、微動だにしなかった。
「静まれ!」
その一喝が、通りを黙らせた。
「まず、伝えねばならないことがある。この街の商館区に、五つの蔵がある。……その中に、二百人近い獣人が、鎖に繋がれている」
罵声が、止んだ。
「首に枷を嵌められ、肌に番号を焼かれ、商品として売られていた。……その帳簿を、私はこの目で見た。そして今、その蔵に代官が立て籠もっている。伯爵から、証拠を処分せよという命令が届いたからだ」
リズは、通りを見渡した。
「処分とは、何を意味するか。……分かる者は、分かるだろう」
どこかで、女が悲鳴のような声を漏らした。
「知っていた者もいるだろう。薄々気づいていた者もいるだろう。……責めはしない。私も、知らなかった。だが、今日は知ってしまった。知ってしまった以上、私は行く」
リズは、北門を振り返った。
「樹海の民が来るのは、仲間を取り戻すためだ。それ以外の目的はない。彼らには、人を一人も傷つけるなと厳命してある。もし彼らが誰か一人でも傷つけたら――その責は、私が負う。この首を差し出す」
通りが、静まり返った。
「怖い者は、家に入れ。戸を閉めろ。それでいい。……だが、道を塞ぐな」
リズは、頭を下げた。皇女が、市民に向かって。
「頼む」
しばらくの間、誰も動かなかった。やがて、通りの端で一人の老婆が家の戸を開け、道を空けるように後退った。次いで、隣の家が。さらにその隣が。
道が、割れていった。
そして、北門から二百の影が入ってきた。市民たちは、声もなく見ていた。悲鳴を上げる者も、子供を抱えて家に駆け込む者もいた。だが、道を塞ぐ者は一人もいなかった。
先頭を行くヘルバルディの巨体が、朝日を浴びて大通りを進んでいく。その隣を、リズが歩いていた。
商館区は、静寂に包まれていた。街路の入り口に、帝国軍の精鋭大隊が展開している。その奥、五つの蔵。一番手前の蔵の扉は開いており、その周囲では衛生兵が地面に横たわった者たちを手当てしていた。五十人ほどが、そこにいた。
昨日、グスタフが開けた蔵の中にいた者たちである。毛布を掛けられ、水を与えられ、それでもなお、誰も帝国兵の顔を見ようとしなかった。
「――殿下」
グスタフ・ヴェーバーが、駆け寄ってきた。その顔は、一晩で十歳老けたように見えた。目は充血し、頬がこけている。
「将軍」
「申し訳ありません」
グスタフは、その場に片膝をつき呻くように歯軋りした。
「一つしか、開けられませんでした」
「充分よ」
「充分ではありません。あと四つ、あるのです。……そして、中には」
「分かってる」
リズは、グスタフの肩に手を置いた。
「開けてくれてありがとう。……あなたが昨日開けなかったら、この五十人は今頃どうなっていたか」
グスタフは答えず、ただ地面を見つめたまま、拳を握りしめていた。
「――状況を説明しろ」
タクミが、街路の奥を見据えて言った。
グスタフが、立ち上がった。
「奥の四つの蔵に、代官と私兵十数名が立て籠もっております。蔵は切石積みで、扉は鉄。窓は明かり取りだけです。……力ずくで破ることはできます。ですが」
「中の獣人が、どうなるか分からんな」
「その通りです」
「交渉は」
「呼びかけましたが、返答はありません」
タクミは、しばらく街路の奥を睨んでいた。その横顔を見て、リズも同じ引っかかりに気づいた。
――妙だわ。
代官は、逃げ場のない場所に立て籠もっている。城は包囲され、街路は軍が押さえ、私兵はほとんど剣を捨てた。勝ち目は皆無である。それなのに、交渉に応じない。立て籠もる人間は、普通、何かを要求する。逃走の保証か、身の安全か。何も要求しないというのは――
「――時間を稼いでいる」
タクミの目が、鋭くなった。
「何かの準備をしている。……全員、下がらせろ!」
その瞬間だった。
二番蔵の明かり取りの格子から、白い煙が噴き出した。
「――っ!」
煙は、みるみる濃くなっていった。二番蔵から、三番蔵へ。四番蔵へ。まるで示し合わせたように、四つの蔵すべてから煙が上がり始める。そして、格子の隙間に、赤い舌が覗いた。
「火だ! 蔵に火をつけやがった!」
誰かが、叫んだ。
街路が、混乱に陥った。帝国兵が水桶を求めて走り、指揮官が怒鳴り、その隙間を煙が這っていく。
だが、その混乱の中で、二百の獣人たちが一斉に後退った。
彼らは、動けなかった。全身の毛が逆立ち、足が地面に貼りついていた。理性ではない。血に刻まれた恐怖である。毛皮を持つ者にとって、炎はこの世で最も原始的な天敵だった。
ヘルバルディですら、動けなかった。二百年の戦士が、拳を握りしめたまま、その場に立ち尽くしている。額に脂汗が浮いていた。
「……くそ」
カティアが、歯を食いしばった。
「動け……動けよ、あたし……!」
だが、その膝は笑っていた。仲間が焼かれようとしているのに、誰も、一歩も前に出られなかった。
その時。
「――こっちだ!」
声を上げたのは、帝国軍の若い槍兵だった。彼は水桶を投げ捨て、外套を頭から被り、二番蔵の扉へ走った。
「なにやってんだ、お前!」
「扉だ! 閂を外す!」
もう一人が、続いた。三人目が。四人目が。
「――全軍!」
グスタフの怒号が、街路に響いた。
「濡れ布を頭に被れ! 扉を破れ! 中の者を全員引きずり出せ!」
「将軍、中は火が――」
「知っておるわ!」
老将は、自ら兜を脱ぎ捨て叫ぶ。
「二十年待った! 今日、俺は逃げん!」
千の兵が、動いた。そして、地獄が始まった。
鉄扉が破られると、熱風が噴き出した。中では敷き藁が燃え、煙が天井に渦を巻いている。そこへ、帝国兵が飛び込んでいった。
「おい! 立てるか!」
「鎖だ! 鎖が繋がってる!」
「工作兵! 鏨を持ってこい!」
煙の中を、手探りで進む。人影を見つけると、抱え上げ、引きずり、外へ運ぶ。運び出された者たちは、皆、痩せこけていた。久しぶりに外気を吸い、朝日を浴びて、目を開けていられずに呻いた。そして、足を折られた者が、あまりに多かった。
「担架だ! もっと持ってこい!」
「間に合わん! 手で運べ!」
街路は、叫び声と、咳と、鎖を断つ金属音で満たされた。
「――どけッ!」
その中を、黄金の刃が走った。タクミである。彼は蔵の壁面に取りつき、暗糸を明かり取りの格子に絡めていた。
「ヘルバルディ! 力を貸せ!」
「――我は、火が」
「知っている! だから壁だ!」
タクミは、蔵の側面を指した。
「切石の継ぎ目が古い。俺が糸で緩める。おまえが引け! ……扉から出せる数には限りがある。壁を開ければ、一度に運び出せる!」
ヘルバルディの琥珀色の目が、見開かれた。巨体が、震えていた。それでも彼は、一歩、前に出た。
「……我は」
歯を食いしばる。
「我は、森の守り手だ」
もう一歩。熱波が毛皮を炙り、その匂いが立ち上る。それでも、彼は止まらなかった。
「森の民を守れずして、何が守り手か――ッ!」
巨大な両手が、緩んだ切石を掴んだ。そして、引いた。
轟音とともに、蔵の壁が崩れ落ちた。煙が一気に噴き出し、中の光景が露わになる。鎖に繋がれた者たちが、壁際に折り重なっていた。
「――今だ! 運び出せ!」
リズは、聖剣を抜いていた。
「風よ」
背後に、渦が生まれた。だが、それは刃ではなかった。彼女は風を刃に変えず、ただの流れとして、崩れた壁の中へ送り込んだ。
煙が、押し流された。視界が開ける。呼吸ができるようになる。中で咳き込んでいた帝国兵が、顔を上げて叫んだ。
「見える! 見えるぞ!」
「そのまま維持して!」
リズの金髪が、風で舞い上がっている。人を助けるために魔法の力で風を吹かせたのは、生まれて初めてだった。
「――リズ! 保つか!」
「保たせる!」
汗が、額を伝った。魔力が、みるみる削られていく。それでも彼女は、風を止めなかった。
やがて、獣人たちが動き始めた。最初に前へ出たのはカティアである。彼女は震える足で崩れた壁に駆け寄り、運び出されてきた小さな体を抱き上げた。
「――大丈夫だ。もう大丈夫だ」
そして、他の獣人たちを振り返って怒鳴った。
「動けッ! あんたたち、何しに来たんだ!」
二百の影が、揺れた。一人が、前に出た。二人目が。三人目が。
火の中には入れない。それは、どうしてもできなかった。だが、運び出されてきた者を受け取ることはできた。帝国兵が煙の中から抱えてきた者を、獣人が受け取る。獣人が背負い、街路の外へ運ぶ。そこで衛生兵が水と毛布を用意して待っている。
人と、人ならざる者が、一列に並んでいた。昨日まで、互いを殺し合う存在だと思っていた者たちが。
「――足りん! まだ中にいる!」
三番蔵で、声が上がった。
「奥に十人ほど! だが火が回って――」
「――どけ」
その声とともに、巨体が突っ込んだ。ガルムである。彼は水桶を頭から被り、戦斧を杖のようにして、燃える蔵の中へ踏み込んでいった。
「ガルム!」
「探しとる娘がおるんじゃ! トゥーラ! おるか! トゥーラ!」
返事はなかった。煙の奥で、倒れた梁を蹴り飛ばす音がした。燃える敷き藁を踏む足音が、奥へ遠ざかっていく。
「……おまえ」
煙の向こうから、低い声が漏れ聞こえた。
「――この、馬鹿娘が!」
「がぁぁぁッ!」
咆哮とともに、煙を割って巨体が飛び出してきた。ガルムは、三人を抱えていた。その一番上で、トゥーラが、動けない者たちに覆いかぶさった格好のまま、意識を失いかけていた。火の粉から庇っていた腕は、抱え上げられてもなお離れていなかった。
最後の一人が運び出されたのは、それから四半刻後だった。街路は、煤と水と、横たわる人でいっぱいだった。衛生兵が走り回り、獣人が水を配り、帝国兵が煤まみれの顔で座り込んでいる。誰も、口をきかなかった。
「――全員か」
タクミが問うと、グスタフが名簿を握りしめたまま答えた。
「五つの蔵で、百九十七名。うち、重傷者三十二名。……ですが」
老将は、顔を上げた。その目に、涙が滲んでいた。
「死者は、おりません」
街路が、静まり返った。
「一人も、です」
だが、まだ終わっていなかった。
カティアが、四番蔵の残骸を見回した。
「――代官がいない。私兵は全員捕まえた。でも、あの細っこいのがいない」
「そこだ」
タクミが、崩れた壁の奥を指した。煙の中、瓦礫の隙間に人影が見えた。ヴェッセルである。彼は倒れた梁の下敷きになり、動けずにいた。片脚が挟まれ、その上を火が舐めている。
「――誰か! 助けて!」
その悲鳴に、誰も動かなかった。帝国兵も、獣人も、その場に立ち尽くしていた。この男が、火をつけたのだ。二百人を焼き殺そうとしたのだ。
「……見捨てりゃいい」
誰かが、呟いた。
「あいつが、やったんだろ」
同意の呻きが、あちこちから漏れた。その中を、金の髪が走った。
「――リズ!?」
リズは、聖剣を投げ捨て、崩れた壁の中へ飛び込んでいた。
「危険です殿下!」
「戻ってください!」
制止の声を、彼女は無視した。煙の中を這い、瓦礫を越え、梁の下敷きになった男のもとへ。
「――っ、熱……!」
彼女は、梁に手をかけた。
持ち上がらない。太い樫の梁が、燃えながらヴェッセルの脚を押さえつけている。
「なぜ……」
ヴェッセルの目が、リズを見上げた。煤にまみれ、髪を焦がし、それでもそこにいる皇女を。
「なぜ、あなたが」
「うるさい! 黙って! 一人も死なせないって、私が言ったの!」
「私は、あなたの敵だ」
「関係ないでしょ!」
彼女は、梁に肩を入れた。
「一人もって言ったの! ……あなたも、その一人なのよ!」
その時、梁が浮いた。見えない糸が、それを吊り上げていた。
「――タクミ!」
「引きずり出せ!」
リズは、ヴェッセルの襟を掴み、渾身の力で引いた。街路に転がり出た二人を、兵たちが取り囲む。リズは四つん這いのまま激しく咳き込んでいた。金の髪の先が焦げ、頬に煤がついている。
「殿下!」
「水を!」
その傍らで、ヴェッセルは仰向けに倒れたまま、空を見ていた。朝日が昇っていた。
「……なぜだ」
彼の口から、掠れた声が漏れた。
「なぜ、私を助けた」
「言ったでしょ」
リズは、咳き込みながら答えた。
「一人も、死なせないの」
「私は、二百人を焼き殺そうとした」
「知ってる」
「……あなたは、私を憎まないのか」
「憎いわよ。殴りたいくらい憎い。……でも、憎いのと殺していいのは、違うでしょう」
ヴェッセルの目から、涙が溢れ出した。嗚咽が、街路に響く。三十がらみの男が、子供のように泣いていた。
「……私は」
彼は、両手で顔を覆った。
「私は、去年、部下を一人消しました。辞めたいと言った男を。……伯爵閣下の命令で。私が、手配しました」
告白は、誰にも求められていなかった。
「そして今度は、私が消される番だった。……処分せよという書状が来た時、分かったのです。あれは、二百人と一緒に、私も燃やせという意味だと」
ヴェッセルは、泣きながら笑った。
「私は、ずっと、切り捨てられる側だったのですよ」
朝日が、煤に汚れた街路を照らしていた。誰も、その男を責めなかった。責める言葉を持っている者は、この場に一人もいなかった。




