第36話「二度目は、御免だ」
ガルムが蔵の格子越しにトゥーラと言葉を交わしていた、その同じ夜のことだった。市庁舎の一室に、一通の書状が届いていた。ヴェッセル代官がそれを読んだ時、その顔から血の気が引いた。
差出人は、帝都のフォルクヴァルツ伯爵である。文面は短かった。
――北方産の在庫、至急処分すべし。
処分。ヴェッセルは、その二文字を三度読んだ。移送ではない。売却でもない。処分である。
「……閣下は、切り捨てる気か」
彼は、書状を握りつぶした。
帝国軍に包囲され、蔵を押さえられ、荷が動かせない。この状態が長引けば、いずれ誰かが蔵を開ける。開けられれば、伯爵家は終わりだ。
ならば、証拠を消す。二百人分の、証拠を。
「……くそっ」
ヴェッセルは、机を殴りつけた。
彼とて、好んでこの仕事をしているわけではない。だが、逆らえば自分が消される。去年、辞めようとした私兵が消えたように。
彼は、扉に向かって怒鳴った。
「――誰かいるか。私兵を集めろ。四十人だ。……散らばっている者も、すべて呼び戻せ」
「代官様。街路には帝国軍が」
「街路は使わん。蔵の中で、済ませる。……人数が揃い次第だ」
人を集めるには、時間がかかった。封鎖された街の中で、私兵たちは各所の警備に散らばっている。夜のうちに呼び戻せたのは半数に満たず、残りを掻き集めるのに一夜を費やした。しかも、事情を知らせれば逃げ出す者が出る。ヴェッセルは、命令の中身を最後まで伏せたまま、ただ商館区へ集まれとだけ伝えさせた。
その報せが第三師団の耳に入ったのは、翌日の昼過ぎだった。
市街を巡回していた兵が、商館区に不審な人員の集結を認めたのである。私兵が、四十人。武装している。そして、荷馬車は一台も用意されていない。
報告を受けたグスタフは、地図から顔を上げた。
「……荷馬車が、ない」
「はっ。移送の準備ではないようです」
ハインは、それが何を意味するか分かっていないようだった。だが、グスタフには分かった。
荷を運び出すのではない。運び出せないのだ。ならば、あの蔵の中で何をするのか。
「――手空きの中隊を集めろ。武装のうえ、商館区へ急行」
グスタフが、立ち上がった。
「将軍!? しかし、相手は伯爵家の私兵です。交戦になれば」
「構わん」
グスタフの声に、迷いは欠片もなかった。
「構わんとは、そんな」
「――ハイン」
グスタフは、副官を振り返った。ハインが、口を噤んだ。
三十年、この男は自分に仕えてきた。堅実で、慎重で、決して危ない橋を渡らない将軍に。上申が握り潰されても黙って従い、無茶な命令にも耐えてきた将軍に。その将軍が今どんな顔をしているのか、ハインの目を見れば分かった。
「俺は、二十年前にも同じものを見た」
ハインの目が、わずかに見開かれた。
「別の場所で、別の名前で、同じことが行われていた。……おまえも見たな、ハイン。オーレンドルフの、あの蔵だ」
「……忘れろと、仰せでした」
「忘れられたか」
ハインは、答えなかった。
「俺は上申した。……握り潰された。書き直せと言われて、書き直して出した。それで、諦めた」
剣帯を締め、兜を手に取る。
「二十年、俺はそれを引きずってきた」
「将軍……」
「二度目は、御免だ」
グスタフは、部屋を出た。
商館区の街路は、既に緊張に満ちていた。五つの蔵の前に、私兵四十人が並んでいる。その正面、街路の入り口に、帝国兵が展開した。急を聞いて駆けつけた一個中隊、百名である。数では倍以上に勝っていた。だが、蔵の扉は私兵の背後にある。
「――ヴェッセル代官はどこか」
グスタフの声が、街路に響いた。
私兵の列が割れ、細身の男が進み出た。
「これは、ヴェーバー将軍。何用でしょうか」
「その蔵を、開けろ」
ヴェッセルの表情は、動かなかった。
「これは異なことを。ここは伯爵家の私有地でございます。帝国軍といえど、令状なくして立ち入る権限は――」
「令状なら、ある」
グスタフは、懐から一枚の紙を取り出した。
「封鎖区域内における、物資の実態調査。第五師団長レーヴェンシュタイン閣下の署名入りだ」
ヴェッセルの顔が、初めて引きつった。
「……そのようなもの、いつの間に」
「今朝、届いた」
嘘だった。
その令状は、グスタフが自分で書き、伝令を走らせ、フェリクスの署名を貰ってきたものである。半日で往復させた。そしてフェリクスは、内容を読みもせずに署名したという。
「開けろ」
ヴェッセルは、動かなかった。その背後で、私兵たちが剣の柄に手をかけた。街路の空気が、張り詰める。
剣が抜かれれば、血が流れる。そして血が流れれば、伯爵家と帝国軍の交戦という、取り返しのつかない事態になる。
グスタフは、一歩前に出た。そして、兜の目庇の下から、私兵たちを見渡した。
「――聞け」
その声は、怒鳴り声ではなかった。
「貴様らは、伯爵に雇われた者だ。忠義を尽くすのは結構。……だが、今から俺が開けるその扉の中に、何があるか知っているな」
私兵たちの列が、揺れた。
「知っていて、そこに立っている。……なぜだ」
誰も、答えなかった。
「逆らえば、消されるからか。去年、辞めようとした男が消えたそうだな。……それを聞いて、貴様らは黙った」
列の中で、一人の男が身じろぎした。日に焼けた顔に、革の胸当て。腰の短剣には、フォルクヴァルツ家の紋章。
ヨナスだった。
「――剣を抜かなければ、誰も斬らん」
低く、はっきりとした声だった。ヨナスの目が、見開かれた。
「……なあ」
ヨナスの手が、腰の短剣から離れた。そして、その場に膝をついた。
「もう、いいだろ」
その声は、隣の男に向けられていた。
「何年だ。……俺たちは、何年、飯を運んだんだ。鎖に繋がれた子供に」
ヴェッセルが、振り返った。
「ヨナス、貴様、何をしている! 立て!」
「代官様」
ヨナスは、顔を上げなかった。
「俺、去年から眠れねぇんです。……子供の顔が、出てくるんですよ」
誰も、ヨナスを立たせようとはしなかった。やがて、もう一人が剣から手を離した。次いで、もう一人。四十人の列が、崩れていった。
「貴様ら――! 貴様ら、伯爵家に仇なす気か! 全員が処罰されるぞ!」
ヴェッセルの叫びは、もう誰にも届いていなかった。
グスタフは、静かに前に進んだ。膝をついた私兵たちの間を抜け、蔵の鉄扉の前に立つ。そして、ハインに顎をしゃくった。
「開けろ」
ハインは、何も問わなかった。黙って前へ出て、閂に両手を掛けた。閂が外れ、軋みながら、扉が開いた。
そして――中から溢れ出したものに、居並ぶ帝国兵の列が凍りついた。
グスタフ・ヴェーバーは、その場に立ち尽くしていた。彼は、二十年前に目を逸らしたものを、今、正面から見ていた。
兜の下で、その顔が歪んだ。
「……ああ」
喉から、呻きが漏れた。
「なんてことだ」
同じ日の夕刻、樹海の南縁に、四つの影が現れた。タクミ、リズ、カティア、そしてヘルバルディ。七日ぶりの、平原の空だった。
谷までの往復そのものは、暗糸のおかげで三日と少ししかかからなかった。残る日数は、待つために費やされた。ヘルバルディの触れが樹海の外縁を駆け巡り、散らばった集落から者たちが集まってくるのを、境の森で待ち続けたのである。
そして、その背後の森の中で――無数の目が、光っていた。外縁の獣人たちである。ヘルバルディの触れに応じて集まった者たちが、樹々の陰に潜み、静かにこちらを見ていた。その数、二百を超えていた。
リズは、南を見た。
平原の彼方、霞の向こうに、城壁の影がある。三万人が暮らす、東部街道の商都。市が立ち、隊商が行き交い、香辛料の匂いが漂う、豊かな街。
その石畳の下に、二百人がいる。
七日前、この平原を発つ時、彼女はまだ何も持っていなかった。証拠は紙切れ同然で、法は味方せず、頼れるのはタクミたち三人だけだった。
今は、違う。
背後の森に、二百の味方がいる。首筋には、獣王の匂いがある。そして城壁の外には、一万の兵が待っている。
――待っててくれた人が、いる。
誰も助けに来なかった蔵の中で。それでも「そろそろ迎えが来る」と笑い合っていた人たちが。あの町の宿で、蜂蜜漬けを並べる日を待っている人たちが。そして、孫の友達の名前を呼び続けた、あの老人が。
七日も、待たせてしまった。
「――行くわよ」
リズは、聖剣の柄に手を置いた。
「ヴァルデンブルクへ」
夜通し、二百は歩き続けた。
平原に月はなく、道は暗かった。それでも獣人たちは足音を立てなかった。先頭をヘルバルディが行き、その後ろにリズとタクミ、カティアが続く。左右には、樹海から出てきた者たちの影が、草の中を流れるように進んでいた。
夜明け前、ヴァルデンブルクの城壁が見えてきた。
そして、その上に。
「――煙?」
リズが、足を止めた。城壁の内側、商館区のあたりから、細い煙が幾筋か立ち上っている。火事の煙ではない。焚き火のそれだった。
「篝火だ」
タクミが、目を細めた。
「夜通し焚いている。……何かが起きているな」
北門外の陣営に着いた時、フェリクスは天幕の外に立っていた。左腕を吊ったまま、城壁を睨んでいる。目の下に、濃い隈があった。
「――戻られましたか」
「フェリクス。何があったの」
「ヴェーバー将軍が、昨日、蔵を一つ開けました。ですが、残りの私兵が代官と共に、奥の四つの蔵へ立て籠もりました。中には、まだ百五十人以上が残っている」
「立て籠もって、どうするつもり」
「分かりません。ヴェーバー将軍は、突入を控えておられる。中に人質がいる状態で押し込めば、何が起きるか分からんとの判断です。……賢明でしょう」
そして、彼はリズの背後を見た。
夜明けの薄明かりの中に、二百の影が立っている。虎、狼、熊、猪。人の形をしながら、人ではない者たち。その琥珀色や金色の目が、一斉にこちらを見ていた。
第五師団の兵たちが、じりじりと後退る音がした。何人かは、無意識に槍を構えている。
「……これが、殿下の仰っていた援軍ですか」
「そうよ」
「一万の兵が、こいつらを見て何と思うか。……お考えになりましたか」
「考えたわ。だから、私が先に行く」
夜が明けきらぬ平原に、朝靄が流れていた。城壁の向こうでは、まだ四つの蔵が閉ざされたままである。その中に、まだ獣人たちが残っていた。




