第35話「あの姫さんは、あんたらに謝りに来るのさ」
ヴァルデンブルクは、朝霧の中に沈んでいた。人口三万。東部諸国へ通じる街道に面した、フォルクヴァルツ伯爵領の中心都市である。城壁は高く、門は四つ。市場には東方の香辛料が並び、隊商宿は年中埋まっていた。
その城壁の外に、一万の兵が展開したのは、三日前のことだった。第五師団は、四つの門をすべて塞いだ。街道は封鎖され、隊商は足止めを食らい、市場からは日ごとに商品が消えていった。
包囲である。だが、誰一人として矢を放っていない。
包囲三日目の朝、東門が軋みながら開いた。
といっても、人が一人通れるだけの隙間である。白旗を掲げた使者が先に出て、続いて数騎が現れた。第五師団の兵に囲まれ、武装を検められ、それから東門外の天幕へと通された。
「――何度でも申し上げますが、これは不当な措置です」
天幕の中で、男が声を張り上げていた。
三十がらみの、細身の男である。エーデルフェンの広場で家々を検めさせた、あの代官所の男だった。名をヴェッセルという。フォルクヴァルツ伯爵の名代として領都の政務を預かる、代官その人であった。
「わが領都が、なぜ帝国軍に包囲されねばならんのですか。伯爵閣下は帝都におられる。閣下がこれをお知りになれば、ただでは済みませんぞ」
「大樹海より、蛮族が街道方面へ抜けた」
左腕を吊ったまま、フェリクスは机の書類に目を落としていた。顔も上げない。負傷の痛みなど、構っている暇はなかった。
「追撃および住民保護のため、当該区域を封鎖する。……勅命による討伐作戦の一環だ」
「蛮族など、どこにおるのですか」
「行方不明だ」
「行方不明の蛮族のために、三万の都市を封鎖すると」
「そうだ」
あまりに堂々とした返答に、ヴェッセルは一瞬言葉を失った。
「……レーヴェンシュタイン閣下。ご冗談を」
「冗談を言った覚えはない」
フェリクスは、初めて顔を上げた。まっすぐに、ヴェッセルを見据える。
「不服があるなら、帝都へ上申しろ。俺は軍令に従っているだけだ」
ヴェッセルの頬が、微かに引きつった。この男は動かない、そう悟ったのだろう。彼は一拍置いて、口調を変えた。
「……では、一つだけ、お願いがございます」
「聞こう」
「城内の商館に、腐敗しやすい商品が保管されております。封鎖が長引けば、駄目になってしまう。……南の倉庫へ移送する許可を頂きたい」
フェリクスの手が、止まった。書類の上で、指がとんとんと机を叩く。
「商品とは」
「毛皮でございます。北方産の」
天幕の中の空気が、変わった。フェリクスは、しばらく黙り込んだ末に、書類を閉じた。
「――許可しない」
「なぜですか」
「封鎖中だ。人も物も、一切出入りさせん」
「しかし、腐敗すれば損害が」
「損害は、帝国が補償する。移送は認めん。以上だ」
ヴェッセルの顔が、こわばった。
「……閣下は、何をご存じなのですか」
「何も」
「では、なぜ毛皮ごときにそこまで」
「毛皮ごときに、なぜ貴様がそこまで食い下がる」
ヴェッセルは、言い返さなかった。深く一礼し、天幕を出ていく。
その背中を見送りながら、フェリクスは右手で顔を撫でた。
――北方産の毛皮、か。
あの町で、皇女は言った。円の中に、北を示す荷印。その下に番号。荷箱に捺すのと、同じ印だと。
証拠はない。あるのは、皇女の言葉だけである。
だが。
「……副官」
「はっ」
フェリクスは、羽根ペンを取った。
「城内の第三師団に、伝令を出せ。ヴェーバー将軍宛だ。城内より南へ向かう荷馬車を、一台たりとも動かすな。……理由は書くな」
その伝令が城壁を越えたのは、正午前だった。
ヴァルデンブルク市庁舎の一室。臨時の司令所として使われているその部屋で、グスタフ・ヴェーバーは書状を二度読んでから、目頭を指で押さえた。
「……そういうことか」
「将軍?」
副官のハインが、怪訝そうに顔を上げた。
「なんでもない」
グスタフは、書状を折り畳んだ。表向きは平静を装ったが、指先には力がこもっていた。この街で、うっすらと形を結びつつあった疑念が、たった今、輪郭を持ったのだ。
この二十日、彼は市街の警戒任務に就いてきた。街を巡回し、獣人の襲撃に備え、報告書を書いた。だが、その二十日で一度も襲撃はなかった。
その代わりに、彼は幾つかのものを見た。夜更けに商館の裏手へ入っていく、幌をかけた荷馬車。伯爵の私兵が交代で守っている、五つの蔵。そして、その周囲だけ、街の匂いが違うということ。
――見て見ぬふりを、また続けるのか。
あの東方の男の声が、耳の奥で響いた。
――握り潰されたことは、あんたの恥じゃない。だが、次に黙れば――あんたの恥になる。
グスタフは、机の上で拳を握った。
「ハイン。第一中隊を、商館区へ回せ」
「は?」
「封鎖中の物資移動は、すべて軍の管理下に置く。……荷が一つでも動いたら、止めろ」
「し、しかし将軍。あそこは伯爵家の私有地でして」
「私有地の中には入らん。門の外に立つだけだ。……街路は、公道だからな」
ハインが、口を開けたまま固まった。
私有地には手を出さない。だが、そこから出てくる道を押さえれば、蔵の中身は一歩も動かせなくなる。二十年、規程を端から端まで読んできた男の勘所だった。
「……承知しました」
同じ日の夜。城壁の北西、水路が街の外へ抜ける水門のあたりに、大柄な人影があった。
「……よっこらせ」
ガルムである。戦斧を背に括りつけ、水路の壁面に手をかけている。石積みの隙間に指を突っ込み、人並み外れた巨体を、じりじりと引き上げていた。
「うおっと。……くそ、歳は取りたくないもんじゃ」
彼は帝国軍ではない。傭兵である。従って、封鎖線を出入りしても軍法には触れない。もっとも、伯爵の私兵に見つかれば、そんな理屈は通用しないが。
半刻ののち、ガルムは城壁の内側に降り立っていた。街は静まり返っていた。市場は閉じ、酒場は開いているが客はまばらだった。
「――さて、と」
彼が最初に向かったのは、その酒場だった。
「まったく、いつまで続くんだよ、この封鎖はよう」
三杯目の麦酒を呷りながら、ガルムは声を張り上げた。
「荷が出せねぇ、荷が入らねぇ。ワシは西の隊商の護衛でな、こんなとこで足止め食らって商売あがったりよ」
カウンターの隣に座った男が、げんなりした顔で頷いた。
「そりゃ災難だな」
「あんたは?」
「……俺は、まあ、そのへんの警備だ」
三十前後、日に焼けた顔に、革の胸当て。腰に提げた短剣の柄には、フォルクヴァルツ家の紋章が刻まれている。伯爵の私兵だった。
「へえ、伯爵様んとこの。そりゃ結構なご身分だ」
「結構なもんかよ」
男は、麦酒を一息に呷った。
「毎晩毎晩、蔵の前で突っ立ってるだけだ。誰も来やしねぇのに」
「蔵?」
「……いや、何でもねぇ」
男の口が、閉じた。
ガルムは、それ以上突つかなかった。代わりに、店主に手を上げた。
「おい、こっちに一杯。ワシの奢りだ」
「悪いな」
「気にすんな。話し相手が欲しかっただけよ」
それからしばらく、二人は他愛のない話をした。天気、女房、麦酒の味。ガルムは聞き上手だった。相手が喋りたそうな話題には食いつき、喋りたくなさそうな話題からは離れた。
やがて、男の口が緩んできた頃。
「……なあ、旦那」
男が、麦酒の泡を見つめながら言った。
「あんた、傭兵だろ。……いろんな仕事をしてきたか」
「まあな。人に言えねぇのも、いくつかある」
「その中で」
男の声が、低くなった。
「……子供に、飯を運ぶ仕事ってのはあったか」
ガルムの手が、止まった。
「……ほう」
「泣いてる子供にな。鎖に繋がれてる子供に。……毎晩、桶に粥入れて、格子の隙間から差し入れるんだ」
男は、乾いた笑いを漏らした。
「最初はよ、犯罪者だって聞いてたんだ。密入国者だとか、盗賊だとか。……でも、五つの子供が盗賊やるか?」
「やらんな」
「だろ」
男は、麦酒を睨んだ。
「辞めようと思った。何度も。……でも、辞めた奴が去年、行方不明になった。それで、みんな辞めなくなった」
ガルムは、少し間を置いてから尋ねた。
「あんた、名は」
「……ヨナス」
ガルムは、その名を刻みつけるように小さく頷き、声を潜めた。
「ヨナス。……もし、あの蔵の扉が近いうちに開くとしたら。……あんたは、どっちに立つ」
「あんた、何を」
「答えなくていい」
ガルムは、麦酒を飲み干して立ち上がった。
「ただ、覚えとけ。……その日が来たら、突っ立ってるだけでいい。剣を抜かなきゃ、誰もあんたを斬らん」
そして、卓に銀貨を数枚置いた。
「奢りだ。またな」
深夜。商館区の裏手、石畳の路地に、ガルムは腹這いになっていた。
五つの蔵が、そこにあった。どれも切石積みの頑丈な造りで、窓は明かり取りの小さな格子だけ。入り口には鉄扉。そしてその前に、槍を持った私兵が二人ずつ立っている。
だが、街路の入り口には帝国軍の兵が並んでいた。第三師団である。私兵たちは、明らかに落ち着きを失っていた。
「……なるほどな」
――あの兄ちゃん、一月近くも前からこれを。
ガルムは、身を低くしたまま蔵の裏手へ回った。
五番蔵。ドランがいたという蔵である。その壁面、地面から一丈ほどの高さに、明かり取りの格子があった。
ガルムは、壁の凹凸に手をかけ、音を殺してよじ登り、格子に顔を寄せた。
匂いが、噴き出してきた。汚物と、汗と、それから薬草の匂い。戦の後の救護所で、何度も嗅いだ匂いだった。ただし、規模が違った。
「……くそったれが」
ガルムの喉から、低い唸りが漏れた。
闇の中に、目が慣れてくる。人影が、幾つも横たわっていた。数えきれない。壁際に寄り集まり、身を丸めて眠っている。首には枷。足には鎖。
その中に、小さな影が混じっていた。
「――おい」
格子越しの囁きに、いくつかの影がびくりと動いた。
「静かにしろ。……敵じゃねえ」
闇の中で、目が幾つも光った。
「……人間か」
掠れた声が、奥で上がった。
「そうだ。だが、あんたらを連れ出しに来た人間だ」
沈黙。やがて、乾いた笑い声が返ってきた。
「またか」
「また?」
「そう言った奴が、去年もいた。……そいつは、次の日に売られていった」
ガルムは、唇を噛んだ。この中の誰も、もう何も信じていない。
「……なあ」
ガルムは、格子に顔を押しつけた。
「この中に、トゥーラってのはいるか」
闇が、静まり返った。
「……いる、けど」
小さな声だった。
「あんた、誰」
「エーデルフェンから来た」
その一言に、蔵の中がざわめいた。
「エーデルフェン……?」
「あの町の、じいさんに頼まれてな。毎年、蜂蜜を持ってきてくれた娘っこがいたと。……孫と、よく遊んでたと」
闇の奥で、何かが動いた。鎖が、じゃらりと鳴る。小さな影が、格子の下までよろよろと這ってきた。
月明かりが、その顔を照らした。十五、六だろうか。栗色の髪に、丸い耳。痩せこけて、頬骨が浮いている。だがその目だけは、はっきりとガルムを見ていた。
「……ハンスの、おじいちゃん?」
娘の声が、震えていた。
「生きてるの? あのおじいちゃん、生きてるの?」
「生きてる。ずっと、あんたのことを探しとった。……あんたが生きてるって聞いた時、あのじいさん、声を上げて泣いたぞ」
トゥーラの顔が、歪んだ。両手で口を押さえ、声を殺して泣き始めた。首の枷が、その動きに合わせて肌に食い込んでいる。
「よく聞け。近いうちに、この扉が開く。……何日後かは、まだ言えん。だが、必ず開く」
「……本当に?」
「本当だ」
ガルムは、格子越しに手を差し入れた。太い指が、娘の細い手を握った。
「その日が来たら、走れ。北へ走れ。……門は、開けてある」
「走れない人が、いる。足を折られてる人が、たくさんいる。子供も。……置いていけない」
ガルムの手に、力がこもった。
――ああ、こいつら。
鎖に繋がれて、明日売られるかもしれん奴らが、まだ他人の心配をしとる。
「置いていかん。一人残らず連れ出す。……そのために、人が来る」
「人?」
「帝国の姫さんだ」
トゥーラの涙が、止まった。
「……皇女様が? なんで」
「そりゃあ、な」
ガルムは、髭の奥で笑った。
「あの姫さんは、あんたらに謝りに来るのさ」
ガルムが城壁を越えて戻ったのは、夜明け前だった。




