第34話「小僧、また来たのか」
風が止むと同時に、獣王が再び口を開いた。
『娘。其方に、我の匂いを与える』
「……匂い?」
『我が息を、其方に吹きかける。その匂いは、二年は消えぬ』
獣王は、ゆっくりと頭を持ち上げた。苔が剥がれ落ち、蔦が千切れる。何年も動かなかった巨躯が、その巨大な鼻先をリズへと近づけてきた。ヘルバルディが、平伏したまま身を強張らせた。
『森の民は、鼻がよい。……この匂いを嗅げば、いかなる者も、其方が我の客であることを知る。奥の谷の者どももだ』
「それは、つまり」
『其方を襲う獣人は、我に牙を剥いたことになる。我はもう歩けぬ。故に、其方が我の代わりに歩け。……森の民が人を殺す前に、其方が人を止めよ』
リズは、深く頭を下げた。
「はい」
巨大な鼻先が、彼女のすぐ前で止まった。そして、息が吐き出された。温かい、湿った風だった。腐葉土と、雪と、途方もなく古い何かの匂いがした。それはリズの全身を包み、髪を、鎧を、肌を撫でていく。リズは目を閉じて、それを受けた。息が止んだ時、彼女は自分の身体が変わったことに気づいた。何が変わったのかは分からない。ただ、確かに何かが刻まれていた。
『それと、ヴァルデンブルクとやら。……二百人が囚われておると申したな』
「はい」
『取り返せ』
獣王の声が、谷を震わせた。
『ヘルバルディ』
「――は」
『森の民のうち、外縁の者どもに触れを出せ。娘に力を貸せ、とな。我の名においてだ』
平伏していた虎の巨体が、跳ね起きた。
「よろしいのですか。……外縁の者を、人の町へ?」
『よい。ただし、条件がある。人を、殺すな。一人でも殺せば、それは侵攻となる。侵攻となれば、人は軍を出す。……そうなれば、我が耐えてきたものが、全て無駄になる。取り返すだけだ。奪われたものを、取り返すだけよ』
「……仰せのままに」
そして、獣王はリズを見た。
『娘。其方が指揮を執れ』
「私が、ですか」
『其方は人の側の将であろう。……人と森が並んで戦う。その頭は、人でなければならぬ』
リズは、目を見開いた。この老王は、ただ助力を与えたのではない。人間と獣人が肩を並べて戦う、その最初の一例を作れと言っているのだ。
「……承知しました」
『さて』
獣王の声が、わずかに緩んだ。
『そこの、東方の子よ。其方は、何も求めぬのか』
「特にないな。俺が欲しいものは、自分で取る」
『……ふ』
獣王の喉が、また鳴った。
『よい返事よ。……ならば、忠告だけしておこう。其方の剣は、あの女が鍛えたものだ。そして、あの女は無駄なことをせぬ。魔力を吸って炎に変える剣。……この大陸で、魔力を持つ人の子は数えるほどしかおらぬ。そんな剣を鍛えて、誰に持たせるつもりであったと思う』
タクミの表情が、変わった。
『其方の国に古くから伝わる、と申したな。では、あの女はなぜ、それを其方の国に置いた』
答えは、なかった。
『考えておくがよい。……いずれ、必要になる』
獣王の声が、そこで途切れた。疲れたのだと、誰の目にも明らかだった。
『……もう、眠る』
白い巨体が、ゆっくりと頭を地に横たえた。
「あの、待ってください。あなたのお名前を、まだ伺っていません」
金の目が、半ば閉じられたまま、リズを見た。
『名か。……とうに忘れたわ。長く生きすぎた。……獣王でよい』
「では、獣王様。必ず、戻ってきます。全部終わったら、報告に来ます」
『……阿呆め』
獣王の声が、遠くなっていく。
『あの男も、同じことを言うた。……そして、二十五年帰ってこなんだ』
「私は、帰ってきます。約束します」
金の目が、ゆっくりと閉じられた。
『……ならば、それまでは死なずにおこう』
その一言を最後に、白い巨体は動かなくなった。規則正しい呼吸だけが、谷底に残った。谷を出るまで、誰も口をきかなかった。
樹海の天蓋を渡る風は、来た時よりも幾分か軽く感じられた。木々の合間を縫って進む足取りにも、迷いがなくなっていた。
「――ねえ」
半刻ほど歩いたところで、リズが口を開いた。
「さっきから、様子がおかしいわよ」
「……そうか」
「そうか、じゃないでしょ」
リズは、隣を歩くタクミの横顔を見上げた。
「獣王様が言ってたじゃない。剣から、魔王の匂いがするって。……それに、あなた自身からも、同じ匂いがするって。何年も、同じ屋根の下にいたはずだ、って」
タクミは、すぐには口を開かなかった。倒木を跨ぎ、羊歯を掻き分け、何十歩か進んでから、ようやく前を向いたまま話し始めた。
「――ヤポニクには、古い伝承がある」
「伝承?」
「三柱、と呼ばれるものだ。獣王、竜王、魔王。……人智の及ばぬ、三つの力。神ではないが、神に最も近いもの。御伽噺だと思っていた。子供に聞かせる、ただの言い伝えだとな。……だが、実際にこの目で見て、考えが変わった」
「じゃあ、あのお方が」
「獣王だろう。伝承通りならな」
リズの足が、一瞬止まった。名前があったことよりも、あれが御伽噺そのものだったということのほうが、リズには重く響いたらしい。
「……それで? 『同じ屋根の下』って、心当たりがあるの」
「ある。さっき、一つ思い出した」
声に戸惑いが滲むのを、タクミは自分でも抑えられなかった。前を見据えたまま、意識はどこか遠くにあった。
脳裏を、故郷の光景が過ぎっていた。霊峰フジの麓。杉の巨木に囲まれた、地図にも載らぬ隠れ里。母がいた場所であり、自分が幼少期を過ごした場所である。
暗糸を教わったのも、そこだった。
そして――あの社。
誰も入ることを許されぬ奥の間。年中垂れ下がったままの御簾。その向こうから聞こえる、若い女の声。
――『小僧、また来たのか』
――『オバハン。今日は暇なんだよ』
――『誰がオバハンじゃ。妾はこう見えて、そなたの何倍も若いぞ』
――『見えねぇんだよ、御簾があるから』
里の者は皆、彼女を首領と呼んだ。姿を見た者は一人もいない。里の古老が言うには、その祖母の代から声も口調も変わっていないという。
「……オバハンだ」
タクミは、今度は声に出して呟いた。
「オバハン?」
「俺が育った里の、巫女衆の首領だ。名を、朔夜という」
「サクヤ」
「今、思い出していたのは、その朔夜との、餓鬼の頃のやり取りだ。……姿も見せず、社を出ず、何十年も年を取らない。子供の頃は、それを不思議とも思わなかったが」
「その人が、魔王だって言うの?」
「まだ、決まったわけじゃない」
言葉とは裏腹に、自分の声に迷いがないことは、タクミ自身が一番よく分かっていた。
「だが、獣王が鼻で嗅ぎ分けたのが本当なら……この剣を鍛えたのも、幼い頃の俺が近くにいたのも、同一人物だということになる」
リズは、しばらくタクミの横顔を見つめていた。
「――びっくりしたでしょう」
「ああ。生まれて初めてだ。言葉が出なかったのは」
「あなたのそんな顔を見たの、初めてだわ」
リズは、少しだけ意地悪く笑った。
帰り道の間じゅう、リズの頭の中では、一つの想像が像を結びつつあった。人智を超えた三柱のうちの一柱が、遠い東方の島国で、少年の隣に座って軽口を叩いていた。そんな途方もない話が、今、目の前を歩くこの男の過去として存在している。
いつか、ヤポニクという国そのものを見てみたいと思った。
三日目の朝、外縁の境に戻ると、そこにカティアが座り込んでいた。ずっと一人で、待ち続けていたらしい。目の下に隈があり、毛皮の外套は夜露で湿っていた。
「――姫さん!」
カティアは跳ね起き、駆け寄ってきて――足を止めた。
鼻を、鳴らした。琥珀色の瞳が、みるみる見開かれていく。
「……この、匂い」
カティアの膝が崩れ、その場にへたり込んだ。
「嘘だろ。……あの方の、匂いだ」
「カティア」
「あんた、あの方に会って……認められたのか」
リズは膝をつき、カティアの肩に手を置いた。
「あなたの話も、全部したわ。あなたが、ずっと独りで調べてきたこと。子供が消えてること。……あの方は、全部ご存じだった」
カティアの目から、涙が溢れた。
「そうか。……ご存じ、だったのか」
彼女は、両手で顔を覆った。
「なら、いい。……あたし一人が騒いでるだけじゃ、なかったんだ」
リズは、その背中を撫でた。しばらくして、カティアは乱暴に目元を拭い、立ち上がった。
「……で? これからどうするんだ」
「取り返しに行くわ。ヴァルデンブルクへ。……二百人、全員」
リズも、膝の土を払って立った。
「森の連中は」
「貸してもらえることになった。外縁の民に触れを出す。獣王様の名において」
カティアの尻尾が、ぴんと立った。
「……マジか」
「ただし、条件がある。人を、一人も殺さないこと」
カティアの表情が、こわばった。
「……それは」
「難しいのは分かってる。あそこには私兵がいて、絶対に抵抗する。……でも、一人でも殺したら、それは侵攻になるの」
「分かってる。あたしだって、そこまで馬鹿じゃない。……森が滅ぶのは、御免だ」
リズは、南の空を見た。三日ぶりに見る空だった。木々の切れ間の向こうに、青が広がっている。その先に、ヴァルデンブルクがある。城壁の中に、二百人がいる。首に枷を嵌められ、番号を焼かれ、蔵に押し込められた二百人が。その中に、蜂蜜を売っていた娘がいる。
――待ってて。
リズは、心の中で呟いた。
――今度こそ、迎えに行くから。




