第33話「では、俺が何とかしよう」
『魔王が鍛えた剣を、なぜ人の子が佩いておる』
魔王が鍛えた剣――獣王のその言葉が、谷の底に重く沈んでいった。
タクミは、答えられなかった。魔王。その名を知らないわけではない。ヤポニクにも伝承はある。獣王、竜王、魔王――人智の及ばぬ三柱。神ではないが、神に最も近いもの。だが、それは御伽噺の中の存在だった。少なくとも、自分の腰の剣と結びつくようなものでは、断じてなかった。
「……何かの、間違いだろう」
ようやく、それだけを絞り出した。
「これは、俺の国に古くから伝わる宝刀だ。誰が鍛えたのかは、記録にも残っていない」
『鼻は、嘘をつかぬ』
獣王は、少しも動じなかった。
『我はもう目が霞み、耳も遠い。だが、鼻だけは衰えておらぬ。……その刃には、あの女の匂いが染みついておる』
――あの、女。
タクミの思考が、一瞬止まった。
『しかも、鍛えた者の残り香だけではない。其方自身から、同じ匂いがする』
「俺から?」
『長く、近くにおった者の匂いだ。一度や二度会うただけでは、こうはならぬ。……何年も、同じ屋根の下におったであろう』
谷の底が、しんと静まった。
『名は、問うまい』
獣王の声が、その沈黙の上に静かに落ちた。
『其方が誰を思い浮かべたにせよ、我の口から確かめてやることはできぬ。……あの女には、あの女の理由がある。我とあれは、互いに干渉せぬ。三柱とは、そういうものよ。知りたくば、直接問え。……ただし、答えるかどうかは、あれ次第だがな』
その言葉を最後に、タクミへの興味は失せたように、金の目が再びリズへと戻った。
「――あの」
膝は震えていたが、それでもリズは一歩前に出た。
「私の父のことを、聞かせてください」
『テオドール、と申したか』
父の名を、この生き物が知っている。それだけで、リズの目の奥が熱くなった。
『人の子が一人、この谷まで辿り着いた。……我も驚いたものよ。あの頃はまだ、我も目が見えておった』
「父は、何をしに来たのですか」
『何もしに来ておらぬ』
平坦であった獣王の声に、微かな笑いが混じったように、リズには思えた。
『ただ、来た。奥に何があるか見たいと言うてな。……阿呆であろう』
リズの目から、涙がこぼれた。五つの時に消えた父の記憶は、もう輪郭も定かではない。大きな手と、低い笑い声と、抱き上げられた時に見えた高い天井。それだけだった。その朧げな像に、また一つ、色が足された。
『三月ほど、この谷におった。我と語り、森の民と語り、そして帰っていった。……人の子と友になったのは、あれが初めてであった。其方の背にある剣も、あの時あれが佩いておった。……あれは剣を抜かなんだ。ここへ来て、ただの一度もな』
「父は、その後……父は、どうなったのですか。十六年前に、行方不明になって、それきり……」
白い巨体が、ゆっくりと息を吸い、吐いた。背に生えた若木が、その動きに合わせて揺れる。
『……知らぬ。二十五年前に帰って以来、あれとは会うておらぬ。……十六年前に何があったかも、我は知らぬ』
「そんな……」
『ただ、一つだけ、覚えておることがある。別れ際に、あれは言うた。いずれ北へ行くとな』
「北」
『大山脈だ。……我の領域は、この森までよ。あの山の向こうがどうなっておるか、我は知らぬ。あそこは、我のものではない。別の者の、領分よ』
獣王はそこで言葉を切り、金の目を静かに閉じた。それ以上は語らぬ、ということらしかった。
一拍置いて、リズはその場に膝をついた。苔むした谷底の土に両膝を揃え、額が地につくほど深く頭を下げる。
「――申し上げます」
声が、震えていた。
「私は、リーズレット・ヴァレンタイン。ヴァレンタイン帝国の、皇位継承者です」
白い巨体は、動かなかった。
「私の国が、あなたの民に何をしてきたか、申し上げます。三年前から、私の国の貴族が、獣人を捕らえて奴隷として売っています。ヴァルデンブルクという町の蔵に、今も二百人近くが囚われています。子供もいます。逃げようとした者は、片足を折られます。肌には、荷箱に捺すのと同じ印を焼かれます。番号を振られて、帳簿に載せられて、商品として売られていく。これまでに、百人以上が売られました。どこへ行ったのかは、誰にも分かりません」
風が、金の髪を揺らした。
「そして、それを裁く法が、私の国にはありません。私の国の法は、こう定めています。『あらゆる人間は、何者にも所有されない』と。……人間、と書いてあります。そして、人間とは何かは、どこにも書かれていません。だから貴族たちは、こう言うのです。獣人は人間ではない、と。……その一言で、全部が合法になります」
リズの拳が、土を握りしめた。
「その法を作ったのは、私の高祖父です。奴隷を根絶するために作った法でした。……それが今、こんな使われ方をしています」
リズは、顔を上げた。涙は流れていなかった。ただ、目が赤かった。
「私は、何も知りませんでした。城で剣を振って、政務を学んで、それで国のことを分かったつもりでいました。……申し訳ありませんでした。私の国が、あなたの民にしたことを、皇位を継ぐ者として謝罪します」
そして、もう一度、額を地につけた。
長い沈黙が続いた。谷底の苔を、風が撫でていく。やがて、獣王が口を開いた。
『――知っておる』
リズは、弾かれたように身を起こした。
『子らが消えておることも、南で何が行われておるかも。……我は、知っておった。森は我の身体のようなものよ。木が一本折れれば分かる。子が一人消えれば、なおさらだ』
「……ご存じ、だったのですか」
『最初の子が消えた時から、森は騒いだ。奥の谷の者どもが、南へ降りると言い出した。……我は、止めた』
「……なぜ」
『勝てぬからよ』
獣王の答えには、少しの迷いもなかった。
『森の民は強い。一対一なら、人の兵など百人束ねても敵うまい。……だが、人は数が違う。武器が違う。そして、何より恐ろしいものを持っておる。時間よ』
時間。リズは、その一語を胸の中で繰り返した。
『人は死ぬ。だが、代を継ぐ。祖父が敗れれば父が挑み、父が敗れれば子が挑む。……我らはそうはいかぬ。我らは長く生きるが、数が増えぬ。一度大きく減れば、二度と戻らぬ。森が南へ降りれば、人は必ず滅ぼしに来る。一年か、十年か、百年かは知らぬ。だが必ず来る。……そして我らは、その百年を耐えられぬ』
獣王は、そこで少し間を置いた。
『故に、我は止め続けた。子を奪われても、殺されても、耐えよと言い続けた。……我は自分の民に、我慢せよと言い続けてきたのだ』
その声に、苦いものが混じった。
『だが、それも終わる。我が命が、尽きる』
その一言に、ヘルバルディが平伏したまま身を震わせた。
『長く生きすぎた。もう身体は動かぬ。目覚めておるのも、月に一度あるかないかよ。……そう遠くない。我が死ねば、森を止める者はおらぬ。奥の谷の者どもが南へ降りる。人はそれを蛮族の侵攻と呼び、軍を出す。……そこから先は、どちらかが滅ぶまで終わらぬ』
リズの背筋が、凍った。この老いた王が逝けば、その瞬間に始まってしまう。
『我は、待っておった』
「……待っていた?」
『人の側に、これを止める者が現れるのをよ。森を止めるのは、我にしかできぬ。だが、人を止めることは、我にはできぬ。……人を止められるのは、人だけよ』
金の目が、まっすぐにリズを見た。
『あの時、我はあの男にそれを話した。テオドールに。あれは、こう言うた。「では、俺が何とかしよう」とな。阿呆であろう。人の子が一人で、何ができるものか。……だが、あれは本気であった』
獣王の声に、微かな笑いが戻った。
『そして、消えた。……我は、待ち続けた。二十五年もな』
リズは、何も言えなかった。
『そして今、あの男の娘が、あの男の剣を背負って、我の前で頭を下げておる。……娘よ。其方は、我に許しを乞いに来たのか』
リズは一瞬考えてから、首を横に振った。
「いいえ。許してもらえるとは、思っていません。ドランの足は治りません。焼き印も消えません。売られた百人は帰ってきません。……許される理由が、私の国にはありません」
『では、なぜ来た』
「謝りたかったからです。許してもらうためじゃなくて。……謝らずに助けるのは、盗んだものを黙って返すのと同じだと思ったから」
金の目が、わずかに動いた。
『……ふむ』
「それと、法を変えます。人間とは何かを、書き足します。獣人を、そこに含めます」
谷が、静まり返った。
『――娘』
獣王の声が、低くなった。
『法を変えれば、人の心も変わるか』
試すような響きだった。リズは少し考えてから、正直に答えた。
「変わりません。法を変えても、獣人を嫌う人は嫌うままです。差別も、たぶんなくなりません。……それは、分かっています。法は、心を変えられません。でも、何をしても恥をかかずに済むか、その線を引くことはできます。今、あの人たちは胸を張って言えるんです。獣人は人間じゃないから合法だ、って。堂々と、帳簿に書いて、値段をつけて。……法がそれを許しているから」
リズの声に、力が入った。
「その言い訳を、潰します。潰せば、次の言い訳を探さなきゃいけなくなる。そして次の言い訳は、今より必ず弱くなります。それを何度も繰り返すしか、方法がないと思っています。……時間はかかります。私が死ぬまでに終わるかも分かりません」
『……ふ』
獣王の喉が、鳴った。それは、笑いだった。
『似ておるな。あの男も、そういう言い方をした。……夢を語るのではなく、手順を語る。人の子の中でも、そういう者は珍しい』
白い巨体が、わずかに身じろぎした。
『よかろう』
その一言とともに、安堵にも似た気配が谷に漏れた。谷を渡る風だけが、しばらくの間、三人と一匹の間を吹き抜けていった。




