第32話「魔王が鍛えた剣を、なぜ人の子が佩いておる」
半日の跳躍の後、一行は水場のそばで休息を取った。地面に降ろされたリズは、ぜえぜえと肩で息をしており、しばらく四つん這いのまま動けなかった。
「……もう、やだ。……吐きそう」
「顔が真っ青だぞ」
「誰のせいだと思ってるのよ」
水を飲み、ようやく人心地ついた頃には、日が傾き始めていた。焚き火を囲んで、四人は座った。カティアが射止めた鳥が、串に刺されて炙られている。
ふと、リズが口を開いた。
「ねえ、タクミ。聞きたいことがあるの」
「なんだ」
「ヒヒイロカネのこと」
リズは、焚き火の向こうに横たわる剣を見た。黄金色の刀身が、炎を反射して緋色に揺らめいている。
「今朝、あれが燃えたでしょう。あれって、いつもああなるの? 誰が持っても?」
「――いや」
タクミは、首を横に振った。
「あれを見たのは、俺も初めてだ」
リズが、目を見開いた。
「初めて? あなたの国の宝刀でしょう?」
「宝刀だ。だが、燃えたという記録はない」
タクミは、剣を手に取り少し抜いた。黄金色の中に緋色の揺らめきが見える。
「父から受け取った時、こう言われた。『これは緋々色金という。だが、その真の力を見た者は、この国に一人もおらん』とな」
「一人も……」
「言い伝えだけはあった。霊峰の炎を鍛え込んだ剣だと。……だが、それは眉唾だと思っていた。実際、何百年も、ただの丈夫な剣だったからな」
タクミは、刀身を焚き火にかざした。鈍い黄金が、炎を映して揺れる。だが、それだけだった。緋色に燃え上がる気配は、微塵もない。
「俺が振っても、こうだ」
タクミはヒヒイロカネを青眼に構え、一閃した。しかし、静寂の森に空気を斬る音がしただけだった。
「……なんで?」
リズは、食い入るように刀身を見つめていた。
「魔力がないから、だろうか」
タクミは、確信のない声で言った。
「この剣には、魔力を吸って、炎に変える力があるのか。……だとしたら、俺には吸われるものがない」
リズの手が、無意識に自分の胸元を押さえた。剣を握った時の、あの感覚を思い出しているのだろう。
「じゃあ、私が」
「そうだ」
タクミは、剣を鞘に納めた。
「おまえが握ったから、目を覚ました。……何百年も眠っていたものが、な」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
「変ね。私、魔法が使える人間って、この大陸でも数えるほどしかいないって聞いてるわ。……なのに、東方の国の剣が、魔力で目覚める仕組みになってるって」
タクミの手が、止まった。
「……というと?」
「だって、おかしいでしょう。魔法が使える人間がほとんどいない世界で、魔力がなきゃ本領を発揮できない剣を作っても、意味がないじゃない」
沈黙が、落ちた。タクミは、鞘に納めた剣を見下ろした。
――言われてみれば、その通りだ。
この剣は、使い手を選ぶ。それも、極めて稀な使い手を。まるで、最初から特定の誰かのために作られたかのように。
あるいは。
「……誰が作ったんだ、これは」
タクミが、初めてその問いを口にした。
「これはヤポニク王家に伝わる宝刀でな。持つ者が、王たる資格を得るとされている。……だが、誰が鍛えたのかは伝わっていない。俺も、考えたことすらなかった」
焚き火の向こうで、ヘルバルディが目を開けた。それまで黙って座っていた虎の巨体が、ゆっくりとこちらを見ていた。だが、何も言わなかった。
二日目の朝、樹海の様子が変わった。
それまでも巨木ばかりの森だったが、この一帯はまるで規模が違った。幹回りは十丈を超え、隆起した根が地面そのものを持ち上げている。鳥の声すら聞こえない。重いのではなく、濃い。何か途方もなく大きなものの気配が、この空間全体に染み込んでいるようだった。
「……ここから先は」
ヘルバルディが、足を止めた。声を潜めている。
「あの方の領域だ」
リズは、思わず息を殺した。隣を見ると、カティアが蒼白な顔で立ち尽くしていた。三角の耳がぴたりと頭に伏せられ、尻尾が脚の間に巻き込まれている。
タクミは、無言であたりを見回していた。木々の隙間、地面の起伏、風の抜け方。それらを一つずつ確かめるように目で追っている。戦場に踏み込む時と同じ目だった。だが、その口から出たのは、戦況分析ではなかった。
「――退路は、考えるだけ無駄そうだな」
誰にともなく呟いただけだった。この場に、駆け引きの通用する余地は欠片もない。それを一瞬で悟った上での言葉だと、リズには分かった。
「……あたし、ここから先は、行けない」
カティアが、その場に膝をついた。
「身体が、動かない。森の掟だ。あたしみたいな外縁の者は、ここから先へは入れない。入っちゃいけないって、身体が知ってる」
琥珀色の瞳に、涙が滲んだ。
「くそっ。あたしが、一番あの人に会いたかったのに」
リズは膝をつき、その肩に手を置いた。
「あなたの分も、話してくる。子供が消えてること。あなたが三年間、独りで調べてきたこと。……全部、話してくる」
カティアは、しばらくリズの顔を見ていた。そして乱暴に目元を拭った。
「……頼んだ」
残る三人が谷にたどり着いたのは、その日の夕刻だった。
谷、と聞いていた。だが、リズの想像とはまるで違うものだった。巨大な窪地の底に、樹海の全ての木を集めたよりもなお大きな、一本の樹が立っている。いや――樹だと思ったのは、幹だけだった。
「――あれは」
リズの喉が、鳴った。その根元に、山があった。白い山だった。苔と蔦に覆われ、地面と一体化しかけている。だがよく見れば、それは規則的に、ごくゆっくりと上下していた。
呼吸である。
白い毛皮に覆われた、途方もない大きさの生き物が、そこに横たわっていた。背丈はヘルバルディの十倍はあるだろうか。狼のようにも、獅子のようにも見える。だが、そのどちらでもなかった。あまりに古すぎて、もはや何の獣なのか判別がつかない。毛はすべて白い。老いによる白ではなく、雪のような、光を含んだ白だった。背中の毛の間からは、細い若木が数本、実際に根を張って伸びている。何十年、あるいは何百年、この生き物がここを動かなかった証だった。
「……獣王」
ヘルバルディが、その場に平伏した。あの二百年の戦士が、地に額をつけている。
「お眠りだ」
小声で、彼は囁いた。
「見ての通りだ。いつお目覚めになるかは、我にも分からぬ」
リズは、動けなかった。膝が震えている。恐怖ではなかった。あるいは、恐怖という言葉では足りなかった。人智を超えたものの前に立った時、人の身体はこうなるらしい。
「……待つのか」
タクミが、静かに問うた。
「待つ。それしかない」
ヘルバルディは、平伏したまま答えた。
「一日か、十日か。……あるいは、二度と」
その言葉が終わらないうちに、空気が動いた。
白い山の鼻先が、微かに震えた。匂いを、嗅いだのだ。
「――なっ」
ヘルバルディが顔を上げた。琥珀色の目が、驚愕に見開かれている。白い巨体がゆっくりと身じろぎし、背の若木が揺れ、苔がぱらぱらと剥がれ落ちた。
瞼が、開いた。
金色だった。瞳孔のない、溶けた黄金のような目である。それが、谷の底から三人を見上げた。リズは悲鳴を上げなかった。上げられなかったのだ。息そのものが、止まっていた。
これまで剣を握ってから幾多の猛者と刃を交えてきた。だが、今この瞬間ほど、自分がちっぽけな存在だと思い知らされたことはなかった。膝の震えは、恐怖ではない。もっと根源的な何か――生き物として格の違うものを前にした時の、本能の慄きだった。
『――久しいな』
声が、聞こえた。耳からではない。頭の中に、直接。深く、遅く、大地が語るような響きだった。
『まともに目覚めるのも、幾年ぶりか』
巨大な鼻先が、わずかに動いた。リズの背に固定された聖剣を、金の目が捉える。
『そこな娘』
「――は、はいっ」
『其方の背にあるもの。……それは、我が友の剣だ』
「友……?」
『二十五年ほど前であったか。人の身でここまで来た、面白い男がおった。……よもや、その剣を娘が背負って現れるとはな』
金の目が、細くなった。笑ったのかもしれない。
『似ておる。目が』
リズの視界が、滲んだ。父の記憶はもう朧げにしか残っていない。それでも、この一言だけで、輪郭のなかった父の姿に、初めて確かな色がついた気がした。
「あの、それは、私の父で……」
『――そして』
だが、その声はリズを遮った。金の目が動く。リズから、その隣に立つ黒髪の男へ。そして、彼の腰に佩かれた黄金の剣へ。
『……ほう。これは、驚いた』
谷の空気が、震えた。ヘルバルディが弾かれたように平伏し直す。獣王の声に、明確な感情が乗ったのだ。二百年を生きた戦士ですら、聞いたことのない声なのだろう。
『其方』
金の目が、タクミを見据えた。
『あの女の匂いがする』
タクミの眉が、動いた。
「……女?」
『其方の腰のそれ。それを鍛えた者だ』
獣王の声は、静かだった。だが、その静けさが、かえって重かった。
『魔王が鍛えた剣を、なぜ人の子が佩いておる』
樹海の谷に、風が渡った。リズが、ゆっくりとタクミを見た。
その隣で、タクミは――完全に言葉を失っていた。どんな相手の前でも次の一手を口にしてきた男の、こんな顔を、リズは一度も見たことがなかった。




