第31話「この鼓動は、タクミのせいか高所のせいか」
出立は、その日の昼前だった。
エーデルフェンの町外れ、樹海との境目に、四つの影が立っていた。タクミ、リズ、カティア、そしてヘルバルディ。
見送りに出てきたのは、女将のマルタと、あの老人と、その孫だった。町の者たちは遠巻きに立って、こちらを見ている。
「殿下」
マルタが、布に包んだものを差し出した。
「大したもんじゃありませんが。……干し肉と、パンです」
「ありがとう」
「あの」
マルタの声が、震えていた。ただの旅の余所者に向けるには、あまりに情のこもった響きだった。
「……本当に、行かれるんですか。森の奥まで」
「行くわ」
「戻ってこられます?」
リズは、すぐには答えなかった。慰めの言葉なら、いくらでも並べられる。だが、この町の人々に、それは似合わない気がした。
「分からない」
マルタの顔が、くしゃりと歪んだ。それでも、リズは続けた。
「でも、戻ってきたら、この町に、また市を立てましょう。……蜂蜜漬けを並べて」
その一言に、マルタは声を上げて泣き出した。
樹海に足を踏み入れた瞬間、世界が変わった。
まず、光が消えた。
頭上を覆う枝葉の層が、幾重にも重なっている。地面に届く光は、木漏れ日ですらない。緑がかった薄闇が、あたり一面に沈殿していた。
次に、音が消えた。
平原を吹いていた風が、ここには届かない。代わりに聞こえるのは、遠い鳥の声と、湿った土を踏む自分たちの足音だけである。
そして、匂いがした。
腐葉土と、苔と、樹液と、獣。数百年、数千年と降り積もった生と死の匂いが、大気そのものになっていた。
「……すごい」
リズは、思わず立ち止まっていた。
人の背丈を超える羊歯が茂り、幹回り数丈という巨木が、天を突いて並び立っている。その根元には、倒木が苔に覆われて横たわり、そこから新しい若木が生えていた。
「これが、大樹海」
「まだ入り口だ」
ヘルバルディが、前を歩きながら言った。
「ここは外縁。カティアのような者が暮らす場所だ。……奥は、こんなものではない」
「ヘルバルディ。谷まで、歩いて四日と言ったな」
「言った」
「最短の道を行けば、どれほどだ」
ヘルバルディが、足を止めた。振り返り、その琥珀色の目を細める。
「……何を言っている」
「四日の道というのは、迂回路だろう。地形を避け、歩ける場所を繋いだ道だ。……直線なら、どれほどの距離になる」
「二日、いや、一日半といったところか。だが、無理だ」
「なぜだ」
「途中に、断崖がある。深さ五十丈の谷が三つ。それに、渡れぬ川と、抜けられぬ藪。……我でも、直線では行けぬ。……翼でもあれば別だがな」
「翼はない。だが、糸はある」
ヘルバルディが、ぴくりと耳を動かした。
「……今朝の、あれか」
「あれだ」
タクミは、左手を軽く上げた。
次の瞬間、彼の身体がふわりと持ち上がった。
何もない空中を、糸に引かれるように上昇していく。十丈、二十丈。あっという間に、頭上の枝の一つに到達し、そこに立った。
「――なっ!?」
リズが、口を開けたまま見上げた。
「あんた、そんなことも……」
カティアも、呆然と呟いた。
枝の上から、タクミが見下ろしてくる。
「木の上を渡っていけば、断崖も川も藪も関係ない。……最短距離を行ける」
「待て」
ヘルバルディが、地上から吼えた。
「貴様一人ならばそうだろう。だが、娘はどうする。あの女もだ」
「カティアは自力で登れる。獣人だからな」
「あたしは平気だ」
カティアが、頷いた。実際、彼女はすでに近くの幹に手をかけている。
「おまえは、その膂力なら跳べるだろう」
「……まあ、な」
「では、残るは一人だ」
タクミの目が、リズを見た。リズは、その視線を受けて、じりじりと後退った。
「え。……え、待って」
「リズ」
タクミが、名を呼んだ。
「待って待って待って」
両手を突き出して、リズは首を振った。
「私、鎧着てるのよ。重いのよ。それに、その、あの」
「どうした」
タクミが、怪訝そうに首を傾げた。その視線を受けて、リズの顔が、みるみる赤くなっていく。
そして、蚊の鳴くような声で、ようやく白状した。
「……高いところ、苦手なの」
沈黙が落ちた。
「……はぁ?」
最初に声を出したのは、カティアだった。
「あんた、帝国最強の姫騎士だろ?」
「関係ないでしょ! 剣と高さは関係ないでしょ!?」
リズが、真っ赤な顔で叫んだ。
「城の物見櫓だって、私、一度も上ったことないんだから! みんな知らないだけよ! 誰にも言ってないんだから!」
「……いや、まあ」
カティアが、口元を押さえた。肩が震えている。
「笑うな!」
「笑ってない」
カティアは、震える肩を隠そうともしなかった。
「笑ってるでしょ絶対!」
頭上の枝で、タクミが小さく息を吐いた。
「なるほどな」
「なるほどじゃないわよ! どうするのよ!」
「決まっている」
タクミは、枝から音もなく舞い降り、リズの正面に立った。そして、両腕を広げる。
「掴まれ」
リズの動きが、止まった。
「……は?」
「俺が運ぶ。落ちないように、しっかり掴まっていろ」
リズの顔が、耳の先まで真っ赤に染まった。
「む、無理よ!」
「なぜだ」
「なぜって、その、だって……!」
言葉にならなかった。高いところが怖い。それは本当だ。だがそれ以上に、この男に密着した状態で、五十丈の谷の上を飛ぶ――その状況を想像しただけで、心臓が破裂しそうだった。
「歩いて行く! 四日かかっても歩いて行くから!」
「その四日で、獣王が死んだらどうする」
タクミの一言に、リズが凍りついた。
「……あ」
「時間がない。おまえが一番よく分かっているはずだ」
リズは、唇を噛んだ。その通りだった。獣王の命は残り少ない。目を覚ますのも月に一度か二度。二日半を無駄にできる状況ではない。
「……分かった」
リズは、覚悟を決めたように、鎧の留め具に手をかけた。
「な、なにしてるんだ」
「鎧を着たままじゃ、重すぎるでしょう。それに……あなたにしっかり掴まるなら、これは邪魔になるわ」
肩当てが外され、胸当てが外される。下に着込んでいた薄い服だけになると、リズの身体の輪郭が、隠しようもなく露わになった。冷たい森の空気に、白い肌が僅かに粟立つ。
脱いだ鎧を手早くまとめ、カティアに預ける。それから、震える手で聖剣だけを背に回して固定した。
そして、意を決したように、タクミの前に立った。
「首に、腕を回せ」
「わ、分かってるわよ」
おずおずと、両腕を伸ばす。
タクミの首に腕が回された瞬間、二人の身体が密着した。鎧という隔てを失った分だけ、その距離は昨日までよりずっと近かった。早鐘を打つ自分の鼓動が、薄い服越しにそのまま伝わってしまいそうだった。
「……っ」
タクミの動きが、一瞬だけ止まった。
「な、なによ。もしかして、重いとか思った?」
「いや」
タクミは、咳払いをした。目を逸らし、努めて平静を装う。だが、その耳の先が、微かに赤らんでいるのが見えた。
「しっかり掴まっていろ。……振り落とされても知らんぞ」
「む、無理よ、そんなの!」
リズは、腕にさらに力を込めた。
「怖いんだから。……もっと、強く抱きしめてよ」
「……やれやれ」
タクミは、小さく息を吐いた。呆れたような、それでいてどこか観念したような声だった。
「しょうがないでしょ」
リズが、拗ねたように言い返す。その拍子に漏れた吐息が、タクミの首筋を微かにくすぐった。
タクミの喉が、小さく鳴った。
この男がこれほど平静を失うのを、リズは初めて見た気がした。だが今は、それを面白がる余裕は、彼女にもなかった。
「――行くぞ」
左手が、上がった。
浮遊感が、腹の底から突き上げてきた。
「――ひぇっ」
情けない声が、リズの喉から漏れた。
地面が、遠ざかっていく。羊歯の海が、みるみる小さくなる。十丈、二十丈、三十丈。頭上を覆っていた枝葉の層を突き抜け――視界が、開けた。
樹海の天蓋の上だった。緑の海が、地平の果てまで広がっている。うねる波のように起伏し、昼の光を受けて輝いていた。その遥か北に、雪を頂いた大山脈が霞んで見える。だが、リズにはそれが見えなかった。
「リズ。目を開けろ。絶景だぞ」
「無理! 絶対無理!」
「落ちんぞ」
「そういう問題じゃないの!」
リズは、目を固く閉じて、タクミの首にしがみついていた。全身の力で。爪が背中に食い込むほどに。そして、タクミの身体が、宙を滑った瞬間、耳元で悲鳴を上げた。
「きゃあああああっ!」
「――っ!」
タクミが、顔をしかめた。
「耳元で叫ぶな。鼓膜が破れる」
「そんなこと言われても、無理なものは無理なのよぉっ!」
振り子のように弧を描き、次の巨木の枝へ。着地の瞬間に糸を放ち、また跳ぶ。木から木へ、樹海の天蓋を跳躍していく。
「――っ! っ!!」
その一跳びごとに、リズの腕に力が入った。
「ひっ……あっ……あん……!」
「……リズ。少し緩めろ。息ができん」
「無理ぃっ!」
少し離れた枝を、カティアが軽やかに走っていく。その後ろから、ヘルバルディが枝を撓ませながら跳んでくる。
「なあ、ヘルバルディ」
カティアが、走りながら言った。
「あの二人、なんか楽しそうじゃないか?」
「……そう見えるな」
虎の巨体が、低く唸った。
「命懸けの旅の途上とは、思えぬ」
樹海の天蓋を、四つの影が跳んでいく。獣王の待つ谷は、まだ遠い。だが少なくとも今この瞬間だけは、その道行きに、笑い声が絶えなかった。




