第30話「生きて森を出た、ただ一人の人間」
カティアの頭から、ようやく大きな掌が離れた。焼け焦げた平原に、朝の光が少しずつ広がっていく。膝をついたまま二人を見ていたリズが、顔を上げた。
「……ヘルバルディ。一つ、聞かせて。あなたは、森を代表してここに来たの?」
「否。我は、勝手に来た。誰の許しも得ておらぬ」
「じゃあ、森は――」
「森には、王がおる」
その一言に、場の空気が変わった。
「王?」
「獣王。……我ら森の民の、頂点に立つお方だ」
ヘルバルディの声が、初めて畏敬の色を帯びた。
「森の最奥、誰も辿り着けぬ谷にお住まいだ。歳は、我らの誰も知らぬ。数百年とも、それ以上とも言われる」
「その人が、森を止めてるの?」
「そうだ。三年、森が耐えたのは、あの方が『動くな』と仰せられたからだ。人間と戦えば、互いに滅ぶ。……あの方は、それを誰よりもご存じだった」
そこで、その声が翳った。
「だが、あの方はもう長くない」
リズの、肩が跳ねた。
「今はほとんど、眠っておられる。目を覚まされるのは、月に一度か二度。……そのお命が尽きれば」
ヘルバルディは、地面を見た。
「森を止める者が、いなくなる」
平原に、冷たい風が渡った。
――時間が、二つ切れかけている。
蔵の二百人が売り飛ばされるまでの時間と、獣王の命が尽きるまでの時間。どちらか一方でも尽きれば、全てが崩れる。隣でタクミの目が細くなったのも、同じ勘定をしたからだろう。
「ヘルバルディ」
呼びかけた声は、もう震えていなかった。
「私を、獣王のところへ連れて行って」
全員が、リズを見た。
「――何と?」
「会いたいの。今、あなたに謝ったことを、あの人にも言いたい。……森の王に、この国の次の主が、直接謝りたいの」
「娘。……分かって言っておるのか」
ヘルバルディの声が、低くなった。
「森の奥は、たとえ獣人であっても外縁の民は容易に踏み込めぬ場所だ。まして人間が辿り着いた例は、我の知る限り――」
そこで、言葉が途切れた。
「じゃあ、私が最初になる。二百人を助けるだけじゃ足りないの。それは、盗んだものを返すだけよ。……盗んだことを、謝らなきゃいけない」
リズは、膝をついたまま虎の巨体を見上げた。目は、逸らさなかった。
その目を受けた瞬間、ヘルバルディの動きが止まった。
「……ぬ」
琥珀色の瞳が、リズの顔の上で動かなくなった。戦いの最中にも見せなかった表情だった。困惑でも警戒でもない。もっと深い場所を、不意に掻き回された者の顔だった。
「その、目は。……馬鹿な。あり得ぬ」
ヘルバルディの視線が、リズの顔から下へ滑った。
彼女の傍らに突き立てられたまま、朝日を弾いている剣。
青みがかった、オリハルコンの刀身。
その瞬間、虎の巨体が――たじろいだ。
一歩、後ろへ下がったのである。三十本の槍を弾き、丸太を薙ぎ払い、炎に焼かれてなお膝をつくだけだった巨躯が、剣を一振り見ただけで。
「……その剣。どこで手に入れた」
「え?」
「答えろ。どこで手に入れた」
初めて、その声が荒くなった。
リズは、戸惑いながらも答えた。
「父の、形見よ」
平原に、風だけが渡っていく。
「父、だと」
「私が五つの時に、行方不明になったの。……もう十六年になるわ」
ヘルバルディの巨体が、微かに震えていた。
焼け焦げた胸が、ゆっくりと上下している。何かを噛み殺すように、あるいは、遠い記憶を手繰り寄せるように。
「ヘルバルディ?」
カティアが、恐る恐る声をかけた。
「あんた、どうし――」
「――我は、その剣を知っている」
「知ってる、って」
リズが、身を乗り出した。
「どういうこと? 父を知ってるの? 会ったことがあるの!?」
「……言えぬ」
ヘルバルディは、目を閉じた。
「我の口から語ってよいことではない」
「そんな――」
「娘」
琥珀色の目が、開いた。
そこにはもう、動揺はなかった。だが、代わりに別のものが宿っていた。畏敬に、近いものだった。
「先ほど、我はこう言いかけた。人間が森の奥に辿り着いた例は、我の知る限り――と」
ヘルバルディは、ゆっくりと立ち上がった。
焼け焦げた胸を朝日に晒し、見上げるほどの高さから、膝をついたままの皇女を見下ろす。
「一度きりだ」
リズの唇が、小さく開いた。
「二十五年ほど前になる。……あの方の谷まで辿り着き、生きて森を出た人間が、ただ一人おった」
「それって」
「それ以上は、言わぬ。我が語るべきことではない。……あの方に、直接お聞きするがいい」
そして。
「……面白い」
虎の口の端が、初めて笑みの形に歪んだ。
「二百年生きて、これほど面白い人間は初めてだ。……いや。二度目、と言うべきか」
琥珀色の目が、タクミへ、フェリクスへ、そして再びリズへと移った。
「よかろう。案内してやる。……ただし、条件がある」
「なに?」
「あの方が目を覚まされるのは、月に一度か二度。……次がいつかは、我にも分からぬ」
ヘルバルディは、北の樹海を振り返った。
「谷までは、歩いて四日。あの方が眠っておられれば、目覚めるまで待つことになる。その間、貴様らは森の中だ。戻れる保証はない。……それでも来るか」
「行くわ」
答えは、訊かれる前から決まっていた。
日が、昇りきった。
崩れた防衛線には、まだ煙が燻っていた。衛生兵が負傷者を運び、工作兵が折れた丸太を片づけている。呻き声はあちこちから聞こえたが、白布を被せられた担架は、一つもなかった。
仮設の天幕の中で、フェリクスは左腕を吊っていた。軍医が骨を接ぎ、添え木を当て、包帯で肩から吊るしている。血の気の引いた顔で、それでも彼は椅子に座って地図を睨んでいた。
「――第五師団を、ヴァルデンブルクへ動かしてもらいたい」
天幕に入ってきたタクミの第一声に、フェリクスは地図から目を上げた。
「……ほう」
「町を包囲する。人も物も、一切出入りさせるな」
「包囲」
その一語を、フェリクスは舌の上で転がした。
「貴様、それが何を意味するか分かっているのか」
「分かっている」
「ヴァルデンブルクは、帝国貴族フォルクヴァルツ伯爵の領都だ。そこを帝国正規軍が包囲する。……大義がなければ、それは叛乱だぞ」
天幕の中の空気が、張り詰めた。
皇帝の勅命は「大樹海の蛮族討伐」である。伯爵領の都を包囲せよなどとは、どこにも書かれていない。
「大義はある。蛮族が街道方面へ抜けた。追撃と、住民保護のため、第五師団は該当区域を封鎖する。……これでどうだ」
天幕の入り口に、虎の巨体が腕を組んで立っている。フェリクスは、そちらへ顎をしゃくった。
「――蛮族は、そこにいるが。二百年生きた蛮族が、目の前で茶を飲んでいるのだがな」
「茶は飲んでおらん」
ヘルバルディが、低く唸った。
「事実、防衛線は破られた。そして破った者の行方は、貴殿の報告書の上では不明のままだ。……違うか」
フェリクスは、右手で顎を撫でた。
「……なるほど。書面上は、成立する」
「成立すればいい」
「だが、伯爵の私兵が抵抗すれば、どうなる。帝国軍と領主私兵の交戦だぞ。……それこそ、後で首が飛ぶ」
「抵抗はできんよ。ヴァルデンブルクの中には、既に第三師団の精鋭一個大隊がいる」
フェリクスは、顎を撫でていた手を止めた。
「グスタフ・ヴェーバー将軍が、自ら率いて入っている。市街の警戒任務でな。……伯爵の私兵は、城壁の中で帝国軍千名と同居している状態だ」
「……待て」
自分の声が、妙に遠く聞こえた。
「では、外から一万に囲まれ、内には千の帝国軍」
「そうだ。私兵が動けば、内と外から挟まれる。……動けるはずがない」
フェリクスは、地図に目を落とした。ヴァルデンブルクを囲む線の内と外に、指を一本ずつ置く。
「――貴様。あの大隊の派遣を決めたのは、いつだ」
「二十日ほど前だ。帝都で、ヴェーバー将軍に会った時にな」
「……その時から、これを見ていたのか」
「まさか。あの時点では、何も分かっていなかった。獣人が売られていることも、蔵の場所も。……ただ、あの町が絡んでいることだけは、確かだと思った」
「ならばなぜ、大隊を入れた」
「駒は、盤の上に置いておかねば使えん。使い道が決まっていなくてもだ。……置いておけば、必要になった時に動かせる」
タクミは、二十日前、まだ何も知らない段階で、あの町に千の兵を置いた。使い道も分からぬまま。そして今、その千が、包囲を成立させる要となっている。
――化け物か。
「……もう一つ、確認させろ」
「なんだ」
「城内の第三師団と、城外の我が第五師団。両者は互いを敵と誤認せんのか。連絡もつかぬ状態で、片方が城壁の内、片方が外だぞ」
「それは心配ない。ヴェーバー将軍には、命令を二つ与えてある。一つ、獣人を捕らえるのは構わんが、殺すな。……そしてもう一つ」
一拍、置いた。
「帝国軍同士は、味方だ。これを絶対に忘れるな、とな」
「……あの時から」
「当然のことを、わざわざ言った」
タクミは、口の端を上げた。
「将軍は、怪訝な顔をしていたよ。当然のことでありますが、とな」
――二十日前。第五師団がどこでどう動くかも決まっていない段階で、タクミは既に、味方同士が刃を向け合う場面を想定していた。そして、それを防ぐ一言を、現場の指揮官の頭に刻み込んでいた。
フェリクスは、右手で顔を覆った。そして、天幕の中で、初めて笑った。
「……はっ」
乾いた、しかし紛れもない笑い声だった。
「はははっ。……なるほど。貴様が何者か、確かめさせてもらうと言ったな」
顔から手を離し、まっすぐタクミを見た。
「見せてもらった。……十分だ」
そして、右手一本で立ち上がった。
「第五師団、ヴァルデンブルクへ進発する。町を封鎖し、蟻一匹通さん」
「ガルム。おまえは第五師団に同行しろ」
「ワシがか?」
天幕を出たところで、ガルムが目を丸くした。
「なぜじゃ。ワシも森へ行きたいんじゃが」
「森へ入れば、八日は連絡が絶える。往復でな。しかも、獣王が眠っていれば、目覚めるまで待つことになる。……十日か、半月か。それすら分からん」
ガルムの眉が、跳ね上がった。
「そんなにか」
「その間、あの町の周りには一万の兵がいる。そして城壁の中には、二百人の獣人がいる。……何かが起きた時、事情を知っている人間が一人もいないのは危険だ」
「事情を知っとる人間、な」
「フェリクスは知った。だが、あの男は帝国軍人だ。軍令の枠の外へは出られん」
タクミは、ガルムの肩を叩いた。
「おまえは違う。傭兵だ。……いざとなれば、命令を無視して動ける」
ガルムは、髭を撫でた。その下で、口がにやりと曲がる。
「なるほどな。ワシは、盤の外に置く駒か」
「そういうことだ」
「気に入った」
戦斧を担ぎ直し、ガルムは大きく頷いた。
「任せておけ。何かあったら、勝手にやる」
言うが早いか、ガルムは第五師団の天幕が並ぶほうへ、大股に歩き出した。その背中を見送ってから、タクミは北を振り返った。平原の果てに、樹海の黒い縁が横たわっている。あの奥で眠る王が次に目を覚ますまでに、谷へ辿り着かねばならなかった。




