第29話「ヒヒイロカネが、初めて燃えた」
ヒヒイロカネは、燃えながら宙を舞った。朝の平原に、緋色の軌跡が奔った。
狙いなど、あったものではない。倒れたまま、腕の力だけで投げたのだ。刃は回転しながら、タクミの頭上を大きく逸れて飛んでいく。
だが、タクミの左手が、上がった。
見えない糸が、宙を走った。
炎の刃の柄に絡みつき、軌道が変わる。放物線が捻じ曲げられ、燃える剣が引き寄せられ――
その掌に、収まった。
「――ッ!」
柄を握ったタクミが、地を蹴った。傷ついた身体が、それでも跳ねた。
ヘルバルディが、両腕を上げた。この戦いで幾度もそうしてきたように、腕で受け止める構えである。カティアの矢を弾き、ガルムの斧を耐え、リズの風を防いだ、鋼のような肉の盾。
だが、今度は違った。
迫るのは、刃ではない。
炎だった。
「――ぬぅっ!?」
初めて、ヘルバルディが後退した。
腕で受ければ、焼かれる。獣の本能がそれを悟ったのが、タクミには見えた。その一瞬の逡巡が、致命的だった。
タクミの刃が、上がった腕の内側へ滑り込んだ。
緋色の軌跡が、朝の空気を裂いた。
轟音。
炎が、爆ぜた。
ヘルバルディの胸から肩にかけて、火柱が奔った。橙と黒の毛皮が一瞬で焼け焦げ、その巨体が仰け反る。膝が折れ、大地が揺れた。
「ぐ、おおおおおッ!!」
初めての、苦悶の咆哮だった。巨体が、片膝をついた。
その喉元に。
燃える刃が、突きつけられた。
時が、止まったようだった。平原に、風の音だけが残った。燃えるヒヒイロカネの刃先が、ヘルバルディの喉から指一本の距離で静止している。刀身の炎が、その毛皮を焦がしていた。
タクミは、動かなかった。
「――斬れ」
ヘルバルディが、言った。膝をついたまま、顔を上げてタクミを見据えている。恐怖はもう、その目になかった。
「敗れた。……我が負けだ」
「そうか」
「斬れと言っている」
ヘルバルディの声には、怒りすらあった。
「森の戦士は、敗れて生き恥を晒さぬ。……早くしろ」
タクミは、答える代わりに――刃を、引いた。燃える剣を下ろし、切っ先を地面へ向ける。
「――なに?」
そして、その瞬間。
剣の炎が、ふっと消えた。
緋色が引き、刀身は元の鈍い黄金に戻った。十歩後方で、リズが力尽きて倒れ込んだのだ。
「リズ!」
カティアが、駆け寄った。
タクミは振り返らなかった。背後の気配で、リズにカティアがついたと分かる。それだけで、肩の力がわずかに抜けた。
「……なぜだ。なぜ、斬らぬ」
「必要がないからだ。おまえは、こちらの兵を一人も殺さなかった。三十人が突っ込んで、全員が骨を折られただけだ。追い討ちもかけていない」
ヘルバルディの琥珀色の目が、揺れた。
「……見ていたのか」
「見なくても分かる。死体がないからな」
タクミは、ヒヒイロカネを鞘に納めた。
「殺す気のない相手を殺す趣味はない。……それだけだ」
ヘルバルディは、膝をついたまま動かなかった。
焼け焦げた胸に、朝の風が触れる。やがて、その口から、低い呻きのような声が漏れた。
「……分からぬ」
「何がだ」
「人間が、我らを殺さぬ理由が」
その声には、怒りも憎しみもなかった。ただ、途方に暮れた者の困惑だけがあった。
「我が知る人間は、そうではない。網を投げ、犬を放ち、鎖を掛ける。逃げれば足を折り、抗えば殺す。……それが、人間だ」
ヘルバルディは、自分の掌を見た。
「二十人を殺した。二月前、狩り場でな。あれは我が生涯で、最も後味の悪い夜だった」
「……なぜ、殺した」
問うたのは、フェリクスだった。右手一本で剣を支え、辛うじて立っている。
「奴らが、笑っていたからだ。檻の中に、五つになるかならぬかの子がいた。泣いておった。……奴らはそれを見て、笑っておった」
誰も、何も言えなかった。
「森は、三年耐えた。子を取られても、我らは南へ降りなかった。人間と事を構えれば、滅ぶのは我らだと知っておるからだ」
琥珀色の目が、遠くを見た。
「だが、限界だった。だから我一人で来た。……森全体が動けば、殺し合いになる。互いに滅ぶまでな」
「一人で、二百人を取り戻すつもりだったのか」
タクミの問いを、ヘルバルディは否定しなかった。
「無謀と笑え。だが、他に道がなかった」
「――待って」
背後から、細い声がした。
カティアに支えられて、リズが身を起こしていた。顔は蒼白で、唇から血の気が失せている。それでも、その目だけは、はっきりとヘルバルディを見ていた。
「ヘルバルディ、って言ったわね」
「いかにも」
「私は、リーズレット・ヴァレンタイン。……この国の、皇位を継ぐ者よ」
リズは、カティアの腕を借りて、立ち上がった。そして、よろめきながら数歩進み、膝をついた獣人の前に立った。いや、その前で、自分も膝をついた。平原の土の上に、両膝を。
「リズ!?」
カティアが、驚いて声を上げた。
「……何をしている」
「謝ってるの」
リズは、頭を下げた。
「数日前、私はこの近くの町で、あなたの同族に会ったわ。ドランという名の人。……足を折られて、逃げられなくされて、肩に番号を焼かれてた」
声が、震えた。
「円の中に、北を示す荷印。その下に、62。……荷箱に捺すのと、同じ印よ。私の国の帳簿には、そう書いてあった。北方産、って」
リズは、額が土につくほど、深く頭を下げた。
「その帳簿を作ったのは、私の国の貴族よ。その貴族を裁けない法を作ったのは、私の高祖父。そして、三年間それに気づかなかったのが、私」
風が、金の髪を舞い上げた。
「ごめんなさい」
平原に、その言葉だけが落ちた。
「謝って済むことじゃないのは、分かってる。ドランの足も治らないし、あなたが殺めた二十人も帰ってこない。……それでも、言わせて。ごめんなさい」
ヘルバルディは、微動だにしなかった。膝をついた獣人の前で、膝をついた皇女。焼け焦げた平原に、二つの影が向かい合っていた。
やがて。
「……人間が。人間が、我らに頭を下げるところを、我は初めて見た」
琥珀色の目が、揺れていた。
「二百年生きて、初めてだ」
「――いってぇ……」
その空気を破ったのは、間の抜けた呻き声だった。崩れた逆茂木の向こう、二十歩ほど離れた草の中から、巨体がのそりと起き上がった。
「ガルム!」
リズが、思わず身を乗り出した。
「大丈夫!? あなた、あんなに飛ばされて」
「ワシを誰だと思っとる」
ガルムは、地面に手をついて身を起こした。左の肋を押さえている。顔の半分が擦り傷だらけで、髭に草が絡まっていた。
「肋が二本ばかり逝っとるが、まあ、この程度で済んだのは上出来じゃ」
彼は、よろよろと立ち上がった。そして、ヘルバルディの巨体を見上げる。
「……なあ、あんた」
「なんだ」
「ワシの斧、効いとったか?」
虎の目が、ガルムの戦斧へ落ちた。
「効いた。半歩、下がらされた。……人間の一撃で下がったのは、我が生涯で二度目だ」
ガルムの顔が、ぱっと明るくなった。
「二度目か! 一度目は誰じゃ!」
「熊の一族の族長だ」
「人間じゃなかろうが!」
ガルムは、腹の底から笑った。そして笑った拍子に肋に響いたらしく、呻いてその場にしゃがみ込んだ。衛生兵が慌てて駆け寄っていく。
衛生兵がガルムを運んでいく傍らで、カティアは黙々と地面を這っていた。弾かれた矢を、一本ずつ拾い集めているのだ。鏃が潰れ、矢柄が折れ、もう使い物にならないものばかりである。それでも彼女は、全て拾った。
「……無駄になったな」
その手が、止まった。見上げると、虎の巨体がすぐそばに立っていた。
「三射とも、よく狙っておった。目を狙うのは正しい。我の弱点は、そこしかない」
カティアは、拾い集めた矢を胸に抱えたまま、俯いた。
「――怖い。あんたが怖い。……今も、足が震えてる」
カティアの目が、上を向いた。
「あたしは外縁の獣人だ。森の奥に行ったこともないし、行けるとも思ってない。森の守り手なんて、爺さん婆さんの昔話の中にしかいないと思ってた。その昔話が、目の前にいる。……あたしと同じ森で生まれて、あたしと同じものを守ろうとしてる」
ヘルバルディの琥珀色の目が、細くなった。
「……名は」
「カティア」
「カティア。……なぜ、人間と共にいる」
「あたしが選んだ。あたしの部族は、外縁の狩人だ。三年前から、子供が消え始めた。誰も助けに来なかった。……だから、あたしが調べることにした」
「一人でか」
「一人でだ」
カティアは、胸に抱えた矢を握りしめた。
「三年、独りだった。同族に言っても、誰も本気にしない。人間に言えば、笑われるか、追い払われる。……だから、こいつらに賭けた」
彼女は、リズとタクミの方を顎で示した。
「賭けは、どうだった」
「……まだ分からない。でも、あの女は、あんたの前で膝をついた。……あたしの知る限り、人間がそんなことをするのは初めてだ」
ヘルバルディの巨大な掌が、ゆっくりと動いた。カティアの頭に、置かれる。
「――っ」
彼女の耳が、ぴんと逆立った。
「よくやった」
その一言だけだった。だがカティアは、その場から動けなくなった。
独りで調べ続けてきた頭に、今、森の奥から来た者の手が置かれている。
「……ちくしょう」
カティアは、俯いた。抱えた矢の束に、雫が落ちた。
「泣くな。まだ何も終わっておらぬ」
「泣いてない」
「……そうか」
ヘルバルディは、それ以上何も言わなかった。ただ、その手をしばらく置いたままにしていた。




