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最強の姫騎士と、見えない糸で結ばれた異国の王子  作者: 旭屋綉
第1部 ヴァレンタイン帝国編 第2章

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第29話「ヒヒイロカネが、初めて燃えた」

 ヒヒイロカネは、燃えながら宙を舞った。朝の平原に、緋色の軌跡が奔った。

 

 狙いなど、あったものではない。倒れたまま、腕の力だけで投げたのだ。刃は回転しながら、タクミの頭上を大きく逸れて飛んでいく。

 

 だが、タクミの左手が、上がった。

 

 見えない糸が、宙を走った。

 

 炎の刃の柄に絡みつき、軌道が変わる。放物線が捻じ曲げられ、燃える剣が引き寄せられ――

 

 その掌に、収まった。

 

「――ッ!」

 

 柄を握ったタクミが、地を蹴った。傷ついた身体が、それでも跳ねた。

 

 ヘルバルディが、両腕を上げた。この戦いで幾度もそうしてきたように、腕で受け止める構えである。カティアの矢を弾き、ガルムの斧を耐え、リズの風を防いだ、鋼のような肉の盾。

 

 だが、今度は違った。

 

 迫るのは、刃ではない。

 

 炎だった。

 

「――ぬぅっ!?」

 

 初めて、ヘルバルディが後退した。

 

 腕で受ければ、焼かれる。獣の本能がそれを悟ったのが、タクミには見えた。その一瞬の逡巡が、致命的だった。

 

 タクミの刃が、上がった腕の内側へ滑り込んだ。

 

 緋色の軌跡が、朝の空気を裂いた。

 

 轟音。

 

 炎が、爆ぜた。

 

 ヘルバルディの胸から肩にかけて、火柱が奔った。橙と黒の毛皮が一瞬で焼け焦げ、その巨体が仰け反る。膝が折れ、大地が揺れた。

 

「ぐ、おおおおおッ!!」

 

 初めての、苦悶の咆哮だった。巨体が、片膝をついた。

 

 その喉元に。

 

 燃える刃が、突きつけられた。

 

 時が、止まったようだった。平原に、風の音だけが残った。燃えるヒヒイロカネの刃先が、ヘルバルディの喉から指一本の距離で静止している。刀身の炎が、その毛皮を焦がしていた。

 

 タクミは、動かなかった。

 

「――斬れ」

 

 ヘルバルディが、言った。膝をついたまま、顔を上げてタクミを見据えている。恐怖はもう、その目になかった。

 

「敗れた。……我が負けだ」

 

「そうか」

 

「斬れと言っている」

 

 ヘルバルディの声には、怒りすらあった。

 

「森の戦士は、敗れて生き恥を晒さぬ。……早くしろ」

 

 タクミは、答える代わりに――刃を、引いた。燃える剣を下ろし、切っ先を地面へ向ける。

 

「――なに?」

 

 そして、その瞬間。

 

 剣の炎が、ふっと消えた。

 

 緋色が引き、刀身は元の鈍い黄金に戻った。十歩後方で、リズが力尽きて倒れ込んだのだ。

 

「リズ!」

 

 カティアが、駆け寄った。

 

 タクミは振り返らなかった。背後の気配で、リズにカティアがついたと分かる。それだけで、肩の力がわずかに抜けた。

 

「……なぜだ。なぜ、斬らぬ」

 

「必要がないからだ。おまえは、こちらの兵を一人も殺さなかった。三十人が突っ込んで、全員が骨を折られただけだ。追い討ちもかけていない」

 

 ヘルバルディの琥珀色の目が、揺れた。

 

「……見ていたのか」

 

「見なくても分かる。死体がないからな」

 

 タクミは、ヒヒイロカネを鞘に納めた。

 

「殺す気のない相手を殺す趣味はない。……それだけだ」

 

 ヘルバルディは、膝をついたまま動かなかった。

 

 焼け焦げた胸に、朝の風が触れる。やがて、その口から、低い呻きのような声が漏れた。

 

「……分からぬ」

 

「何がだ」

 

「人間が、我らを殺さぬ理由が」

 

 その声には、怒りも憎しみもなかった。ただ、途方に暮れた者の困惑だけがあった。

 

「我が知る人間は、そうではない。網を投げ、犬を放ち、鎖を掛ける。逃げれば足を折り、抗えば殺す。……それが、人間だ」

 

 ヘルバルディは、自分の掌を見た。

 

「二十人を殺した。二月前、狩り場でな。あれは我が生涯で、最も後味の悪い夜だった」

 

「……なぜ、殺した」

 

 問うたのは、フェリクスだった。右手一本で剣を支え、辛うじて立っている。

 

「奴らが、笑っていたからだ。檻の中に、五つになるかならぬかの子がいた。泣いておった。……奴らはそれを見て、笑っておった」

 

 誰も、何も言えなかった。

 

「森は、三年耐えた。子を取られても、我らは南へ降りなかった。人間と事を構えれば、滅ぶのは我らだと知っておるからだ」

 

 琥珀色の目が、遠くを見た。

 

「だが、限界だった。だから我一人で来た。……森全体が動けば、殺し合いになる。互いに滅ぶまでな」

 

「一人で、二百人を取り戻すつもりだったのか」

 

 タクミの問いを、ヘルバルディは否定しなかった。

 

「無謀と笑え。だが、他に道がなかった」

 

「――待って」

 

 背後から、細い声がした。

 

 カティアに支えられて、リズが身を起こしていた。顔は蒼白で、唇から血の気が失せている。それでも、その目だけは、はっきりとヘルバルディを見ていた。

 

「ヘルバルディ、って言ったわね」

 

「いかにも」

 

「私は、リーズレット・ヴァレンタイン。……この国の、皇位を継ぐ者よ」

 

 リズは、カティアの腕を借りて、立ち上がった。そして、よろめきながら数歩進み、膝をついた獣人の前に立った。いや、その前で、自分も膝をついた。平原の土の上に、両膝を。

 

「リズ!?」

 

 カティアが、驚いて声を上げた。

 

「……何をしている」

 

「謝ってるの」

 

 リズは、頭を下げた。

 

「数日前、私はこの近くの町で、あなたの同族に会ったわ。ドランという名の人。……足を折られて、逃げられなくされて、肩に番号を焼かれてた」

 

 声が、震えた。

 

「円の中に、北を示す荷印。その下に、62。……荷箱に捺すのと、同じ印よ。私の国の帳簿には、そう書いてあった。北方産、って」

 

 リズは、額が土につくほど、深く頭を下げた。

 

「その帳簿を作ったのは、私の国の貴族よ。その貴族を裁けない法を作ったのは、私の高祖父。そして、三年間それに気づかなかったのが、私」

 

 風が、金の髪を舞い上げた。

 

「ごめんなさい」

 

 平原に、その言葉だけが落ちた。

 

「謝って済むことじゃないのは、分かってる。ドランの足も治らないし、あなたが殺めた二十人も帰ってこない。……それでも、言わせて。ごめんなさい」

 

 ヘルバルディは、微動だにしなかった。膝をついた獣人の前で、膝をついた皇女。焼け焦げた平原に、二つの影が向かい合っていた。

 

 やがて。

 

「……人間が。人間が、我らに頭を下げるところを、我は初めて見た」

 

 琥珀色の目が、揺れていた。

 

「二百年生きて、初めてだ」

 

「――いってぇ……」

 

 その空気を破ったのは、間の抜けた呻き声だった。崩れた逆茂木の向こう、二十歩ほど離れた草の中から、巨体がのそりと起き上がった。

 

「ガルム!」

 

 リズが、思わず身を乗り出した。

 

「大丈夫!? あなた、あんなに飛ばされて」

 

「ワシを誰だと思っとる」

 

 ガルムは、地面に手をついて身を起こした。左の肋を押さえている。顔の半分が擦り傷だらけで、髭に草が絡まっていた。

 

「肋が二本ばかり逝っとるが、まあ、この程度で済んだのは上出来じゃ」

 

 彼は、よろよろと立ち上がった。そして、ヘルバルディの巨体を見上げる。

 

「……なあ、あんた」

 

「なんだ」

 

「ワシの斧、効いとったか?」

 

 虎の目が、ガルムの戦斧へ落ちた。

 

「効いた。半歩、下がらされた。……人間の一撃で下がったのは、我が生涯で二度目だ」

 

 ガルムの顔が、ぱっと明るくなった。

 

「二度目か! 一度目は誰じゃ!」

 

「熊の一族の族長だ」

 

「人間じゃなかろうが!」

 

 ガルムは、腹の底から笑った。そして笑った拍子に肋に響いたらしく、呻いてその場にしゃがみ込んだ。衛生兵が慌てて駆け寄っていく。

 

 

 

 衛生兵がガルムを運んでいく傍らで、カティアは黙々と地面を這っていた。弾かれた矢を、一本ずつ拾い集めているのだ。鏃が潰れ、矢柄が折れ、もう使い物にならないものばかりである。それでも彼女は、全て拾った。

 

「……無駄になったな」

 

 その手が、止まった。見上げると、虎の巨体がすぐそばに立っていた。

 

「三射とも、よく狙っておった。目を狙うのは正しい。我の弱点は、そこしかない」

 

 カティアは、拾い集めた矢を胸に抱えたまま、俯いた。

 

「――怖い。あんたが怖い。……今も、足が震えてる」

 

 カティアの目が、上を向いた。

 

「あたしは外縁の獣人だ。森の奥に行ったこともないし、行けるとも思ってない。森の守り手なんて、爺さん婆さんの昔話の中にしかいないと思ってた。その昔話が、目の前にいる。……あたしと同じ森で生まれて、あたしと同じものを守ろうとしてる」

 

 ヘルバルディの琥珀色の目が、細くなった。

 

「……名は」

 

「カティア」

 

「カティア。……なぜ、人間と共にいる」

 

「あたしが選んだ。あたしの部族は、外縁の狩人だ。三年前から、子供が消え始めた。誰も助けに来なかった。……だから、あたしが調べることにした」

 

「一人でか」

 

「一人でだ」

 

 カティアは、胸に抱えた矢を握りしめた。

 

「三年、独りだった。同族に言っても、誰も本気にしない。人間に言えば、笑われるか、追い払われる。……だから、こいつらに賭けた」

 

 彼女は、リズとタクミの方を顎で示した。

 

「賭けは、どうだった」

 

「……まだ分からない。でも、あの女は、あんたの前で膝をついた。……あたしの知る限り、人間がそんなことをするのは初めてだ」

 

 ヘルバルディの巨大な掌が、ゆっくりと動いた。カティアの頭に、置かれる。

 

「――っ」

 

 彼女の耳が、ぴんと逆立った。

 

「よくやった」

 

 その一言だけだった。だがカティアは、その場から動けなくなった。

 

 独りで調べ続けてきた頭に、今、森の奥から来た者の手が置かれている。

 

「……ちくしょう」

 

 カティアは、俯いた。抱えた矢の束に、雫が落ちた。

 

「泣くな。まだ何も終わっておらぬ」

 

「泣いてない」

 

「……そうか」

 

 ヘルバルディは、それ以上何も言わなかった。ただ、その手をしばらく置いたままにしていた。

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