第28話「炎は、恐怖の色をしていた」
崩れた陣の向こう、逆茂木の残骸を越えた先に、それはいた。
最初、リズはそれを岩か何かだと思った。だが、その岩が動いた。
人の倍近い背丈である。上半身は裸で、橙と黒の縞模様の毛皮に覆われた筋肉が、丸太のような腕から肩、胸へと隆起している。頭部は虎のそれだった。だが目だけは、驚くほど理知的な光を宿した琥珀色をしている。
武器は、持っていなかった。その必要が、ないのだ。
そして、その巨体の前に。
銀髪の男が、剣を構えて立っていた。
「フェリクス!」
リズが叫んだ。
フェリクス・レーヴェンシュタインは、振り返らなかった。
軍装は左半身が裂け、そこから血が滴っている。左腕はだらりと下がったまま動かない。折れているのだろう。右手一本で剣を構え、それでもなお、立っていた。
その足元には、無数の斬撃の跡が地面に刻まれている。何十合と打ち合った証拠だった。
そして――虎の巨体には、傷一つない。
「……下がっていろ」
フェリクスが、掠れた声で言った。
「これは、俺の陣が破られた不始末だ」
「馬鹿を言わないで! 腕が折れてるでしょう!」
「まだ、右がある」
フェリクスは、剣を上げた。その切っ先が、震えていた。
「殿下。……一人も死なせぬと、仰いましたな」
「え……」
「なら、俺が死ぬわけにはいかん」
乾いた笑いだった。
「だが、こいつを町へ行かせるわけにもいかん。……この先には、百軒の民がいる」
――だから、単騎で前に出たのだ。
リズは、ようやく理解した。予備の騎兵を投入すれば、確実に死人が出る。この男は、それを避けるために、自分一人でここに立ったのだ。
「……ばか」
リズは、聖剣を抜いた。
「一人で背負わないで。私が、指揮官よ」
「――名を聞こう」
太い声が、大気を震わせた。
虎の巨体が、初めて口を開いたのだ。低く、重く、地の底から響いてくるような声だった。
「そこの銀髪。貴様は名乗った。よい戦士だった」
琥珀色の目が、フェリクスからタクミたちへと移る。
「新手の四人。名を聞こう」
「――タクミ・アマギ」
タクミが、進み出た。
「東方の島国、ヤポニクの生まれだ」
「リーズレット・ヴァレンタイン」
リズも、続いた。
「この国の、皇女よ」
虎の目が、わずかに細くなった。
「皇女」
「そうよ」
「では貴様が、我らを狩る国の主か」
空気が、変わった。殺気ではない。もっと重く、静かなものだった。
「ヘルバルディ」
巨体が、名乗った。
「森の守り手。……森の奥より参った」
最初に動いたのは、カティアだった。
矢が、立て続けに三本放たれた。至近距離、狙いはすべて眼球である。
ヘルバルディは、避けなかった。
瞼を閉じただけだった。
三本の矢は、その顔面に当たり――弾かれた。鏃が潰れ、矢柄がへし折れて地面に落ちる。
「嘘だろ……!」
カティアが、目を見開いた。
「うおおおッ!」
その隙に、ガルムが突っ込んでいた。戦斧の一撃が、真横から巨体の脇腹に叩き込まれる。人間なら胴が両断される威力だった。
鈍い音がした。ヘルバルディの巨体が、半歩だけ横にずれた。
半歩、だけである。
「……ほう」
虎の目が、初めてわずかに動いた。
「重い一撃だ。人間にしては、な」
次の瞬間、ガルムの巨体が宙を舞っていた。
裏拳一発だった。丸太のような腕が振り抜かれ、大樽二つ分はあるガルムの身体が、まるで藁束のように吹き飛ばされる。
「ガルム!」
リズが叫んだ。
――速い。あの図体で。
風が、逆巻いた。リズの背後で、透明な刃が形を成す。次々と生まれ、密度を増し、渦を巻いて空を裂いた。
「散れッ!」
風の刃が、全方位から殺到した。
闘技場でタクミを追い詰めた、あの必殺の連撃である。
ヘルバルディは――腕を交差させて、それを受けた。風が、毛皮を裂いた。橙と黒の毛が舞い、腕に、肩に、胸に、赤い筋が走る。
だが、浅い。骨まで届いていない。
「……効いてない」
リズの背筋が、凍った。自分の風が、皮膚を裂くだけで止まっている。
「効いてはいる」
ヘルバルディが、腕を下ろした。裂けた毛皮から血が滴っているが、動きに支障はない。
「痛い。……久しく味わっておらん痛みだ。よい魔力だな、娘」
琥珀色の目が、リズを見据えた。
「だが、それだけだ」
「――全員、下がれ」
タクミの声が、静かに響いた。
彼は、ヘルバルディの正面に立っていた。両手を、だらりと下げたまま。
「タクミ!?」
「動くな。糸に触れる」
その一言で、リズは全身を硬直させた。
――暗糸。
闘技場で、自分の武装をすべて剥ぎ取った、目に見えない糸。
タクミの左手が、わずかに上がった。
次の瞬間。
ヘルバルディの巨体が、動きを止めた。
いや、動かせなくなった、というべきだった。両腕が、身体に貼りついたように固定されている。両脚も、地面に縫い留められたように動かない。
「――ぬ?」
初めて、ヘルバルディの声に困惑が混じった。
「見えぬ。……何をした」
タクミは、答えなかった。
左手の指が、細かく動く。それに合わせて、ヘルバルディの巨体がさらに締め上げられていく。腕が胴に食い込み、首が下向きに引かれ、膝が折れそうになった。
その光景を見て、リズは息を呑んだ。
――あの糸で、あの巨体を。
「タクミ、すごい――」
言いかけた、その時だった。
ヘルバルディが、笑った。
「なるほど。糸か」
琥珀色の目が、光った。
「見えぬが、触れれば分かる。……肉に食い込んでおるからな」
そして、巨体が、膨れ上がった。全身の筋肉が、一斉に隆起したのだ。腕が、肩が、背が、内側から破裂しそうなほどに膨張する。
「ぬ――ぉおおおおおッ!!」
咆哮とともに、ヘルバルディが両腕を左右へ開いた。
ぶつり、と。
いくつもの、鋼線が切れるような音がした。
――暗糸が、千切れた。
「なっ……!」
リズの目が、見開かれた。
だが、それだけでは終わらなかった。
千切れる寸前の糸を、ヘルバルディは掴んでいた。掌に食い込ませたまま、思い切り引いたのだ。
「――っ!」
糸で繋がっていたタクミの身体が、その勢いで前方へ引きずられた。抗う間もない。あのガルムを裏拳で飛ばす膂力である。人一人を引き寄せるなど、造作もなかった。
引き寄せられたタクミの眼前に、丸太のような腕が迫った。
「タクミ――!」
衝撃音。
拳がタクミを打ち据えたその瞬間、空気そのものが殴られたような衝撃が、四方へ広がった。
リズは、立っていられなかった。
突き上げる風圧に足を掬われ、受け身も取れないまま、肩から地面に叩きつけられる。視界が、白く点滅した。それでも、聖剣だけは離さなかった。
タクミの身体は、錐揉みしながら十歩以上も飛ばされ、崩れた逆茂木の残骸に叩きつけられた。
そして――その手を離れた黄金の刀身が、朝日を反射しながら宙を舞った。
ヒヒイロカネは、地面に深々と突き刺さり――倒れたままのリズの、すぐ目の前で止まった。
肩の痛みに顔をしかめながら、リズは腕を突いて身を起こそうとした。そして、目の前に、その剣があった。
黄金の刀身。角度によって、緋色に揺らめく地金。
――ヤポニクには、フジと呼ばれる霊峰がある。天を衝くほどの高さの、雪を頂いた美しい山だ。だが、その内には今なお絶えぬ炎を宿している。
あの夜、部屋で聞いた声が蘇る。
――この剣は、その霊峰の炎の力を鍛え込んだものだと伝えられている。
視界の端で、ヘルバルディが動いた。
倒れたタクミの方へ、ゆっくりと歩いていく。とどめを刺すためではないのかもしれない。だが、あの腕がもう一度振るわれれば、次は無事では済まない。
――間に合わない。
リズは、握っていた聖剣を地面に突き立てた。
そして、空いた右手を伸ばした。目の前に立つ、その黄金の柄へ。
握った。
瞬間。
身体の芯から、何かが引き抜かれた。
あの夜と同じ感覚だった。だが、規模が違う。栓を抜かれた水瓶ではない。堰を切った川だった。指先から柄へ、柄から刀身へ、自分の中の熱が奔流となって流れ込んでいく。
「あ――」
視界が、白く霞んだ。膝が笑い、腕から力が抜ける。立ち上がろうとしても、身体が言うことを聞かない。
だが。
目の前で、剣が変わった。
鈍い黄金だった刀身の内側で、緋色が息を吹き返した。血管が浮き上がるように緋の筋が走り、それが刃全体へ広がり――
炎が燃え上がった。
揺らめく緋色の炎が、刀身を包んでいた。地面に突き立ったまま、その一振りの剣が、松明のように燃えている。
熱波が、リズの前髪を煽った。
「なんじゃ……ありゃあ……」
地に伏したまま、ガルムが呆然と呟いた。
「――炎」
カティアの声が、震えた。
そして、ヘルバルディの足が止まった。
振り返ったその琥珀色の目に、初めて――明確な感情が浮かんでいた。
恐怖である。
「……火、か」
その巨体が、無意識に半歩下がった。
毛皮に覆われた獣人にとって、炎は最も原始的な天敵である。理性がどれほど発達しようと、その恐れは血に刻まれている。
だが、それは同時に、リズにとっても限界の合図だった。
剣は、まだ吸っている。握っている限り、際限なく。
「――っ、あ……」
リズの視界が、暗くなり始めた。
立てない。この剣を持ったまま、あの巨体まで走ることは、絶対にできない。
あと数秒で、自分は意識を失う。そうなれば、剣は落ち、炎は消える。
――どうする。
――どうすればいい。
リズの目が、動いた。
十歩先。逆茂木の残骸の中で、タクミが片膝をついて身を起こそうとしている。口の端から血を流し、それでもこちらを見ていた。
その目が、言っていた。
――よこせ、と。
リズの中で、迷いが消えた。
あの男には、魔力がない。だからこの剣を、自分では燃やせない。
自分には、力がある。だがこの剣を持ったまま、戦う体力がない。
――だったら。
「タクミ――ッ!!」
リズは、渾身の力で剣を引き抜いた。
そして、地面に倒れたまま、その炎の刃を、力任せに投げた。




