第27話「死人はいない、ただの一人も」
防衛線の構築は、その日のうちに始まった。
フェリクスの用兵は、見事の一語に尽きた。彼はまず、大樹海の南縁を三里にわたって踏査させた。獣道の出口、水の流れ、下生えの濃淡。そのすべてを一日で図に落とし、翌朝には配置を決めていた。
十個大隊を、縦に三層に配した。最前線には、槍兵と工作兵。伐り出した丸太を並べ、逆茂木を組み、浅い壕を掘る。その五十歩後方に弓兵。さらにその後方に、歩兵の主力。予備として騎兵二個大隊を東西に置き、どこが破られても半刻以内に駆けつけられる位置に待機させた。
篝火は、夜通し焚かれた。樹海の縁に沿って点々と灯る火は、遠目には炎の壁のように見えた。
「……大したもんじゃな」
二日目の夕刻、丘の上からそれを眺めていたガルムが、唸った。
「たった二日でこれか。ワシは軍のことは分からんが、これが並でないことくらいは分かる」
「並ではないな」
タクミは腕を組んだまま、その陣を眺めていた。
整然としている。無駄がない。あらゆる方向からの侵入に備え、破られた場合の対応まで織り込まれている。教本に載せてもいいほどの、完璧な防衛線だった。
――完璧すぎる。
「タクミ?」
リズが、その横顔を見た。
「どうしたの。何か気になるの」
「いや。……あの陣は、群れを止めるためのものだ」
「群れ?」
「そうだ。何十、何百という数が押し寄せてくることを想定している。……だから層を厚くし、面で受け止める」
タクミの目が、細くなった。
「だが、もし来るのが一つだったら、どうなる」
リズの顔から、血の気が引いた。
「一つ……?」
「面で受ける陣は、一点を突かれることに弱い。層が厚いということは、逆に言えば、一点を貫かれた時に、その穴を塞ぐ手が遅れるということでもある」
「でも、たった一人で一万の陣を貫くなんて」
言いかけて、リズは口を噤んだ。一人で二十人の狩り小屋を潰した、というドランの話を、リズも思い出したのだろう。
「……まさか」
「杞憂ならいい」
タクミは、平原の彼方を見た。黒々とした樹海が、夕日を背に横たわっている。
「だが、俺なら――そうする」
夜明け前。リズは、宿の二階で鎧を脱がずにいた。寝台に腰かけ、聖剣を膝に置いたまま、窓の外を見ている。北の地平で、篝火の列が赤く揺れていた。
一万の兵が、あの火の向こうにいる。そして、その先には樹海がある。
「……もう起きたのか」
戸口に、タクミが立っていた。
「うん。……ねえ、タクミ」
「なんだ」
「フェリクスが、私に頭を下げたの」
口にしてみても、まだ本当のこととは思えなかった。
「五年間、一度も目を合わせてくれなかった人が。……私の顔を見て、頭を下げて、私の話を最後まで聞いてくれた」
「そうか」
「嬉しかった」
リズは、膝の上の聖剣を撫でた。
「変よね。私、あの人に勝ったわけでもないのに。剣も交えてないのに。……ただ、話を聞いてもらえただけで、こんなに」
言葉が、途切れた。
「タクミ。私、ずっと勘違いしてたのかもしれない」
「何をだ」
「強くなれば、認めてもらえると思ってた。七つの時に、あの人が闘技場で勝つのを見て、あの人より強くなろうって決めたの。それから十四年、ずっと剣を振ってきた。……実際、強くなった。誰にも負けなくなった。でも、あの人は私を見てくれなかった。強くなればなるほど、遠ざかっていった」
「そうだろうな。おまえが強くなることは、あの男にとって、自分のこれまでが否定されることと同じだ。……見られるはずがない」
「うん。でも、あの人は私を見た。……剣なんて、一度も抜いてないのに」
窓の外で、篝火が風に揺れた。
「私、何を積み上げてきたんだろうって思う」
「積み上げたものは、無駄になっていない。あの日おまえが言ったことは、剣を振れない人間が言っても、あの男には届かなかった。……帝国最強の姫騎士が、剣を抜かずに頼んだからこそ、あの男は聞いたんだ」
リズは、聖剣の鞘を指でなぞった。それから、小さく笑った。
「……そういうこと、言うのね。あなた」
その時だった。
鐘が、鳴った。
北の方角。防衛線の方角から、けたたましい打鐘の音が響いてきた。一打、二打、三打――間断なく、狂ったように打ち鳴らされている。
リズが、跳ね起きた。
「あれ、何の合図!?」
「敵襲だ」
タクミは、すでに窓辺に立っていた。
闇の中、篝火の列が乱れていた。整然と並んでいたはずの火が、一点で崩れている。まるで、火の壁に穴が空いたかのように。
悲鳴のような角笛が、幾重にも重なって聞こえてきた。
階下で、ガルムの怒鳴り声がした。カティアが階段を駆け上がってくる足音がする。
「タクミ! 北だ、防衛線の――」
「見えている」
タクミの手には、もうヒヒイロカネが握られていた。
その時、宿の外で馬蹄の音が急停止した。激しく戸を叩く音。マルタが慌てて閂を外す音。そして、転げ込んでくる足音。
「殿下! 殿下はどちらに!」
第五師団の伝令だった。若い兵で、顔は蒼白、額から血を流している。
「ここよ!」
リズが、階段を駆け下りた。
「防衛線が――」
伝令の声は、割れていた。
「破られました!」
「何が来たの。何人?」
「そ、それが」
伝令の唇が、震えた。
「……一体、です」
宿の一階が、しんと静まり返った。
「たった一体で、逆茂木を、丸太ごと」
若い兵は、そこで嘔吐きそうになった。
「槍が、通りません。三十本、いえ、もっと突き立てたはずです。それが全部、弾かれて。……先頭中隊は、瞬く間に崩されました」
「フェリクスは」
リズが、両肩を掴んだ。
「フェリクスはどうしたの!」
「閣下は――」
伝令の目が、泳いだ。
「単騎で、前へ出られました。予備の騎兵を止めて、ご自分だけで」
――なんで。
リズの脳裏に、門の前で聞いた言葉が蘇った。
せいぜい、その言葉を守っていただきたい。
一人も死なせない、と言った自分に、あの男はそう言った。
そして今、自分の兵を下がらせて、単騎で前に出ている。
「……ばか」
リズの手から、伝令の肩が離れた。
「あの人、ばかよ!」
叫ぶと同時に、彼女は駆け出していた。
聖剣を掴み、宿の戸を蹴り開け、闇の中へ。
「リズ!」
「行くわよタクミ! ガルム、カティア、急いで!」
明けきらぬ平原に、四つの影が飛び出した。
北の地平。篝火の壁に空いた穴の向こうで、何かが吼えた。
その咆哮は、大地を伝わり、二里離れた町の窓硝子を震わせた。
平原を二里、四人は駆けた。近づくにつれ、音が変わっていった。
最初は角笛と鐘だけだった。それが、怒号になり、悲鳴になり、やがて――何かが折れる音になった。太い木材が、内側から裂けるような音である。
防衛線の跡地は、倒れた篝火の燻りだけが赤く、あとは薄闇に沈んでいた。
篝火が倒され、油が地面に流れて燻っている。二日がかりで組み上げた逆茂木は、中央の一角だけが、根こそぎ薙ぎ払われていた。丸太が、まるで小枝のように折れ、ねじれ、放り出されている。
その周囲に、兵たちが倒れていた。
「――どいて! 道を開けて!」
リズが叫びながら駆け込むと、衛生兵たちが慌てて場所を空けた。
リズは、倒れている兵の一人に膝をついた。若い槍兵である。左腕があらぬ方向に曲がり、鎧の胸当てが凹んでいる。
「しっかりして! 誰か、担架を――」
「殿下……?」
兵が、うっすらと目を開けた。
「いる。いるわ。……大丈夫、生きてる。あなたは生きてる」
「そう、ですか」
兵の口の端が、わずかに緩んだ。
「……あいつ、殺さねえんです」
「え?」
「三十人、突っ込んで。……全員、投げ飛ばされて、それだけで。追い討ちもかけねえで」
兵は、そこで気を失った。
リズは、顔を上げて周囲を見渡した。倒れている兵は、数えきれない。骨を折り、意識を失い、鎧をひしゃげさせている。
だが。
「……タクミ」
「ああ」
タクミの目も、同じものを見ていた。
「死人が、いない」
三十本の槍を弾き、二日がかりの陣を一点で貫き、丸太を薙ぎ払った相手が。誰一人として、殺していない。
――柵を壊して、荷車をひっくり返して、それで力尽きて逃げる。
ドランの言葉が、リズの脳裏を掠めた。
「同じだわ」
リズの唇が、震えた。
「ヴァルデンブルクを襲う獣人と、同じ」
その時、北から金属が打ち合う甲高い音が響いた。




