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最強の姫騎士と、見えない糸で結ばれた異国の王子  作者: 旭屋綉
第1部 ヴァレンタイン帝国編 第2章

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第26話「せいぜい、その言葉を守っていただきたい」

 その夜、宿の一階には四人だけが残っていた。女将のマルタが戸に閂を下ろし、蝋燭を一本だけ卓に置いて奥へ引っ込んだ。窓の隙間から、平原を渡る風の音が聞こえてくる。


 タクミが、口を開いた。


「明後日、一万が来る。その前に決めておかねばならんことがある。……フェリクスに、どこまで話す」


 リズは、卓の木目を見つめていた。昼間見たものが、まだ瞼の裏に焼きついている。折られた足。円の中の荷印。その下の「62」。人間を見ただけで悲鳴を上げた男。


「全部、話したい。あの人は、樹海から出てくるものを止めろって命令を受けてる。でも、樹海から出てくるのは、子供を取り返しに来る人たちよ。それを知らないまま止めさせるなんて――」


「駄目だ」


 鋭く遮ったのは、カティアだった。琥珀色の瞳が、蝋燭の炎を映して光っている。


「ドランのことは、絶対に言うな」


「カティア……」


「あんたは、あの将軍を信じてるかもしれない。でもあたしは違う。あいつは帝国軍の師団長だ。獣人を狩ってる連中と、同じ国の、同じ軍の人間だ」


 カティアは、卓に身を乗り出した。


「この町の連中は、三年間、命がけで隠してきたんだ。それを、あんたが二日で喋るのか。……あの女将が、どんな気持ちであの屋根裏を見せたと思ってる」


 リズは、言葉に詰まった。その通りだった。マルタは、町ごと潰されるかもしれないものを、余所者に見せたのだ。


「……ごめんなさい。軽率だったわ」


 リズは、素直に頭を下げた。


「ドランのことは言わない。この町の人たちのことも、一切話さない。……それは約束する」


 カティアは、リズを睨んだまま、ふっと肩の力を抜いた。


「……分かった。信じる」


 ガルムが、髭を撫でた。


「じゃが、それ以外はどうする。ヴァルデンブルクの蔵の話。あれを黙っとくわけにもいかんじゃろう」


「それは話す。情報源は伏せる。でも、あそこに二百人近い獣人が閉じ込められてることは伝える。……襲撃の正体も」


 タクミが、蝋燭越しにリズを見た。


「信じると思うか。証拠は何もない。おまえの言葉だけだ。あの男は、書面と数字で動く軍人だぞ」


 リズは、卓の木目から顔を上げた。


「信じないと思う。でも、言わなきゃいけないの。信じてもらえるかどうかは、その次の話よ」


 タクミは、小さく笑った。


「……いいだろう。おまえの戦だ」


 


 二日後の朝。地平が、鳴った。


 最初は、遠雷のような低い響きだった。それが次第に大きくなり、やがて大地そのものが震え始める。


 エーデルフェンの町人たちが、家から出てきた。老人も、女も、子供も、通りに立ち尽くして南を見ている。


 平原の彼方に、黒い帯が現れた。


 帯は、ゆっくりと広がっていった。歩兵の方陣。槍の穂先が朝日を弾き、無数の光の点となって揺れている。その後方に、騎兵の列。さらに後ろには、地平線まで続くかと思われる輜重の車列。


 一万。


 この町の、百倍である。


「……なんてこった」


 誰かが、呻くように呟いた。町人たちの顔から、血の気が引いていた。


 リズには、その理由が分かった。彼らは軍を恐れているのではない。宿舎と食糧の割り当て、と代官の手下は言った。一万の兵が、百軒の町に入ってくる。家に踏み込まれる。蔵を検められる。


 ――屋根裏が、見つかる。


「……行くわ」


 リズは、鎧の胸当てを叩いた。銀の軽装鎧。帝都を発つ日と同じ装いである。だが今度は、飾りではなかった。


「タクミ、ついてこないで」


「ほう」


「あの人には、私が話す。そう決めたの。……あの帰りの馬車で」


 タクミは、肩をすくめた。


「好きにしろ」


 町の南門――といっても、朽ちかけた木柵に穴が空いているだけの場所だが――に、リズは一人で立った。やがて、先触れの騎兵が到着した。リズの姿を認めて馬を止め、慌てて下馬し、片膝をつく。


「り、リーズレット殿下! ご無事でしたか!」


「無事よ。師団長を呼んで」


 半刻ののち、黒馬に跨った銀髪の男が、副官数名を従えて現れた。


 フェリクス・レーヴェンシュタイン。軍装には、十日の行軍の埃が薄く積もっている。それでも姿勢に乱れはなく、鞍上の背筋は定規で引いたようにまっすぐだった。


 碧眼が、門の前のリズで止まった。


 そして――馬を降りた。


 副官が驚いたように何か言いかけたが、フェリクスはそれを手で制し、リズの前まで歩いてきた。


 三歩の距離で、足を止める。


「――殿下」


 そして、頭を下げた。深くはない。だが、確かに下げた。


 リズの喉が、鳴った。


 この五年、フェリクスは自分に頭を下げたことがなかった。式典での儀礼的な一礼はあった。だがそれは、皇女という位に対するものだった。


 今のは、違う。


「……先に着いておられましたか」


 顔を上げたフェリクスの碧眼が、まっすぐにリズを見ていた。


 ――見てる。


 リズの心臓が、鎧の下で跳ねた。


 あの司令室で、フェリクスは一度も自分を見なかった。事実かと問うた時と、覚悟を確かめる時だけ。あとは全て、タクミを見ていた。だが今、その目は、自分だけを捉えている。


「六日、先に」


 リズは、なんとかそれだけを答えた。


「……それで。この町の様子は」


「話がある」


 ――今度は、私が話す。あの日、馬車の中で決めたことだった。


「二つ、お願いしたいことがあるの。順に話すわ」


「伺いましょう」


「一つ目」


 リズは、背後の町を示した。


「兵を、町に入れないで」


 フェリクスの眉が、わずかに動いた。


「……理由を」


「この町は百軒しかない。一万が入れば、一軒に百人よ。宿舎の割り当てなんて、家を明け渡させるのと同じことだわ」


「軍務には、宿営という手段があります」


「なら、それでいいでしょう」


 リズは、一歩前に出た。


「平原に幕営して。井戸は使っていい。町の物を買うのも構わない。でも、家には入らないで。……お願い」


 フェリクスの碧眼が、リズの背後の町へ移った。朽ちた木柵。膝丈の土塁。通りに立ち尽くしてこちらを見ている、痩せた人々。


「――殿下」


「なに」


「この町に、隠されているものがありますな」


 リズの背筋が、凍った。


 ――見抜かれた。フェリクスは、一目見ただけで町の空気を読んだのだ。


「……それは」


「答えずとも結構。軍を入れるなと仰る以上、入れられては困るものがある。当然でしょう。……それが何かは、俺が知るべきことではない」


 そして、副官を振り返った。


「全軍、町の南に幕営する。町域には一兵たりとも入れるな。水は町の井戸を使わせてもらうが、使用は交代制、一度に十名まで。買い物は許可するが、代金は必ず払え。値切るな。……違反した者は、階級を問わず軍法にかける」


 副官が、慌てて復唱した。


 リズは、呆然としていた。押し問答になると思っていた。理屈で抗弁されると思っていた。それが、たった一往復で通ってしまった。


「……ありがとう」


「礼には及びません。一万を町に押し込むより、平原に並べる方が兵の統制も取りやすい。合理的なだけです」


 だがリズには分かった。フェリクスは、合理を口実にした。


「――二つ目は」


「ヴァルデンブルクに、獣人が閉じ込められてる」


 切り出したリズを前にしても、フェリクスの表情は変わらなかった。


「商館の蔵、五つ。全部合わせて、二百人近く。子供もいる。足を折られてる者もいる。……そして、焼き印を押されてる」


「焼き印」


「円の中に、北を示す荷印。その下に番号」


 リズは、自分の左肩を指した。


「北方産。……そう書かれた帳簿を、私は帝都で見たわ。三年分。売られた数は百を超えてた」


 フェリクスは、微動だにしなかった。


「殿下。その情報の出所を、伺っても」


「言えない」


 食い下がられることは覚悟していた。だがリズは、目を逸らさなかった。


「では、証拠は」


「ない。帳簿は、帝都に置いてきた。それに、あれを持ち出したのは正規の手続きじゃない。裁判に出せるものじゃないわ」


「……なるほど」


 フェリクスは、腕を組んだ。


「出所も証拠もない。あるのは殿下のお言葉のみ。……それで、俺にどうせよと」


「信じてくれとは言わない」


 リズは、まっすぐに彼を見上げた。


「今すぐ何かしてくれとも言わない。あなたは軍人で、書面で動く人だってことは分かってる」


「では、なぜ話された」


「知っておいてほしいから。あなたの受けた命令は、樹海から出てくるものを止めることでしょう。……でも、樹海から出てくるのは何なのか。それを知らないまま止めるのと、知った上で止めるのとでは、違うと思うから」


 風が、平原を渡っていった。


「もう一つだけ。帝都で、私は兵たちに命じたわ。敵と遭遇したら捕らえよ、殺すなと。……あれは、綺麗事で言ったんじゃない」


 碧眼が、細くなった。


「殿下は、あの時すでにご存じだったのですか」


「……全部じゃない。でも、疑ってはいた」


 リズは、拳を握った。


「私は、この国の皇位継承者よ。それなのに、何も知らなかった。私が知らない間に、私の国が、隣人を鎖に繋いで売ってた」


 声が、震えた。


「だから、これ以上増やしたくないの。……たった一人でも」


 フェリクスは、リズの顔から目を離さなかった。


 証拠のない話を、証拠がないと自分から言った。信じてくれとも言わなかった。命令もしなかった。ただ、知っておいてくれと言った。交渉としては最悪の手だと、リズ自身にも分かっていた。だが同時に、嘘のつきようがない手でもあった。


「……承知いたしました。殿下のお言葉として、承っておきます」


「それだけ?」


「それ以上は、申せません」


 碧眼が、微かに動いた。


「――ですが」


「え?」


「俺の受けた命令は、樹海から出てくる者を止めることであって、殺すことではない。……そして殿下は、指揮官として捕縛を命じておられる。軍令に矛盾はありません。俺は、命令通りに動くだけです」


 ――フェリクスは、今、こう言ったのだ。捕らえろという命令が生きている限り、自分はそれに従う、と。


「……ありがとう」


「礼には及びません」


 フェリクスは、踵を返した。だが、三歩ほど歩いたところで、足を止めた。


「殿下」


「なに?」


「――帝都での訓示、聞かせていただきました。一人も死なせない、と仰った」


 フェリクスは、振り返らなかった。


「甘い。……ですが、あれを聞いて槍を鳴らした者が、俺の師団に大勢おりました。一万を預かる身として、申し上げます。……せいぜい、その言葉を守っていただきたい」


 そのまま、彼は馬へ戻っていった。リズは、その背中をしばらく見送っていた。鎧の下で、心臓がうるさかった。

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