第25話「トゥーラは、まだ生きていた」
屋根裏には、まだ埃の匂いが漂っていた。梯子の下から、声が上がってきた。
「――リズ」
タクミだった。静かだが、有無を言わせぬ響きがあった。
「悪いが、時間がない」
リズの肩が、震えた。そうだ。時間がない。二日後には、一万の兵がこの町に入る。ドランに謝るために、自分はここへ来たのではない。謝ることしかできない自分が悔しいのなら、できることをするしかない。
リズは、顔を上げた。目は赤かったが、涙は流れていなかった。
「……ドラン」
「なんだ」
「あなたを、こんな目に遭わせた側の人間として、聞きたいことがある」
リズは、背筋を伸ばした。埃だらけの床に膝をついたまま、それでも姿勢だけは、皇女のそれに戻っていた。
「答えたくなければ、答えなくていい。……でも、答えてくれたら、私はそれを使う」
ドランは、彼女を見ていた。濁った目に、初めて何かが宿った。値踏みするような、あるいは面白がるような色だった。
「……使う、か」
口の中で、その言葉を確かめるように呟いた。
「いいぜ。聞け」
「ありがとう」
「二日後、この町に一万の兵が来る。私が止めなければ、あの人たちは樹海に入る」
ドランの耳が、びくりと動いた。
「そうなったら、何が起きると思う? ……森は、今どうなってるの」
ドランは、天井を見上げた。
「……蔵の中でな、噂が回ってた」
「噂?」
「新しいのが入ってくると、外の話を持ってくる。俺たちが知れるのは、それだけだ。……鎖に繋がれてる奴に、森の様子なんざ分かるもんか」
自嘲するような口ぶりだった。
「三年、森は我慢してた。子供を取られても、殴られても、奥までは知らせなかったらしい。浅いところの連中が、勝手にやられてると思われてたんだろうよ」
声が、低くなった。
「だが、去年の終わり頃から、様子が変わったって話だ。……奥が、動き始めたと」
「奥、というのは」
「森の深いところだ。俺たちとは格の違う連中がいる。……見たことはねえ。会ったこともねえ。ただ、いるってことだけは、みんな知ってる。……そんで、二月ばかり前だ。伯爵の狩り小屋が一つ、潰されたって話が入ってきた」
リズが、身を乗り出した。
「潰された?」
「二十人いたそうだ。誰も生きて帰らなかった」
屋根裏の空気が、重くなった。
「軍が来たのかと思ったが、そうじゃねえらしい。……ひとりでやった、なんて言う奴もいた。まあ、蔵の噂だ。尾ひれもつく」
ドランは、疲れたように目を閉じた。
「本当のところは、俺には分からねえ。誰がやったのかも、聞いてねえ」
それきり、彼は黙った。屋根裏の隅で、声がした。
「……森の守り手、じゃないかな」
カティアだった。
リズは、声のほうを振り返った。
「知ってるの?」
「知ってる、ってほどじゃない」
カティアは、腕を組んだまま板壁にもたれていた。
「あたしみたいな外縁の獣人は、奥の連中とは付き合いがない。行くこともできない。……でも、名前だけは伝わってくる。爺さん婆さんが、子供を怖がらせるのに使うような話としてね」
琥珀色の瞳が、遠いものを見るように揺れた。
「虎の一族の戦士だ。森の守り手だとか、そんな呼ばれ方をしてる。……あたしが子供の頃から名前を聞いてるってことは、少なくとも五十年は生きてる」
「五十年」
「獣人の寿命は、人間より長い。奥の連中はもっと長い。……百年って話もある。一人で二十人の狩り場を潰したっていうなら、そりゃそういう手合いだよ。あたしたち外縁の獣人が束になっても、たぶん敵わない。……あくまで、噂話としてしか知らない。本当にいるのかも、あたしは知らないんだ」
「――誰がやったかは、この際どうでもいい」
梯子の下から、タクミの声が割って入った。
「一人だろうと十人だろうと、名があろうとなかろうと、変わらんことが一つある。森が、我慢をやめた。……それだけは、確かだ」
「なぜ、そう言い切れる」
ドランが、低い声で問うた。
「蔵の中の噂だぞ。尾ひれもつくと、俺が言ったろう」
「噂そのものは、俺も信じていない。だが、その噂が蔵の中まで届いたことは事実だ。新しく捕まった者が、それを持ち込んだ。……つまり森の側では、それが語られるほどの何かが起きている」
ドランは、それ以上言い返さなかった。
「もう一つある。今日、代官の手下が六人でこの町へ来た。家々を検めるためにな。……百と少しの家しかない町にだ」
リズが、はっと顔を上げた。
「同じことを続けてきたのなら、手順は決まっているはずだ。だが奴らは、通達のついでに、逃げた数を数え上げていた。半月で二頭、とな。数を数え始めるのは、こぼれ始めた時だ。……向こうも、余裕を失いつつある」
屋根裏の誰も、すぐには口を開かなかった。
「……そいつが、南に向かってるのか」
ドランが、ぽつりと言った。
「そこまでは、俺は知らねえ。ただ――」
濁った目が、板の隙間から差し込む光を見た。
「蔵で最後に聞いた噂は、こうだ。『そろそろ、迎えが来る』。……みんな、そう言って笑ってた」
声が、震えていた。
「もう三年だ。誰も助けに来ねえ。それでも、そう言って笑うしかねえんだ」
板の隙間から差し込む光の筋の中を、埃がゆっくりと舞っていた。
リズは、その光を見つめていた。
――止まるはずが、ない。
子供を取り返しに来る者たちが、いる。取り返しに来て、返り討ちに遭い、また蔵に入れられる者たちが。それを繰り返して、ついに奥が腰を上げた。
次に来るのは、柵を壊して逃げ帰る者ではない。そして、一万の兵が向かう先には、樹海がある。
もし、その前に奥の者が来たら。
もし、来た後で一万の兵が入ったら。
どちらにしても――多くの血が流れる。
「……止めなきゃ」
リズは、立ち上がった。低い天井に頭がつかえるので、屈んだままだったが、その背中はまっすぐだった。
「絶対に、止める」
梯子を降りようとして、リズは足を止めた。振り返り、ドランを見る。
「ドラン。……最後に一つだけ」
「なんだ」
「ヴァルデンブルクに、トゥーラという娘はいた?」
ドランの身体が、強張った。
「……なんで、その名を」
「この町の人が、探してるの。毎年、蜂蜜を持ってきてくれた娘さんだって」
ドランの喉が、一度動いた。
「……トゥーラなら、いた」
リズの息が、止まった。
「一月前には、生きてた。二番蔵だ。……俺が逃げた後は、知らねえ」
「――ありがとう」
リズは、深く頭を下げた。そして、梯子を降りていった。
平屋を出ると、外はもう夕暮れだった。戸口の前に、あの老人が座り込んでいた。若者に支えられ、じっと待っていたらしい。
リズは、その前に膝をついた。
「おじいさん」
老人の濁った目が、リズを見上げた。
「トゥーラさんは、生きてる」
老人の口が、開いた。
「一月前まで、確かに生きてた。ヴァルデンブルクにいる」
「……生き、て」
「ええ」
リズは、老人の皺だらけの手を、両手で握った。
「必ず、連れて帰る。約束する」
老人は、何も言わなかった。ただ、その手が、リズの手を握り返してきた。骨と皮だけの、驚くほど強い力だった。そして、声を上げて泣き始めた。夕暮れの通りに、老人の嗚咽だけが響いていた。
リズは、その手を握ったまま、動かなかった。
通りの向こう、宿の前で、タクミが柱に寄りかかったまま、その光景を見ていた。三日前、リズは町の誰からも本当のことを聞き出せなかった。今、この町の老人が、その手を握って泣いている。
――上出来だ。
タクミは、その視線を北へ向けた。夕日に染まった平原の果てに、大樹海の黒い影が横たわっている。その奥から、何かが来る。一万の兵より早いか、遅いか。
どちらにせよ、時間はもう、あまり残されていなかった。




