第24話「屋根裏の獣人と、焼き印の62」
女将に先導されて、リズはタクミとカティアを伴い、広場を離れた。町人たちの視線が、黙って背中を追ってくる。その家は、広場から少し外れた、粗末な平屋だった。先ほど腕を捻り上げられていた若者の家である。老人は、その若者の祖父だという。
「こっちだよ」
女将が、竈の裏手にある梯子を指した。天井板の一部が、外れるようになっている。
屋根裏だった。リズが上がると、そこは人が立てないほどの低さだった。埃と、饐えた匂いと、薬草の匂いがする。窓はなく、板の隙間から差し込む細い光だけが、闇を切っていた。
その光の中に、影があった。
「……っ」
リズの喉が、鳴った。
毛布の上に、大きな身体が横たわっていた。人よりも一回り大きい。だが、痩せこけている。骨の形が、皮膚の上から数えられるほどに。頭には、猪のような太く短い耳。額から鼻にかけて、深い傷跡が走っている。その男が、光を遮ったリズの気配に、うっすらと目を開けた。
そして――
「――ひっ」
悲鳴を上げて、身をよじった。枯れ枝のような腕で顔を庇い、壁際まで這って逃げようとする。だが足が動かないらしく、上半身だけが無様にのたうった。
「やめてくれ、やめてくれ、もう戻らない、もう、やめて……」
言葉になっていなかった。人間を見た。ただそれだけで、この男は正気を失っていた。
「ドラン! 落ち着け、大丈夫だ!」
女将が、慌てて割り込んだ。
「この人は違う! あんたを連れ戻しに来たんじゃない!」
男は――ドランと呼ばれたその獣人は、なおも震えていた。
リズは、屋根裏の入り口で、動けなくなっていた。
――私を見て、あんなに。
自分は何もしていない。剣も抜いていない。ただ、そこに立っただけだ。人間である、というだけで。
「……ごめんなさい」
リズは、その場に膝をついた。低い天井の下、埃だらけの床板の上に、両膝をついた。
「怖がらせて、ごめんなさい。……何もしない。誓って、何もしない」
背後で、カティアが小さく声を漏らした。帝国の皇女が、獣人の前で膝をついていた。
ドランの震えが、少しずつ収まっていく。荒い息の合間から、濁った目がリズを見た。
「……あんた、は」
「リーズレット。……この国の、皇女よ」
「こうじょ」
ドランは、その言葉を舌の上で転がした。聞き慣れない言葉のようだった。
「偉い、人か」
「そうね。偉い人よ」
リズは、正直に答えた。
「この国の法を作る側の人間。……あなたたちを、こんな目に遭わせた側の人間よ」
ドランは、しばらく黙っていた。やがて、力なく壁に背を預けた。
「そうか」
それだけだった。怒りもしなかった。責めもしなかった。ただ、そうか、と。その反応が、リズには何より応えた。
「ヴァルデンブルクから、逃げてきたんだ」
女将が、水の椀をドランの口元に運びながら言った。
「一月ほど前だよ。夜中に、うちの裏口に倒れてた。……最初は、死んでるかと思った」
「一月前」
「足をやられてるんだ。もう走れない。歩くのだって、やっとさ」
リズは、ドランの下半身を見た。膝から下が、不自然に曲がっていた。折れた骨が、まともに繋がらないまま固まったのだろう。
「逃げるときに?」
「違う」
答えたのは、ドラン本人だった。掠れた、低い声だった。
「逃げねえように、折られた」
リズは、言葉を失った。
「みんな、そうだ。……一度でも逃げようとした奴は、片足を折られる。売り物にならなくなるから、めったにやらねえが。……俺は、二度やったから」
ドランは、淡々と言った。
「三度目で、たまたま檻の錠が壊れてた。それで、出られた」
「……何人、いるの」
問う声が、自分のものではないようだった。
「向こうに。ヴァルデンブルクに」
「数えたことは、ねえ」
ドランは、天井を見上げた。
「でも、蔵が五つある。俺がいたのは一番奥の五番蔵で、そこに四十くらい。五つ全部なら、二百近いはずだ」
リズは、目の前が暗くなるのを感じた。
あの帳簿。三年分の記録。数を足していけば、優に百を超えた。あれは、これまでに売られた数である。今なお囚われている者が、別に二百近くいる。
「蔵、って」
「商館の蔵だ。表向きは、毛皮を扱う商人の倉庫ってことになってる」
ドランの目に、微かな光が戻ってきた。憎悪の光だった。
「そりゃそうだ。実際、毛皮も扱ってるんだからな。俺たちの隣に、俺たちの仲間だったものが吊るされてる」
カティアが、屋根裏の隅で拳を握りしめた。爪が、掌に食い込んでいる。
「……なぜ」
リズは、絞り出すように尋ねた。
「なぜ、獣人はヴァルデンブルクを襲うの。……報告では、何度も襲撃があったと」
「襲撃?」
ドランが、初めて表情らしいものを浮かべた。それは、乾いた笑いだった。
「あんた、本気で言ってんのか」
「……え?」
「取り返しに来てんだよ」
リズの、頭の中が真っ白になった。
「森の連中が、月に一度か二度、町に入ってくる。夜中にな。蔵の場所を探して、錠を壊して、仲間を連れ出そうとする。……大抵は、失敗する」
ドランは、天井を見上げたまま続けた。
「向こうには武器があって、明かりがあって、数がいる。こっちは素手だ。柵を壊して、荷車をひっくり返して、それで力尽きて逃げる。……何人か捕まって、そのまま蔵に入れられる」
言葉が、途切れた。
「襲撃なんて、たいそうなもんじゃねえ。……子供を取り返しに来てるだけだ」
リズは、床板に手をついた。支えていないと、身体が傾きそうだった。
――第三師団の、司令室。
擦り切れた台帳の並ぶ棚と、指でなぞられて薄くなった地図。あの部屋で、タクミが報告書を一枚ずつ繰りながら読み解いていった時のことが蘇る。
奪われたものが、書かれていない。焼かれた建物もない。壊されたのは柵と、荷車が数台。死人が出ていないのは、獣人にも殺す意志がなかったからだ――襲撃ではない。何かを取り返しに来ている、と。
あの推論は、正しかった。正しかったのだと、今この瞬間に、証明された。
「あんたたちの国はよ」
ドランが、低く吐き捨てるように言った。
「俺たちを捕まえて、鎖に繋いで、売り飛ばして。……それで、取り返しに来た俺たちを、蛮族って呼ぶんだ」
毛布が、少しずれた。リズの目が、そこに吸い寄せられた。
ドランの左肩。痩せこけて骨の浮いたその皮膚の上に、何かが刻まれている。
傷ではない。焼き印だった。円の中に、山形の記号が一つ。その下に、二桁の数字。
――62。
リズは、その印を見つめた。しばらく、何も考えられなかった。
やがて――理解が、追いついてきた。山形の記号。北を示す、交易の荷印である。北から運ばれてきた品の木箱に、必ず捺されているあの印だ。城の倉に積まれた毛皮の梱包で、幼い頃から数えきれないほど目にしてきた。
北方産。
あの夜、屋敷の広間で、灯りの下で読んだ帳簿の一行。指で追った文字。
北方産・特級。北方産・中等。
自分は、あれを紙の上で読んだ。インクで書かれた文字として、帳簿の一行として。数を足して、百を超えると分かって、それで怒った。許さないと言った。
「……あれは」
リズの唇が、震えた。
「あの、北方産、って」
声が、出なかった。荷箱に捺されるはずの印が、今、目の前にある。
人の肌に、焼かれて。
そして、その下の「62」。
――番号を、振られている。
商品として。台帳に載せるために。六十二番目の何かとして。消えることのない印として、この男が死ぬまで背負い続けるものとして。
自分は、それを紙で読んでいた。安全な屋敷の、明るい灯りの下で。夜会服のまま、椅子に座って。
「殿下……?」
女将の声が、遠かった。リズは、床に両手をついていた。
嘔吐感が、喉元までせり上がってくる。だが吐くものは何もなく、ただ身体が痙攣するように震えた。
――私は。
私は、何を見て、何に怒っていたのか。
あの時、確かに怒った。心の底から。許さないと言った。だが、その怒りは、紙に対する怒りだった。
この肌に焼かれた傷を、自分は想像すらしていなかった。文字を読んで、数を数えて、それで分かったつもりになっていた。
「……ごめん、なさい」
リズは、床に額をつけた。皇女が、頭を下げていた。埃だらけの屋根裏の床板に、金の髪が広がった。
「ごめんなさい。……ごめんなさい」
それ以外の言葉が、出てこなかった。謝って済むことではないと分かっていた。この男の足は治らない。焼き印は消えない。奪われた三年は戻らない。それでも、ほかに何もできなかった。
ドランは、長いこと動かなかった。やがて、困惑したように、女将の方を見た。
「……なんで、こいつは謝ってるんだ」
人間に謝られるという経験が、この男の中に一つもないのだ。殴られ、繋がれ、値をつけられ、売られてきた三年の中に、そんなものは一度もなかった。
「妹は、帰ってこねえぞ」
ドランは、低く言った。
「去年、売られた。どこに行ったかも分からねえ」
「……はい」
「謝られても、帰ってこねえ」
「……はい」
リズは、頭を上げなかった。
その背中を、カティアが見ていた。知り合ったばかりの頃、カティアはこの皇女に静かな距離を置いていた。人間の中でも、最も上の側にいる女。法を作る側の女。どれだけ立派なことを言おうと、結局は自分たちを「北方産」と書く国の、次の主人になる女。
その女が今、床に額をつけている。
――ちくしょう。
カティアは、顔を背けた。嫌いになれなくなる。そう思ったが、口には出さなかった。
どれほど、そうしていただろうか。板の隙間から差し込む細い光が、床の上で少しずつ角度を変えていった。額を床板につけたままの皇女も、壁に背を預けた獣人も、身じろぎひとつしなかった。




