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最強の姫騎士と、見えない糸で結ばれた異国の王子  作者: 旭屋綉
第1部 ヴァレンタイン帝国編 第2章

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第23話「聖剣を突き立て、覚悟を示した」

 三日目の夕方だった。


 リズは、井戸端に立っていた。水を汲む女の隣で、桶を押さえてやっている。腕には自信があるから、井戸の釣瓶くらいは片手で上がる。女は最初こそ恐縮していたが、三日も同じことをされれば慣れるものらしい。今では世間話にも応じてくれるようになっていた。


「あんた、旅の人だろ。物好きだねえ」


「まあ、そんなところ」


「でも助かるよ。この井戸、深いからさ」


 女は、五十がらみの痩せた人だった。名はまだ聞いていない。この三日、リズは誰の名も聞かないようにしていた。名を尋ねれば、こちらも名乗らねばならないからだ。


 水が桶に満ちた。リズは、それを地面に下ろしながら、なるべく軽い調子で切り出した。


「そういえば、この町って、昔は市が立ってたんですって?」


「ああ、そうさ。そりゃあ賑やかだったよ」


 女の顔が、ぱっと明るくなった。


「毛皮に、蜂蜜に、樹海の薬草。帝都の商人まで買い付けに来てねえ。あたしの旦那が生きてた頃は、それはもう――」


 そこまでは、順調だった。この三日、いつもここまでは順調だったのだ。


「それが、三年前から来なくなったって聞きました」


 女の手が、止まった。


 水を汲む動作の途中で、綺麗に止まった。


「……ああ」


「何かあったんですか。誰かが、あの人たちを狩ってるって聞いたんですけど。……誰なんですか?」


 この三日で、何度も口にした問いだった。


 ――そして。


 女の顔から、表情が消えた。


 驚きでも、警戒でもない。もっと単純な、それでいて決定的な変化だった。まるで顔の内側に一枚、板が下ろされたかのようだった。


「……悪いね。あたし、そういうことは知らないんだ」


 女は、桶を掴んだ。


「え、でも今、市の話は」


「知らないんだよ。昔のことなんて、もう忘れちまったよ」


 彼女は、満杯の桶を両手で持ち上げた。水が跳ねて、地面を濡らす。重い。片手では上がらないから、リズがずっと手伝ってきた桶である。


 だがその日、彼女はそれを一人で持ち上げた。


「……お世話さま」


 そして、リズの顔を見ずに歩き出した。


 夕暮れの通りを、水をこぼしながら、逃げるように。


 リズは、その背中を見送っていた。


 ――また、だ。


 三日で、これが六度目だった。


 井戸端の女。畑の老人。鍛冶屋の主人。宿の裏で洗濯をしていた娘。誰も邪険にはしない。天気の話も、作物の話もする。獣人の話だって、昔のことなら懐かしそうに喋ってくれる。


 だが、誰がやったのかと尋ねた瞬間に、同じ顔になる。


 そして、翌日から、目を合わせてくれなくなる。


 


 四日目の朝、宿の一室で、リズは寝台に倒れ込んだ。


「――だめ。全然だめ」


 天井を睨みながら、彼女は昨日の女の背中を思い出していた。


「あの人、桶を一人で持って行ったの」


「桶?」


「三日間、私が手伝ってたやつよ。重くて一人じゃ持てないって、自分で言ってたのに」


 リズは、腕で目を覆った。


「……それくらい、私と一緒にいたくなかったってこと」


「まあ、そうじゃろうな」


 卓で干し肉を齧っていたガルムが、髭を撫でた。彼はこの三日、毎晩酒場の隅で老人たちと飲んでいた。


「ワシの方も、似たようなもんじゃ。飲めば飲むほど口は軽くなるが、あの話になると急に酔いが醒めるらしい。……よほど怖いんじゃろ」


「怖いって、何が」


「さあな。だが、あの震え方は本物じゃ」


 窓辺に立っていたタクミが、静かに口を開いた。


「――この町は、何かを隠している」


 リズが、身体を起こした。


「怯えているのではない。隠しているのだ」


「どういうこと?」


「怯えているだけなら、誰かが零す。恨み言なり、愚痴なりが必ず漏れる。だが、この町は違う。全員が、同じ一点で口を閉ざす。……あれは、示し合わせている者たちの沈黙だ」


 タクミは、通りを見下ろした。


「町ぐるみで、何かを守っている。それも、露見すれば町ごと潰されるようなものをな」


 リズは、寝台の上で膝を抱えた。


 ――守っている。


 着いた晩に女将が言った言葉が蘇る。あたしにも、守るもんがあるんでね。


「じゃあ、どうすればいいの」


「さあな。これはおまえの戦だ。俺は口を出さん」


「ちょっと!」


「手がかりならやろう」


 タクミは、振り返った。


「町ぐるみで守っているものを、余所者に打ち明けさせるには、一つしか方法がない。……その余所者が、自分たちより多くを賭けていると示すことだ」


 リズは、目を瞬かせた。


「賭ける……?」


「言葉ではない。行いだ」


 それだけ言って、タクミは部屋を出ていった。


 残されたリズは、膝を抱えたまま、その言葉を口の中で転がした。


 


 その日の昼過ぎ、町に馬蹄の音が響いた。


 リズが宿の窓から見下ろすと、六騎が広場へ乗り入れてくるところだった。揃いの外套を纏い、腰に剣を提げている。兵ではない。だが、明らかに武装した集団だった。


「代官所の連中だ」


 いつの間にか隣に立っていた女将が、低い声で言った。その顔から、血の気が引いている。


「……月に一度、来るんだよ」


「何をしに」


 広場では、先頭の男が馬から降りていた。三十がらみの、細身の男である。剣を抜くでもなく、怒鳴るでもなく、ただ広場の真ん中に立って、集まってきた町人たちを眺めている。


「ご苦労、皆の衆」


 男の声は、穏やかだった。


「毎度のことだが、代官所からの通達を伝えに来た。……二日後、帝国軍第五師団がこの町に入る。一万だ。宿舎と食糧の割り当ては追って知らせるが、覚悟しておくように」


 町人たちが、ざわめいた。一万。この町の家の数の百倍である。一軒に百人を割り当てる勘定になる。


「それと、もう一つ」


 男は、微笑んだ。


「例の家畜が、また逃げたそうでな。この半月で二頭。……北へ向かった、という話だ」


 広場から、音が消えた。


 ざわめきが引いたのではない。全員が同時に喉を塞がれたような、不自然な消え方だった。


「家畜、って」


「……さあねえ」


 窓枠を握りしめた女将の手が、白くなっていた。


「念のため、家々を検めさせてもらう」


 男が、部下に顎をしゃくった。


「毎度のことだ。すぐ済む。……隠し立てをする者がいなければ、な」


 男たちが、散った。


 最初の一軒の戸が蹴り開けられ、中から悲鳴が上がった。


 リズが階段を駆け下りたとき、広場ではすでに一人の老人が地面に倒れていた。


 着いた晩、酒場の隅で「トゥーラは生きているか」と呟いた老人である。その傍らで、若い男が代官の部下に腕を捻り上げられていた。


「おじいちゃんに手を出すな!」


「黙れ。家畜を匿った者は同罪だ」


「匿ってなんかない!」


「ならば、なぜ屋根裏に鍵をかけている」


 男の言葉に、若者の顔から血の気が引いた。


 ――そこだ。


 リズの頭の中で、何かが繋がった。この町が隠しているもの。誰にも言えなかったもの。女将が、守るものと言ったもの。


「――待ちなさい」


 自分でも驚くほど、よく通る声が出た。遮るもののない平原の町である。広場の全員が、宿の戸口を振り返った。


「……なんだ、お前は」


 細身の男が、面倒そうに眉をひそめた。


「見ない顔だな。旅の者か」


 リズは、答える代わりに、広場の中央へ歩いていった。倒れた老人の前に立ち、その身体を庇うように、代官の部下たちと向き合う。


 視界の端で、タクミが宿の柱に寄りかかって腕を組んでいる。何も言わない。手も出さない。


 ――これは、私の戦だ。


 この三日間、彼女はずっと考えていた。どうすれば話してもらえるのか。何を言えば信じてもらえるのか。


 言葉ではない。行いだ。


 タクミの言葉が、耳の奥で響いた。


 ――そうよ。この人たちが賭けているのは、命だ。町ごと潰されるかもしれないものを、ずっと守ってきた人たちだ。


 ――なら、私も賭けるしかない。


 リズは、剣の柄に手をかけた。


 そして、抜いた。


 青みがかったオリハルコンの刀身が、昼の陽を弾いて閃いた。


 男たちの手が、一斉に剣にかかる。だがリズは、刃を彼らに向けなかった。


 石畳に、切っ先を突き立てた。


 軽い音とともに、青い刃が石にめり込む。刃こぼれ一つしない。代官の部下の一人が、半歩退いた。


「その、剣は……」


「聞け」


 リズは、顔を上げた。


 広場に集まった全員を、端から端まで見渡す。


「私の名は、リーズレット・ヴァレンタイン」


 広場が、凍りついた。


「ヴァレンタイン皇家が娘。帝国の皇位継承者。今次遠征軍の指揮を執る者だ」


 細身の男の顔から、笑みが消えていた。皇家の姓を騙る者は極刑である。それを承知で名乗る人間が、目の前に立っている。そして石に突き立った剣は、明らかに帝国有数の業物だった。


「馬鹿な。皇女殿下が、こんな町に」


「疑うなら、二日後に来る第五師団に確かめろ。そして、その時までにこの町の者が一人でも傷ついていたなら――」


 剣を、石畳から引き抜いた。


「私が、貴様らの主人に問う」


「この町は、今日から私の庇護下にある。この町の者に手を出す者は、私が相手をする。伯爵だろうと、代官だろうと、誰であろうとだ。……文句があるなら、代官所に戻って、そう伝えろ」


 細身の男は、リズの顔と剣を見比べた。


 それから、部下たちに手で合図を送る。腕を捻り上げられていた若者が、突き飛ばされるように解放された。


「……確かに、伝えましょう」


 男は、慇懃に頭を下げた。


「殿下と仰るなら、それなりの扱いをせねばなりますまい。……ですが」


 顔を上げたその目に、明確な敵意があった。


「伯爵閣下がどうお考えになるかは、また別の話でございます」


 六騎は、来た時と同じように去っていった。


 馬蹄の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。広場には、静寂だけが残った。


 リズは、剣を鞘に納めた。そして、倒れたままの老人に駆け寄り、手を貸して起こした。


「大丈夫? どこか痛む?」


 老人は、口を開けたまま、リズの顔を見上げていた。


「……皇女、様」


「ええ」


「本物の、皇女様が。……なぜ、こんな町に」


「話を聞きに来たの」


 リズは、老人の埃を払ってやった。


「三年前、この町に何があったのか。誰が獣人を狩ったのか。……知りたいの」


 老人の顔が、歪んだ。その皺だらけの目から、涙が一筋こぼれた。


「……なぜ、今頃」


「遅かったのは、分かってる」


 リズは、まっすぐに老人の目を見た。


「長い間、誰も来なかった。誰も聞かなかった。……その間、私は城にいた。何も知らずに、剣を振っていた」


 言葉が、喉に引っかかった。


「ごめんなさい。……本当に、遅くなってごめんなさい」


 広場に集まった町人たちは、誰も口を開かなかった。


 だが、その視線が変わっていた。三日間、自分に向けられていた愛想の良い無関心が、消えていた。


 やがて、人垣の後ろから、女将が進み出てきた。太い腕を布巾で拭きながら、彼女はリズの前に立った。そして、深々と頭を下げた。


「……殿下。見ていただきたいものが、ございます」


 顔を上げたその目は、赤かった。

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