第22話「ここは辺境じゃない、境目だ」
その夜、リズは眠れなかった。宿の二階、北向きの小さな窓を開けると、地平に大樹海の黒い影が横たわっていた。星明かりの下、それは巨大な生き物の背のように、ゆっくりと呼吸しているように見えた。
風が、草の匂いを運んでくる。この町を囲んでいるのは、見渡す限りの平原だった。昼間、馬上から見たそれを、リズは思い返していた。人の手がまるで入っていない、ただ草だけが波打つ広大な土地。誰のものでもない土地。
「眠れないか」
背後から、タクミの声がした。
「うん。……ねえ、タクミ。私、この町に来るまで、覚悟してたの。獣人に襲われて、怯えて暮らしてる人たちがいる。その人たちを守るのが、今回の遠征の建前でしょう。建前だって知ってたけど、それでも、そういう人たちが本当にいるなら、守らなきゃって」
夜風が、金の髪を揺らした。
「でも、違った」
リズは、闇を見つめた。
「誰も、敵だなんて言わなかった。一人も。……あの人たちが待ってたのは、獣人だった」
三年前まで、この町には市が立っていた。塩と鉄が北へ渡り、毛皮と蜂蜜が南へ流れた。蜂蜜を持ってくる娘がいて、老人の孫と遊んでいた。
それが、消えた。
誰かが、獣人を狩り始めたから。
「私の国は」
リズの声が、震えた。
「私の国は、隣人を狩って、鎖に繋いで売って、そのうえ襲われてるって嘘をついて、軍を二万動かして――」
言葉が、続かなかった。
タクミは、リズの隣に立ち、同じ闇を見ていた。
「リズ。この町を、どう見た」
「どうって……」
「町として、だ。城で政務を学んだ皇位継承者として、この町を見た時、何が見える」
問われて、リズは戸惑った。
だが、窓の外を眺めているうちに、少しずつ言葉が出てきた。
「……立地は、悪くない。ううん、悪くないどころじゃない。街道からは外れてる。でも、大樹海に一番近い。その気になれば、樹海の産物が全部ここを通る。三年前まで、実際そうだったんでしょう」
「そうだ」
「町の周りは平原。畑には向かないって女将さんは言ってたけど、それは水路がないからよ。あれだけ広いなら、家畜は放し放題。……水さえ引ければ、話は変わる」
リズの声から、震えが消えていた。
「土塁は膝丈しかない。木柵も朽ちてる。守りは、あってないようなもの。……でも、それは今まで守る必要がなかったってことでしょう。樹海の人たちと商売してたんだから」
言いながら、リズは自分でも気づいた。この町が丸腰なのは、弱いからではない。敵がいなかったからだ。それまで、この町にとって北の森は、恐ろしいものではなかった。塩を買いに来る客がいて、蜂蜜を持ってくる娘がいる、ただの隣だった。
「タクミ。この町、放っておいたら死ぬわ。宿は空っぽ。市も立たない。商人も来ない。……あと何年もたないと思う」
「そうだろうな」
「でも、逆に言えば」
リズは、振り返った。
「交易さえ戻れば、生き返る。それだけなの。元に戻すだけでいいの。……なのに誰も、それをやろうとしない」
「帝都からは遠すぎて見えない。伯爵は、見えていて放っている。……ううん、伯爵が壊したのよ、ここを」
「そうだ」
タクミは、窓の外へ視線を向けた。北の闇。その向こうに、樹海がある。
「――リズ。一つ、覚えておけ。この町は、今は帝国の端だ。街道からも外れた、誰も来ない辺境だ。だが、それは南から見た場合の話だ」
「南から見れば、ここは行き止まりだ。この先には道がなく、樹海があるだけだからな。……だが、北から見れば、どうなる」
「北から……?」
「樹海から見れば、ここは入り口だ」
「森を出て人の世界に入る、たった一つの門。少し前まで、そうだったんだろう。塩も鉄も布も、全部ここを通って森へ渡っていた。……この町は、辺境じゃない。境目だ」
タクミは、窓枠に手を置いた。
「境目には、必ず価値が生まれる。人と人が、あるいは人と人ならざる者が、物を交換する場所にはな。……ここは、そういう場所になり得た土地だ。いや、実際にそうだった」
リズは、言葉を失っていた。同じ町を見て、タクミはまるで違うものを見ている。自分は「死にかけた辺境の町」を見た。彼は「機能を止められた交易の要衝」を見ている。
「……あなた、まさか。この町を、どうにかするつもりなの?」
「どうにか、とは」
「とぼけないで」
リズは、一歩前に出た。
「今の言い方。まるで、ここを自分の手でどうこうする人の言い方だったわ」
タクミは、口の端をわずかに上げただけだった。
「……今は、何も言うまい」
「意地が悪いわ」
「順序がある。まずは、狩りを止めることだ。捕らわれている者を取り戻し、この町を壊した奴を引きずり出す。……その後の話は、その後だ」
リズは、その横顔を睨んだ。睨んだところで口を割る相手ではない。諦めて、また窓の外へ向き直る。
「……でも。もし、この町にもう一度市が立ったら」
夜風が、二人の間を抜けていった。
「あの女将さんの宿は、また満員になるのよね。蜂蜜漬けも並ぶし、鹿肉も並ぶし。……あの老人の孫が、また樹海の子と遊べるようになるのよね。そういうの、悪くないと思う」
タクミが、こちらを見ていた。
「……おまえ、守るとは言わなくなったな」
「え?」
「闘技場で会った頃は、自分より強い者を探していた。城を出てからは、守るべき民を探していた。今おまえが口にしたのは、そのどちらでもない。宿が満員になること。市に蜂蜜が並ぶこと。子供が子供と遊ぶことだ」
言われて初めて、リズは自分の言葉を思い返した。
「国を治めるとは、そういうことだ。誰に教わったわけでもない。この四日、おまえが自分の目で見て辿り着いた」
褒められたのだと気づくまでに、少しかかった。
「リズ。明日から、六日ある。その間に、この町のことを全部調べろ。誰が何をしていて、何が足りず、誰が何に怯えているのか。……女将は、誰がやったか言えないと言った。言えないということは、知っているということだ」
「うん」
「話してもらえるようにしろ。……できるか」
「分からない。でも、あの女将さんは、カティアを見て泣いたのよ。三年間ずっと、隣人が殺されたんじゃないかって心配してた人たちなのよ」
拳を、握りしめた。
「そういう人たちが、口をつぐんでる。それは、その人たちが弱いからじゃない。守るものがあるからよ。……だったら、守れるようにしてあげればいいだけでしょう」
「いいだろう」
タクミは、笑った。
「存分にやれ」
「うん」
リズは、もう一度だけ、北の闇を振り返った。
大樹海が、そこにあった。あの森のどこかに、塩を買いに来ていた人々がいる。蜂蜜を持ってきた娘がいる。そして、その中の何人かは今、遥か南の地下の檻の中で、鎖に繋がれている。
――待ってて。必ず、迎えに行くから。
窓の下では、市の立たない広場を、風が吹き抜けていた。




