第21話「隣人は、交易相手だった」
馬を止めたタクミが、目を細めた。草原の中に、ぽつりと置かれたような集落が見えた。低い土塁と粗末な木柵に囲まれ、家々の数はせいぜい百と少し。町と呼ぶには小さく、村と呼ぶには少しだけ大きい。
「あれが、エーデルフェンか」
その背後、北の地平を、黒々とした緑の壁が埋めていた。
大樹海である。
平原の果てで、それは唐突に始まっていた。境目が、線を引いたように明瞭だった。ここまでが人の土地、ここから先が別の世界だと、大地そのものが宣言しているかのようだった。
「……近いのね。あの町から、樹海まで。歩いても半日かからないんじゃない?」
「そうだろうな」
タクミは、その距離を測るように見つめていた。
――近すぎる。
もし獣人が本当に人を襲う種族なら、この町は真っ先に滅んでいるはずだった。樹海に最も近く、最も守りが薄い。土塁は膝ほどの高さしかなく、木柵は所々朽ちて倒れている。兵の姿もない。
それでも、この町は建っていた。
「行こう」
四人は、馬を進めた。
町に入って、リズが最初に感じたのは、静けさだった。
夕暮れである。本来なら、一日の仕事を終えた人々が通りに出て、店じまいの声が飛び交う時刻のはずだった。
だが、人がいない。
いや、皆無ではない。家の戸口に腰かけた老人が、こちらを見ている。井戸端に立つ女が、こちらを見ている。
見ているだけで、誰も動かない。
そして、その視線には――怯えがなかった。
武装した四人の騎影が現れたというのに、誰一人として逃げず、戸を閉めず、ただ静かに、こちらを見ている。
まるで、期待外れのものを見るような目だった。
「……なによ、これ」
リズは、落ち着かなくなった。
視線が痛いのではない。むしろその逆だった。何の感情も向けられていないことが、居心地を悪くさせていた。
通りの半ばに、一軒だけ灯りの点いた建物があった。傾いた看板に、麦の穂の意匠が彫られている。宿屋兼、酒場らしかった。
四人は、そこで馬を降りた。
扉を開けると、酒と、燻した肉と、埃の匂いがした。卓は八つ。そのうち客がいるのは二つだけである。老人が三人、隅で盃を舐めるように傾けていた。
「いらっしゃい」
奥から出てきたのは、五十がらみの女だった。太い腕を布巾で拭いながら、四人を見る。
そして、その目がわずかに見開かれた。
「……あんたたち、帝都から?」
「分かるか」
「馬が違うもの。うちの町にゃ、あんな脚の綺麗な馬はいないよ」
女は、鼻を鳴らした。
「泊まりかい。部屋は空いてる。……売るほど空いてるよ」
案内された二階の廊下には、確かに扉が十以上並んでいた。だが、どの部屋も長く使われていない匂いがした。
「……三年前まではね」
階段を下りながら、女がぽつりと言った。
「この宿、いつも満員だったんだよ」
夕食は、麦粥と、塩漬けの豚肉を焼いたものだった。味は濃い。だが、それだけだった。
「悪いね。肉も野菜も、大したもんが出せなくて」
女将は、そう言って卓に着いた。他に客もいない。話し相手が欲しかったのだろう。
「昔はね、この時期なら鹿だの猪だのが並んだんだよ。木の実の蜂蜜漬けもね。うちの名物だったんだ」
その声には、どこか懐かしむような響きがあった。
「あんたたち、何しに来たんだい。こんな何もない町に」
「軍が来る」
タクミが、率直に言った。
「あと六日ほどで、帝国軍第五師団がこの町に入る。一万だ」
女将の手から、木の匙が落ちた。
「い、一万……? この町に?」
「司令部を置く。……蛮族討伐のためだそうだ」
沈黙が落ちた。
隅の卓で盃を傾けていた老人たちが、いつの間にか動きを止めている。
「……蛮族」
女将が、その言葉を繰り返した。
「蛮族って、あんた。……あの人たちのことかい」
「あの人たち」
リズが、思わず聞き返した。
女将は、はっとしたように口を押さえた。そして、警戒するような目で四人を見回す。
「いや。……なんでもないよ。あたしゃ何も言ってない」
「女将さん」
リズが、身を乗り出した。
「教えてほしいの。この町は、獣人に襲われたことがある?」
女将の顔が、こわばった。
隅の老人の一人が、盃を置いた。
「……やめときな、女将。役人に聞かれたら、ただじゃ済まん」
「役人?」
タクミが、その言葉を拾った。
「伯爵の代官が、何か言っているのか」
答えはなかった。
だがその沈黙こそが、答えだった。
――口止めされている。
リズの背筋を、冷たいものが這い上がった。この町の人々は、何かを知っている。知っていて、言えば罰せられると分かっている。
その時。
「……もう、いいだろ」
立ち上がったのは、カティアだった。
「カティア、待て」
タクミが止める間もなく、彼女はフードに手をかけた。
そして、外した。琥珀色の瞳。栗色の髪。そしてその頭の左右で、三角の耳が、ぴん、と立ち上がった。
酒場が、凍りついた。
女将が、木の匙を握ったまま固まっている。老人たちが、盃を持ったまま動かない。
――まずい。
この町は、獣人の襲撃に怯えていると、そう報告されている土地なのだ。目の前に獣人が現れれば、悲鳴が上がり、人が逃げ、通報される。そうなれば全てが終わる。
リズの手が、無意識に聖剣の柄へ伸びた。
だが、女将は、悲鳴を上げなかった。
立ち上がりもしなかった。
ただ、その太い腕から、力が抜けていくのが見えた。木の匙が、かたん、と卓に落ちる。
そして。
「……あんた」
女将の声が、震えた。
「あんた、樹海の人かい」
「そうだ」
「……あんたたち、無事だったのかい」
――え。
リズの、頭が真っ白になった。
女将は、椅子から立ち上がっていた。両手で口元を覆い、その目が見る間に潤んでいく。
「三年だよ。三年、誰も来なかった。……みんな殺されちまったんじゃないかって、この町の連中はずっと」
言葉が、途切れた。
隅の老人が、卓に突っ伏した。肩が、震えていた。
「トゥーラは……トゥーラは、生きてるかい」
別の老人が、顔を上げた。
「毎年、蜂蜜を持ってきてくれた娘っこだ。……うちの孫と、よく遊んでた」
「知らない」
カティアの声も、震えていた。
「あたしは、この辺りの部族じゃない。……でも、消えた奴らがいることは、知ってる」
「そうかい」
老人は、それだけ言って、また盃に目を落とした。
リズは、動けなかった。聖剣の柄に伸ばした手が、宙で止まったままだった。
――誰も。
誰一人として、この町の人間は、獣人を敵と呼ばなかった。怯えもしなかった。武器を取ろうともしなかった。
この人たちは――待っていたのだ。来なくなった隣人たちを、ずっと。
「女将さん」
リズの声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「教えて。この町と、樹海の人たちは、どういう関係だったの」
女将は、袖で目元を拭い、椅子に座り直した。
「……商売相手だよ」
そして、語り始めた。
「この町はね、ただの中継地なんだ。畑をやろうにも土は痩せてるし、街道からは外れてる。何にもない町さ」
女将は、卓の上で腕を組んだ。
「でも、樹海が近い。あの人たちは、樹海のものを持ってきた。毛皮に、薬草、蜂蜜、干した木の実。どれも帝都じゃ高く売れる」
「代わりに、こちらは何を?」
「塩さ。あの人たちは、森じゃ塩が取れない。だから塩を欲しがった。あとは鉄の道具と、布と、穀物。……こっちが塩を出して、向こうが毛皮を出す。それだけの話さ」
それだけの話。
リズは、卓の上の皿を見た。塩漬けの豚肉と、麦の粥。それだけの夕食。
――蜂蜜漬けが名物だったと、この人は言っていた。
「前はね、この町も、そこそこ賑わってたんだ。宿は満員、市も立った。帝都から買い付けに来る商人だっていた」
女将は、周囲を見回した。空いた卓。空いた宿。
「それが、ぱたりと来なくなった。三年前から」
「なぜ?」
「知らないよ」
女将は、首を振った。
「最初は、何かあったのかと思った。次の月も来ない。その次も。……そのうち、噂が流れてきた」
声が、低くなった。
「獣人狩りが、始まったってね」
リズの指が、卓の縁を掴んだ。
「誰が」
「言えないよ」
女将は、目を伏せた。
「言えば、この町がどうなるか。……あたしにも、守るもんがあるんでね」
それ以上は、何を聞いても口を開かなかった。




