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最強の姫騎士と、見えない糸で結ばれた異国の王子  作者: 旭屋綉
第1部 ヴァレンタイン帝国編 第2章

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第21話「隣人は、交易相手だった」

 馬を止めたタクミが、目を細めた。草原の中に、ぽつりと置かれたような集落が見えた。低い土塁と粗末な木柵に囲まれ、家々の数はせいぜい百と少し。町と呼ぶには小さく、村と呼ぶには少しだけ大きい。

 

「あれが、エーデルフェンか」

 

 その背後、北の地平を、黒々とした緑の壁が埋めていた。

 

 大樹海である。

 

 平原の果てで、それは唐突に始まっていた。境目が、線を引いたように明瞭だった。ここまでが人の土地、ここから先が別の世界だと、大地そのものが宣言しているかのようだった。

 

「……近いのね。あの町から、樹海まで。歩いても半日かからないんじゃない?」

 

「そうだろうな」

 

 タクミは、その距離を測るように見つめていた。

 

 ――近すぎる。

 

 もし獣人が本当に人を襲う種族なら、この町は真っ先に滅んでいるはずだった。樹海に最も近く、最も守りが薄い。土塁は膝ほどの高さしかなく、木柵は所々朽ちて倒れている。兵の姿もない。

 

 それでも、この町は建っていた。

 

「行こう」

 

 四人は、馬を進めた。

 

 

 

 町に入って、リズが最初に感じたのは、静けさだった。

 

 夕暮れである。本来なら、一日の仕事を終えた人々が通りに出て、店じまいの声が飛び交う時刻のはずだった。

 

 だが、人がいない。

 

 いや、皆無ではない。家の戸口に腰かけた老人が、こちらを見ている。井戸端に立つ女が、こちらを見ている。

 

 見ているだけで、誰も動かない。

 

 そして、その視線には――怯えがなかった。

 

 武装した四人の騎影が現れたというのに、誰一人として逃げず、戸を閉めず、ただ静かに、こちらを見ている。

 

 まるで、期待外れのものを見るような目だった。

 

「……なによ、これ」

 

 リズは、落ち着かなくなった。

 

 視線が痛いのではない。むしろその逆だった。何の感情も向けられていないことが、居心地を悪くさせていた。

 

 通りの半ばに、一軒だけ灯りの点いた建物があった。傾いた看板に、麦の穂の意匠が彫られている。宿屋兼、酒場らしかった。

 

 四人は、そこで馬を降りた。

 

 扉を開けると、酒と、燻した肉と、埃の匂いがした。卓は八つ。そのうち客がいるのは二つだけである。老人が三人、隅で盃を舐めるように傾けていた。

 

「いらっしゃい」

 

 奥から出てきたのは、五十がらみの女だった。太い腕を布巾で拭いながら、四人を見る。

 

 そして、その目がわずかに見開かれた。

 

「……あんたたち、帝都から?」

 

「分かるか」

 

「馬が違うもの。うちの町にゃ、あんな脚の綺麗な馬はいないよ」

 

 女は、鼻を鳴らした。

 

「泊まりかい。部屋は空いてる。……売るほど空いてるよ」

 

 案内された二階の廊下には、確かに扉が十以上並んでいた。だが、どの部屋も長く使われていない匂いがした。

 

「……三年前まではね」

 

 階段を下りながら、女がぽつりと言った。

 

「この宿、いつも満員だったんだよ」

 

 夕食は、麦粥と、塩漬けの豚肉を焼いたものだった。味は濃い。だが、それだけだった。

 

「悪いね。肉も野菜も、大したもんが出せなくて」

 

 女将は、そう言って卓に着いた。他に客もいない。話し相手が欲しかったのだろう。

 

「昔はね、この時期なら鹿だの猪だのが並んだんだよ。木の実の蜂蜜漬けもね。うちの名物だったんだ」

 

 その声には、どこか懐かしむような響きがあった。

 

「あんたたち、何しに来たんだい。こんな何もない町に」

 

「軍が来る」

 

 タクミが、率直に言った。

 

「あと六日ほどで、帝国軍第五師団がこの町に入る。一万だ」

 

 女将の手から、木の匙が落ちた。

 

「い、一万……? この町に?」

 

「司令部を置く。……蛮族討伐のためだそうだ」

 

 沈黙が落ちた。

 

 隅の卓で盃を傾けていた老人たちが、いつの間にか動きを止めている。

 

「……蛮族」

 

 女将が、その言葉を繰り返した。

 

「蛮族って、あんた。……あの人たちのことかい」

 

「あの人たち」

 

 リズが、思わず聞き返した。

 

 女将は、はっとしたように口を押さえた。そして、警戒するような目で四人を見回す。

 

「いや。……なんでもないよ。あたしゃ何も言ってない」

 

「女将さん」

 

 リズが、身を乗り出した。

 

「教えてほしいの。この町は、獣人に襲われたことがある?」

 

 女将の顔が、こわばった。

 

 隅の老人の一人が、盃を置いた。

 

「……やめときな、女将。役人に聞かれたら、ただじゃ済まん」

 

「役人?」

 

 タクミが、その言葉を拾った。

 

「伯爵の代官が、何か言っているのか」

 

 答えはなかった。

 

 だがその沈黙こそが、答えだった。

 

 ――口止めされている。

 

 リズの背筋を、冷たいものが這い上がった。この町の人々は、何かを知っている。知っていて、言えば罰せられると分かっている。

 

 その時。

 

「……もう、いいだろ」

 

 立ち上がったのは、カティアだった。

 

「カティア、待て」

 

 タクミが止める間もなく、彼女はフードに手をかけた。

 

 そして、外した。琥珀色の瞳。栗色の髪。そしてその頭の左右で、三角の耳が、ぴん、と立ち上がった。

 

 酒場が、凍りついた。

 

 女将が、木の匙を握ったまま固まっている。老人たちが、盃を持ったまま動かない。

 

 ――まずい。

 

 この町は、獣人の襲撃に怯えていると、そう報告されている土地なのだ。目の前に獣人が現れれば、悲鳴が上がり、人が逃げ、通報される。そうなれば全てが終わる。

 

 リズの手が、無意識に聖剣の柄へ伸びた。

 

 だが、女将は、悲鳴を上げなかった。

 

 立ち上がりもしなかった。

 

 ただ、その太い腕から、力が抜けていくのが見えた。木の匙が、かたん、と卓に落ちる。

 

 そして。

 

「……あんた」

 

 女将の声が、震えた。

 

「あんた、樹海の人かい」

 

「そうだ」

 

「……あんたたち、無事だったのかい」

 

 ――え。

 

 リズの、頭が真っ白になった。

 

 女将は、椅子から立ち上がっていた。両手で口元を覆い、その目が見る間に潤んでいく。

 

「三年だよ。三年、誰も来なかった。……みんな殺されちまったんじゃないかって、この町の連中はずっと」

 

 言葉が、途切れた。

 

 隅の老人が、卓に突っ伏した。肩が、震えていた。

 

「トゥーラは……トゥーラは、生きてるかい」

 

 別の老人が、顔を上げた。

 

「毎年、蜂蜜を持ってきてくれた娘っこだ。……うちの孫と、よく遊んでた」

 

「知らない」

 

 カティアの声も、震えていた。

 

「あたしは、この辺りの部族じゃない。……でも、消えた奴らがいることは、知ってる」

 

「そうかい」

 

 老人は、それだけ言って、また盃に目を落とした。

 

 リズは、動けなかった。聖剣の柄に伸ばした手が、宙で止まったままだった。

 

 ――誰も。

 

 誰一人として、この町の人間は、獣人を敵と呼ばなかった。怯えもしなかった。武器を取ろうともしなかった。

 

 この人たちは――待っていたのだ。来なくなった隣人たちを、ずっと。

 

「女将さん」

 

 リズの声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 

「教えて。この町と、樹海の人たちは、どういう関係だったの」

 

 女将は、袖で目元を拭い、椅子に座り直した。

 

「……商売相手だよ」

 

 そして、語り始めた。

 

「この町はね、ただの中継地なんだ。畑をやろうにも土は痩せてるし、街道からは外れてる。何にもない町さ」

 

 女将は、卓の上で腕を組んだ。

 

「でも、樹海が近い。あの人たちは、樹海のものを持ってきた。毛皮に、薬草、蜂蜜、干した木の実。どれも帝都じゃ高く売れる」

 

「代わりに、こちらは何を?」

 

「塩さ。あの人たちは、森じゃ塩が取れない。だから塩を欲しがった。あとは鉄の道具と、布と、穀物。……こっちが塩を出して、向こうが毛皮を出す。それだけの話さ」

 

 それだけの話。

 

 リズは、卓の上の皿を見た。塩漬けの豚肉と、麦の粥。それだけの夕食。

 

 ――蜂蜜漬けが名物だったと、この人は言っていた。

 

「前はね、この町も、そこそこ賑わってたんだ。宿は満員、市も立った。帝都から買い付けに来る商人だっていた」

 

 女将は、周囲を見回した。空いた卓。空いた宿。

 

「それが、ぱたりと来なくなった。三年前から」

 

「なぜ?」

 

「知らないよ」

 

 女将は、首を振った。

 

「最初は、何かあったのかと思った。次の月も来ない。その次も。……そのうち、噂が流れてきた」

 

 声が、低くなった。

 

「獣人狩りが、始まったってね」

 

 リズの指が、卓の縁を掴んだ。

 

「誰が」

 

「言えないよ」

 

 女将は、目を伏せた。

 

「言えば、この町がどうなるか。……あたしにも、守るもんがあるんでね」

 

 それ以上は、何を聞いても口を開かなかった。

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