第20話「一万の兵に、殺すなと命じた」
第2章開始です。引き続きよろしくお願いします。
帝都の北門外、広大な集結地に、一万の兵が並んでいた。
夜明け前から集められた兵たちは、朝靄の中で整然と方陣を組んでいる。歩兵、槍兵、弓兵、騎兵。その後方には工作兵、衛生兵、そして果てしなく続く輜重隊の荷馬車が連なっていた。
帝国軍第五師団。その全軍である。人が一万人並ぶという光景を、リズはそれまで想像したことがなかった。
闘技場の五千人でさえ、あれほどの熱気だったのだ。その倍が、いま音もなく、こちらを見上げて立っている。咳一つ聞こえない。一万人分の呼吸だけが、朝靄の中に低く満ちていた。
――足が、震えてる。
石を積んで組まれた壇の下で、リズは自分の膝を見下ろした。
闘技場では、震えたことなどなかった。相手が誰であろうと、剣を抜けばそれで済んだ。だがここには、斬るべき相手がいない。
「リズ」
背後から、タクミの声がした。
「無理に立派なことを言おうとするな。おまえの言葉で話せばいい」
「……分かってる」
リズは、息を吸った。
そして、壇に上がった。
その姿が朝日の中に現れた瞬間、一万の兵の間に、ざわめきが走った。
銀の軽装鎧である。剣闘試合で砕かれた篭手も肩当ても脛当ても、すべて新しく打ち直されていた。磨き上げられた金属が、昇りはじめた陽を受けて白く輝いている。
だが、兜はなかった。
結い上げられることなく背に流された金の髪が、朝の風にゆっくりと波打つ。百七十を超える長身。鎧に包まれてなお隠しきれぬ肉体の豊かさと、そこに同居する鍛え上げられた戦士の均整。そして何より――何一つ遮るもののない、姫騎士の素顔。
碧の瞳が、まっすぐに一万の兵を見下ろしていた。
その顔を、隠していなかった。
壇の下、第五師団の先頭に立っていた男が、わずかに顎を上げた。
フェリクス・レーヴェンシュタイン。
五年間、この女から目を逸らし続けてきた男である。式典で同じ広間にいても、視線を合わせたことは一度もない。司令室を訪れた時ですら、この女は鉄の面の奥に顔を隠していた。
その顔が、いま晒されている。
碧眼が、細くなった。
「――帝国の兵たちよ」
声が、朝の空に響いた。
闘技場で鍛えた声である。腹の底から出す、遠くまで届く声。一万の兵の頭上を、それは確かに渡っていった。
「私はリーズレット・ヴァレンタイン。此度の遠征において、諸君らと共に行く者だ」
言葉を、そこで切った。
次に何を言うかは、昨夜、一睡もせずに考えた。
美しいことを言うのは簡単だった。帝国のため、皇帝陛下のため、民の平安のため。誰もが聞き慣れた言葉を並べれば、それで場は収まる。
だが、それは嘘だ。
この遠征が何のために組まれたのか、リズは知っている。辺境を救うためではない。獣人の脅威を除くためでもない。一人の男を厄介払いするための茶番であり、そして――その裏で、誰かが人を売って肥え太っている。
それを、この一万人は知らない。知らされずに、故郷を離れて樹海へ行かされる。
――だから、嘘だけはつかない。
「まず、諸君に詫びねばならないことがある」
ざわめきが、止まった。
「私は、指揮官として何の実績もない。剣は振れる。だが、兵を率いたことは一度もない。……今日この日まで、城の中で剣を振っていただけの女だ」
一万の兵が、静まり返っている。
「そんな女が、諸君らの命を預かる。不安に思う者がいるだろう。当然だ。私が諸君の立場でも、そう思う」
壇の下で、白髪混じりの老兵が、わずかに目を見開いた。
四十年、数えきれぬ出陣の訓示を聞いてきた男である。指揮官が自らの無力を兵の前で認めるのを、彼はただの一度も聞いたことがなかった。
「だが」
リズの声が、一段強くなった。
「一つだけ、諸君に約束できることがある」
碧眼が、方陣の端から端までを、ゆっくりと渡っていく。
「私は、諸君らの後ろにはいない。前にいる。……最初に敵の前に立つのは、私だ」
風が、金の髪を巻き上げた。
「そして――一人も、死なせない」
どよめきが、波のように広がった。
出陣の訓示で、死なせないと言い切る指揮官はいない。戦とは人が死ぬものであり、そう言わぬのが誠実さだと、誰もが思っているからだ。
「無理を言っているのは分かっている」
リズは、そのどよめきを正面から受け止めた。
「戦とはそういうものではないと、ここにいる将軍方は皆ご存じだろう。私が甘いことを言っていると、笑う者もいるだろう」
声を、落とさなかった。
「それでも私は言う。一人も死なせない。死なせないために、私は前に立つ。……私が倒れるまでは、誰も倒れさせない」
誰も、笑わなかった。
一万人が、身じろぎもせず、その言葉を聞いていた。
「それから、もう一つ」
リズは、続けた。
「此度の遠征について、私は諸君らに話せないことを、いくつか抱えている」
空気が、変わった。
「話せない、と言った。話すことがない、とは言わない。……知っていて、言えないのだ」
リズは、そこで一度、深く息を吸った。
――ここが、崖だ。
嘘をつけば楽になる。だが、つかないと決めた。
「いずれ必ず話す。全て話す。だがそれは今ではない。……そのことを、卑怯だと思う者がいれば、その謗りは私が受ける」
そして、リズは声を張り上げた。
「その上で、一つだけ命じる! これは私の名において下す、最初の命令だ!」
鎧が朝日を弾いた。
「――敵と遭遇した際は、これを捕らえよ! 殺すな!」
一万の兵の間に、明確な戸惑いが走った。
討伐令である。討伐とは、殺すことだ。それを最初の命令で禁じられた。
「相手が武器を捨てぬ限り、身を守ることは許す。だが、追い討ちをかけるな。倒れた者を斬るな。逃げる背を追うな」
リズの声には、一片の迷いもなかった。
「私はこの目で見たいのだ。我々が誰と戦っているのかを。……剣を振ってからでは、それは永遠に分からなくなる」
しばしの、沈黙。
やがて、方陣の後方から、一人の兵が槍の石突きで地を突いた。
どん、と鈍い音が朝靄に響く。
次いで、その隣が。さらにその隣が。
どん。どん。どん。
音は、瞬く間に伝播していった。一万の槍が、一万の石突きが、同時に大地を叩く。地響きのような轟音が、帝都の城壁に反響し、朝の空を震わせた。
それが、帝国軍が指揮官に示す最大の敬意であることを、リズはこの日初めて知った。
壇の上で、リズは立ち尽くしていた。
――届いた。
剣を抜かずに、人の心を動かした。生まれて初めてのことだった。
壇の下、その様子を見上げていたフェリクスは、腕を組んだまま動かなかった。
だがその碧眼は、もう演壇を逸れていなかった。
「……ふん」
小さく、鼻を鳴らす。
「死なせない、か」
言葉に、嘲りはなかった。
この五年、彼はこの女を見ないようにしてきた。生まれながらに与えられた強さで、自分が十年かけて積み上げたものを奪っていった娘。そういうものとして、視界の外に置いてきた。
だが今しがた壇上に立っていたのは、そういう娘ではなかった。
自らの無力を一万の前で認め、話せぬことがあると正直に告げ、その上で殺すなと命じた指揮官である。
――甘い。甘すぎる。
それでも、フェリクスは自分の胸の奥が、わずかに疼くのを感じていた。
二十歳の頃、闘技場の砂の上で、自分が何のために剣を振っていたか。
父が失脚し、失意のうちに死んだ翌年だった。何もかもが理不尽だと思っていた。血筋がなければ何一つ報われぬこの国が、憎かった。だから勝った。勝ち続けた。誰にも文句を言わせぬために。
――あの頃、俺は、誰かを死なせないために剣を振っていただろうか。
答えは、出なかった。
「……第五師団、出立準備!」
フェリクスは、部下に向かって短く命じた。
その声が、いつもよりわずかに掠れていたことに、副官だけが気づいた。
部隊が門を出たのは、それから半刻後のことだった。
第五師団の一万が、北東の街道へと動き始めた。行き先はエーデルフェン。先に発ったグスタフの千名と同じ道を、遥かに遅い足取りで辿ることになる。
街道は途中まで一本である。フォルクヴァルツ伯爵領へ至る道は一つしかなく、その領内でヴァルデンブルクとエーデルフェンに分かれる。前者は東部諸国へ通じる街道沿いの商都、後者はそこからさらに北へ外れた、樹海の際の小さな町だった。
整然と続く隊列が、地平の彼方へと吸い込まれていくのを、リズは壇の上から見送っていた。
「立派だったぞ」
隣に立ったタクミの声に、リズはようやく詰めていた息を吐いた。
「……足、まだ震えてる」
「そうか」
タクミは、そっけなく答えた。それが今のリズには、ちょうどよかった。
「笑わないの?」
「笑うものか」
タクミは、地平の隊列を見つめたまま言った。
「一万人の前で、自分は未熟だと言える人間が何人いる。……あれは、剣より難しい」
リズは、返事をしなかった。
ただ、鎧の下で、心臓がまだ早鐘を打っているのを感じていた。恐怖でも興奮でもない、もっと別の熱だった。
「行くぞ。俺たちは先行する」
「うん」
リズは、頷いた。
「早く、行かなきゃ」
ヴァルデンブルクの地下にも、サングリア家の地下と同じものがある。そう考えれば、一日でも早く着きたかった。
四騎が北東へ発ったのは、その日のうちだった。
軍馬ではなく、脚の速い早馬である。一万の兵と輜重を抱えた第五師団が十日を要する道のりを、四人は四日で駆けた。
街道は、帝都を離れるにつれて痩せていった。
二日目、街道の幅が半減した。三日目、宿場町の間隔が広がり、村と村の間に人の姿が絶えた。畑の作物は丈が低く、道端で見かける子供たちは、皆一様に手足が細かった。
リズは、その全てを見ていた。
馬上から、黙って、一つ残らず。
城の窓から見ていた帝国とは、まるで違う国がそこにあった。豊かなのは帝都だけだった。そこから離れれば離れるほど、この国は瘦せていく。
(帝都のあの繁栄は、こういう辺境の犠牲の上に、辛うじて成り立っているとも言える)
タクミと初めて語り合ったあの夜に、彼が言った言葉が蘇る。あの時、自分は何と答えたか。返す言葉を持たなかった。何一つ知らなかったからだ。
今も、答えは持っていない。だが、少なくとも見ている。
四日目の夕刻。広大な平原の彼方に、その町が見えてきた。




