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最強の姫騎士と、見えない糸で結ばれた異国の王子  作者: 旭屋綉
第1部 ヴァレンタイン帝国編 第1章

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外伝0話「連れ出す男が現れたら、ワシを呼べ」②

 笑いが収まった頃合いで、ガルムは切り出した。


「なあ、姫さん。一つ、商売の話をしてもいいか」


「商売?」


「ワシは傭兵じゃ。雇われるのが仕事でな」


 彼は、膝の上で指を組んだ。太い、節の潰れた指だった。


「去年の秋、三人死なせた」


 リズの表情が、変わった。


「隊商の護衛じゃった。雇い主は南の商人で、よく笑う、腰の低い男でな。峠で山賊に囲まれた時、そいつは荷を捨てて逃げた。荷が囮になるから、と言い残してな」


 ガルムは、天井の隙間の光を見上げた。


「実際には、荷は空じゃった。本物の荷はとうに別の道を行っとった。ワシらは、初めから囮として雇われとったわけじゃ」


「……その商人は」


「どこぞで元気にやっとるじゃろ。追う気にもならん」


 彼は肩をすくめた。


「勘違いせんでくれよ、姫さん。ワシは金に釣られて安い仕事を受ける口ではない。三十年、雇い主は自分の目で選んできた。金払いも、人柄も、見てから受ける」


 ガルムは、節の潰れた指を組み直した。


「それでも、あの男は見抜けんかった。腰が低くて、よく笑う。……そういう手合いが、一番たちが悪い」


 リズは、何も言わなかった。ただ、聞いていた。


「だから、見抜かんでも済む相手が欲しい」


 ガルムは、まっすぐに彼女を見た。


「裏切ろうなどと、そもそも誰も考えつかん相手じゃ。金でも、口でもない。……いざという時に自分の足で立って、逃げずに、部下の前に出る。そういう人間の後ろなら、ワシは何も勘定せんでいい」


 一拍、置いた。


「今日、目の前におった」


 リズの目が、わずかに見開かれた。


「姫さん。ワシらを雇わんか」


「……え」


「あんたが行くところなら、どこでも行く。北の大山脈でも、東の海でも、大樹海の真ん中でもいい。あんたが先頭に立つなら、ワシは後ろについて、あんたの背中だけ見とればいい」


 ガルムは、笑った。今度は、営業の笑いではなかった。


「そういう仕事を、ワシは三十年探しとった」


 控室が、静かになった。


 リズは、酒樽の上で背筋を伸ばしたまま、動かなかった。組んだ指が、白くなるほど固く握られている。


 ガルムには、それがはっきりと見えていた。


 ――ああ。


 この娘は、行きたいのだ。


 金で動く人間と、金では動かない人間の区別くらいはつく。そして目の前のこの娘は、明らかに後者だった。後者で、しかも、今、行けない場所にいる人間の顔をしている。


「……無理よ」


 やがて、リズが言った。声は落ち着いていたが、平坦すぎた。


「私は皇女なの」


「知っとる」


「城を空けられるのは、せいぜい三日。それも、供が二十人つくわ。年に一度の剣闘試合に出るのだって、六回掛け合ってようやく通ったの」


 彼女は、自分の手元を見た。


「稽古はできるわ。毎日でも。……でも、それだけ。この剣を人に向けていいのは、一年のうちで今日だけよ」


 ガルムは、何も言わなかった。


「だから、無理。あなたの誘いは……」


 リズは、そこで言葉を切った。


 しばらく、続きを探しているようだった。


「……ありがたいけど、無理」


「そうか」


 ガルムは、あっさりと引いた。しつこく食い下がるのは、商売でも礼儀でもない。だが、立ち上がろうとした姫を、彼はもう一度呼び止めた。


「姫さん」


 扉の把手にかけた手が、止まった。


「なら、言い直すぞ」


 ガルムは、壁に立てかけた斧を取り、膝の上に寝かせた。欠けた刃が、光の筋の中で鈍く光る。


「あんたを、そこから連れ出せる男が現れたら」


 彼は、その刃を指で弾いた。澄んだ音が、小さく鳴った。


「その時は、ワシを呼べ」


 リズは、扉の前で立ち止まったまま、振り返らなかった。


「……そんな男、いないわよ」


「おるかもしれん」


「四年待ったわ。誰も来なかった」


「四年なんぞ、待ったうちに入るか」


 ガルムは、鼻で笑った。


「ワシは三十年待っとる。……それでもまだ、来るかもしれんと思っとるぞ」


 リズの肩が、小さく震えた。笑ったのか、別のものだったのか、後ろ姿からは分からなかった。


「……覚えておくわ」


 扉が開き、廊下の喧騒が一瞬だけ流れ込んで、また閉じた。


 控室に、ガルムだけが残った。


 彼は膝の上の斧を眺め、それから、空の杯を手に取って傾けた。何も落ちてこなかった。


「……来るといいがな」


 聞く者は、もう誰もいなかった。


 


 一年が、過ぎた。


 冬に一つ、春に二つ、夏に一つ。護衛と、山賊退治と、鉱山の警備。どれも悪くない仕事だった。誰も死ななかった。ベルントの手首もようやく戻り、また槍が握れるようになった。


 悪くない一年である。悪くない、というだけの一年でもあった。


 帝都の空に幟が立ち始めた頃、ガルムは荷を担いで街道を北へ歩いていた。ベルントが横で、やめとけ、と三日前から言い続けている。


「旦那、あんた去年三秒だったろうが」


「三秒じゃ」


「一つ歳を食った分、二秒に縮まるだけだ」


「縮まったら縮まったで、面白いじゃろ」


「面白くねえよ」


 ベルントは、心底うんざりした顔をした。


「だいたい、優勝したところで待ってんのはあの化け物姫だ。勝てるわけがねえ」


「勝つ気はない」


 ガルムは、足を止めずに言った。


 ベルントが、二歩遅れて振り返る。


「……はぁ?」


「今年、誰が来るかを見に行く」


 それ以上は説明しなかった。説明したところで、この男には分からないだろう。去年の控室で交わした話は、誰にも喋っていなかった。


 連れ出せる男が現れたら、呼べ。


 言い出したのはガルム自身である。だとすれば、現れたかどうかを確かめるのも、ガルムの仕事ということになる。


 そして帝国中の腕自慢が一箇所に集まる日は、年に一度しかない。


 


 剣闘試合の会場に、その男はいた。一回戦を、ガルムは観客席から見た。


 東方の装束を着た、細身の男だった。黒髪に上下黒服。重い防具は身につけていない。腰に反りのある片刃の剣を一本、それだけである。


 名は、タクミといった。


 組み合った相手は、槌を使う大男だった。体格では倍近い差がある。賭けの倍率は、大男に大きく傾いていた。


 試合は、二合で終わった。


 一合目、タクミは槌の一撃を受けなかった。受けずに、刃を滑らせて力を横へ逃がした。二合目、大男の手首の内側に刃の峰が入り、槌が宙を飛んだ。


 斬っていない。血が一滴も出ていなかった。


「……剣士だな」


 ガルムは、顎髭を撫でた。


 二回戦、三回戦。同じだった。この男は、相手を斬らない。武器を落とさせるか、体勢を崩して押さえるか、そのどちらかで終わらせる。そして常に、剣だけを使った。


 準決勝の相手は、帝国北部で名の通った両手剣使いだった。速さで押し切る型で、ガルムも一度やり合ったことがある。厄介な相手だ。


 その両手剣使いが、三十合持たずに膝をついた。


 タクミの剣は、ずっと右手の一本きりだった。左手は、試合の間じゅう、ほとんど動かなかった。


「……妙だな」


 隣で覗き込んでいたベルントが、首を捻る。


「何がだ」


「あの兄ちゃん、強いのは分かる。分かるんだが……なんつうか、こう」


「余ってる」


「そう、それだ」


 ガルムは、闘技場の中央に立つ黒装束を見下ろしていた。余っている。そう表現するのが、いちばん近い。この男、手が一本、丸ごと空いている。それでいて、勝っている。


 ――何かを隠しとる。


 ガルムは、膝の上で拳を握った。


 久しぶりに、腹の底が熱くなっていた。


 


『さあ、決勝戦でございます! 挑むは昨年の優勝者、傭兵ガルム! 迎え撃つは東方より来たる謎の剣士、タクミ!』


 踏み固められた土が、午後の陽で焼けていた。表面に撒かれた白砂が、目を刺すほど光っている。


 ガルムは戦斧を両手で持ち、柄の三分の一のところを握った。短く持てば取り回しが利く。長く持てば重さが乗る。相手の間合いを見てから決めるのが常だが、今回は初めから短く握った。


 速い相手には、こちらも速く。


「ガルム、といったな」


 タクミが、剣を抜いた。


 黄金色の刀身だった。陽を受けて、見る角度によってわずかに緋色が揺れる。


「……いい得物じゃ」


 ガルムは、素直に言った。


「一つ、聞いていいか」


「なんだ」


「あんた、なんでここに出た」


 タクミは、答えなかった。


 答えたくないという顔ではなかった。言ったところで伝わらん、と思っている顔である。ガルムはこの手の顔を知っていた。話の通じん相手を前にした時、人はそういう顔をする。


 ――そうかい。


 ガルムは、腹の底から笑った。


「がっはっは! まあいい」


 斧を担ぎ直す。


「斧で聞く」


「それでいい」


 審判が旗を上げた。


 振り下ろされた瞬間、ガルムは踏み込んでいた。


 初手は、下から。地面を削るような軌道で斧を跳ね上げる。老いた体である。速さで勝てるとは思っていない。だが、この一撃だけは別だった。


 タクミは、下がらなかった。


 半歩、横へ。斧の刃が、黒い装束の胸元をかすめて空を割る。風圧で、彼の髪が跳ねた。


 ――避けた。


 ガルムは、斧の勢いを殺さずに反転させた。二撃目は横薙ぎ。腰の高さ。しゃがめば足を刈られ、跳べば空中で捕まる。


 金属が、鳴った。


 タクミが、剣で受けたのである。


 受け流したのではない。真正面から、刃で。


 ガルムの腕に、鉄の痺れが走った。


 ――止まった、じゃと。


 斧の重さは、鎧ごと人を叩き潰すためのものである。細身の片刃の剣で受ければ、刃が折れるか、受けた男の腕が砕けるか、そのどちらかだ。


 どちらも起きなかった。


「面白い斧だ」


 タクミが、鍔迫り合いの向こうで言った。息が上がっていない。


「面白いのは、あんたの剣のほうじゃ」


 ガルムは、体重をかけて押し込んだ。百キロが乗る。タクミの足が、砂の上を半歩滑った。


 ――押せる。


 そこからは、ひたすら押した。


 三撃、四撃、五撃。上段、横、突き、また上段。斧は剣より重く、重い分だけ振りが遅い。だから間を詰める。相手が下がる先を潰す。呼吸を吸わせない。


 これが、ガルムの型だった。速い相手には速さで勝負しない。相手が速さを使う場所を、先に潰してしまう。


 タクミの足が、三歩下がった。


 闘技場が、どよめいた。


「おい、ガルムが押してんぞ!」


「あの兄ちゃん、下がってる!」


 ガルムの視界の端で、賭けの掲示板の数字が動いた。


 だが、彼自身は笑っていなかった。


 ――おかしい。


 押している。確かに押している。だが、当たらない。


 斧は一度も、この男の肉を捉えていない。装束の端をかすめ、髪を跳ねさせ、地面を削っている。それだけだ。下がらされているのではなく、あえて下がっているのではないか。


 左手が、動かない。試合が始まってから、タクミの左手は一度も剣に添えられていなかった。片手で、この重さを受け続けている。


 ――出せ。


 ガルムは、歯を食いしばった。


 ――何を隠しとるか知らんが、出せ。ワシに使え。


 斧を、大きく振りかぶった。


 最大の一撃である。両手で柄の端を握り、腰から回す。当たれば人が二つに割れる。躱されれば、こちらの脇腹が丸ごと空く。


 これを外したことは三度ある。三度とも、死にかけた。


 斧が、風を裂いた。


 タクミが、初めて後ろへ大きく跳んだ。


 斧の刃が地面に叩きつけられ、砂と土塊が高く飛び散る。観客席から悲鳴が上がった。


 そして、ガルムは見た。着地したタクミの、左手が上がるのを。


 ――出た。


 その瞬間、ガルムの中にあったのは、恐怖ではなかった。歓喜に近い何かだった。


 ワシは、この男から一枚剥がした。斧を振ってきた甲斐があった。


 だから彼は、迷わなかった。


 土に食い込んだ斧を引き抜き、そのまま突撃した。踏み込みは深く、頭を下げ、肩から。百キロの塊が、真っ直ぐに突っ込む。


 この距離なら、何が来ても止まらない。止まる体重ではない。


 だが、止まった。


 右の手首が、何かに掴まれた。見えない。だが、確かに掴まれている。縄でも鎖でもない。もっと細く、もっと硬い。指の骨に食い込むような、線の感触だった。


 同時に、左の肩にも同じものが食い込み、斧が手から離れた。


 前へ進もうとした百キロの勢いが、動かない二点に噛み合う。その結果に、体がついていけなかった。


 左の肩が、ぐしゃりと鳴った。


 視界が回った。地面が、下からではなく、横から迫ってくる。頬骨が、固い土を打った。闘技場の音が、一瞬だけ遠のいた。




 ガルムの巨体が、どさりと大地に沈んだ。


 口の中に、土の味が広がっている。左腕は、肩から先の感覚が曖昧だった。指は動く。骨は、たぶん折れていない。


 ガルムは、土に頬をつけたまま、目だけを動かした。


 黒装束の男が、剣を下げたまま立っている。右手に剣。そして左手は――もう、下りていた。


 何をされたのか、分からない。分からないが、一つだけ確かなことがある。


 この男は、剣だけではない。剣だけで準決勝まで勝ち上がり、それでもまだ、後ろに何かを隠していた。今日ガルムが引きずり出したのは、そのうちの一つに過ぎない。


 ――化け物じゃ。


 ガルムは、右手を地面について、身を起こした。左肩が悲鳴を上げたが、構わなかった。


 そして、去年のあの控室を思い出していた。酒樽に腰かけた金の髪。組んだ指が白くなるほど、固く握られていた。


 ――この剣を人に向けていいのは、一年のうちで今日だけよ。


 ――そんな男、いないわよ。四年待ったわ。誰も来なかった。


 ガルムは、目の前の男を見上げた。この男が、次はあの姫と当たる。勝てるかどうかは、分からん。分からんが。


 ――姫さん。


 喉の奥が、震えた。笑いなのか、別の何かなのか、自分でも判じかねた。


 ――来たかもしれんぞ。


 右膝をつき、両手を軽く上げる。


 降参の形である。何度もやってきた形だ。だが今日ほど、この形が心地よかったことはなかった。


「ワシの負けだ……強いな、あんた」

1話に続きます。

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