外伝0話「連れ出す男が現れたら、ワシを呼べ」①
ガルムの巨体が、闘技場の中央で止まった。
倒れたのではない。止められたのである。
旗が振り下ろされてから、三秒だった。
一秒目に、ガルムは踏み込んでいる。地面を削って跳ね上げる初手。三十年、この一振りで食ってきた軌道である。それが、空を割った。金の髪は、刃が通る時にはもう右へ流れていた。走ったのではない。押されたように、横へ滑ったのである。
二秒目に、音が来た。
細い、絹を裂くような音だった。右から一つ、左から二つ、頭の上を回り込んで一つ。続けざまである。ガルムは斧を返し、右から来たものに腹を当てた。硝子を叩くような手応えがあって、そいつは消えた。
残りは、消えなかった。
三秒目に、囲まれた。
首筋の右、指二本ほどの外。左の脇の下。両の膝の裏。腰の後ろ。五つ。どれも肌には触れていない。触れていないのに、産毛がちりちりと灼けている。
そして、そいつらは止まっていなかった。
回っていたのである。
体の周りを、五つの音が輪を描いて走っていた。速い。右の膝の裏にあったものが、瞬きの間に左の脇まで来ている。輪は一定の高さを保たず、腰から肩へ、肩から膝へと、うねりながら上下していた。
どこへ踏み出しても、その先に一つある。
――ああ。
ガルムは、そこで足を止めた。
塞がれたのではない。逃げ道のほうが動いているのである。壁で囲まれたのなら、壁ごと押し通る手はあった。だがこれには、押し通る場所がない。押し通ろうとした先に、次が来る。
「――手を上げろ、ガルム!」
観客席のどこかから、悲鳴に近い声が飛んだ。誰の声かは分からない。だが言われるまでもなかった。
ガルムは、戦斧を握ったままの右手を、ゆっくりと開いた。
樫の柄が、撒かれた白砂の上に落ちた。鈍い音が、五千人の沈黙の底に、やけに大きく響く。
両手を上げる。
その瞬間、回っていたものが消えた。空気が、何事もなかったような顔で流れ始める。
『勝負あり! 勝者、リーズレット=ヴァレンタイン殿下ァ!』
闘技場が、歓声で割れた。膨れ上がった音の塊が、すり鉢の斜面を転がり落ちてくる。ガルムは片膝をついたまま、それを頭の上で受けていた。
半年かけて体を絞った。斧の柄を三度替えた。勝ち上がった六試合で、一度も膝をつかなかった。決勝も、獲った。
その先が、三秒である。
――試合前、この場所で、ワシは何と言った。
『姫さん! ワシが勝ったら、あんたにはワシの女房になってもらうぞ!』
観客は沸いた。よく沸いた。賭け札の窓口に列ができ、掲示板の倍率が音を立てて動いた。
あの時、姫はこちらを見もしなかった。
ガルムは、足元に転がった斧に手を伸ばした。柄を握り、身を起こす。膝が笑っていたが、それは見せないようにした。
金の髪が、視界の端で翻っている。
リーズレット=ヴァレンタインは、青みがかった刀身を鞘に収めたところだった。息はまるで上がっていない。額に汗の一滴も浮いていない。
その足元に、砂を蹴った跡が三つある。三秒の間に、この姫は三度、立つ場所を変えていた。斧の届くところに、一度も留まらなかったということである。
視線が、こちらを向いた。
ガルムは反射的に、にやりと笑ってみせた。
姫は、笑い返さなかった。
ただ、いつもより少しだけ長く、こちらを見ていた。何かを数えているような目だった。それから踵を返し、退場口へ歩いていく。金の髪が、闘技場の光の中で一度大きく揺れた。
ガルムは、斧を肩に担いだ。
足元の土に、円が一つ、浅く刻まれている。撒かれた砂が、その線の上だけ外へ弾かれていた。
自分の踏み込みの跡ではない。回っていたものが削った痕だった。あれがどれだけの速さでこの体の周りを走っていたのか。その形が、そこにだけ残っている。
――化け物だな、まったく。
声には出さなかった。出す気力もなかった。
控室は、祭りの最中だった。
「旦那ァ! よくやったよ、うん、よくやった!」
「優勝したんだぞ、優勝! 姫さんに負けたのが何だってんだ!」
誰かが樽の蓋を叩いて、拍子を取り始めた。
「三秒だぞ三秒! あの姫さんの前で三秒も立っとった男が、今まで何人おった!」
「知るか。誰も数えとらんわ」
「ワシは数えとったぞ。一、二、三、とな。ちゃんと三秒じゃ」
仲間たちが酒樽を叩いている。誰も彼も赤ら顔で、まるで勝ったかのような騒ぎ方だった。負けを笑い飛ばすのが、この稼業の作法である。しんみりされたのでは、こちらの立つ瀬がない。
「おい、飲め旦那。決勝を獲ったんだ、上出来よ」
角の欠けた杯を押しつけてきたのは、ベルントだった。ガルムの隊で最も古い男で、髭に白いものが混じり始めている。四十の半ばを過ぎて、まだ槍を握っている。
「上出来、か」
ガルムは杯を受け取り、一息に呷った。安い葡萄酒が喉を焼いた。
「あんたに言われるとな、本当に上出来だった気がしてくるから困る」
「そりゃ、そういう役目で隣におるからな」
ベルントが肩をすくめる。その拍子に、包帯を巻いた右の手首がちらりと見えた。去年の冬、山道の護衛で骨をやられたところである。まだ完全には戻っていない。
仲間たちは、やがて廊下へ流れていった。他所の陣営へ酒をたかりに行くのだ。控室に、ガルムと、飲み過ぎて壁際で船を漕ぎ始めたベルントだけが残った。
ガルムは膝の上に斧を寝かせ、布で刃を拭いた。
刃こぼれが、一つ。
三日月形に、ほんの爪の先ほど欠けている。石を叩いた傷ではない。鎧を割った傷でもない。
あの三秒の中で、たった一度だけ振れた斧である。
迫ってきた刃のうち、右から来た一本を、斧の腹で叩いた。手応えはあった。硝子を叩いたような、乾いた感触。そして、そいつは消えた。
残りの五本には、指一本届かなかった。
「……一本な」
ガルムは、欠けた刃をひとしきり指でなぞった。
傭兵として食い始めてから、三十年になる。膝は、雨の前に鳴る。朝、握力が戻るまでに少し時間がかかる。斧の柄を短く詰めたのは、去年からだ。
あと何年、この商売ができるか。
その問いは、もう長いこと頭の隅にあった。だが去年の秋以来、それは頭の隅から出てきて、真ん中に座り込んでいる。
――三人だ。
ガルムは布を畳み、斧を壁に立てかけた。ベルントの鼾が、静かな控室に低く響いている。
甲冑を外す手つきが、いつもより雑になっていた。
「殿下、お背中を」
「自分でやるわ」
リズは侍女の手を軽く払い、留め金を一つずつ外していった。肩当てが台の上に置かれ、金属の触れ合う音が控えの間に響く。
勝った。四年目である。
なのに、指先に妙な引っ掛かりが残っていた。
――一本、落とされた。
放った魔法の刃がどこを飛んでいるかは、目を閉じていても分かる。四年かけて、そこまでは仕上げた。
囲んでから、回す。それが彼女の形である。囲むだけでは足りない。止まった壁は、体重のある男に押し通られる。回していれば、押し通る場所そのものがなくなる。二年目の秋に、そう組み直した。
その一本が、消えた。
斧の腹だった。刃ではない。刃で斬ろうとすれば、あの速さの前では振りが間に合わない。だからあの男は、腹で叩いた。斬るのではなく、潰したのである。
この四年で、初めてだった。
リズは、鏡の前で髪をまとめ直した。
――今年も、同じだと思っていた。
試合前、あの大男は観客に向かって、勝ったら女房にする、と吠えた。三年目の男とほとんど同じ台詞である。だから顔も見なかった。
それが、あの三秒だった。
斧が一本を叩き落とし、残りに囲まれ、そして――彼は、手を開いた。
誰にも命じられる前に。衛兵が動くより早く。柄を落とし、両手を上げ、片膝をついた。
そして、笑った。
罵りもせず、言い訳もせず、審判を睨みもせず。ただ、こちらを見て、にやりと笑ったのである。
リズは、髪をまとめる手を止めた。
――あれは、何。
負けて笑う人間を、彼女は知らなかった。
「殿下。お召し替えを」
「……ねえ」
リズは振り返った。
「今年の優勝者。まだ闘技場にいるかしら」
「ガルム、とかいう傭兵でございますか」
侍女が困惑した顔をする。
「おそらくは。ですが、あの者たちの控室は下層でございますし、酒が入っておりましょう。殿下が足をお運びになるような場所では」
「そう」
リズは、剣帯を腰に巻き直した。金具が、かちりと鳴った。
「じゃあ、行くわ」
「殿下」
「礼を言い忘れたの。四年目にして初めてだったのよ、あんなこと」
控室の扉が開いた時、ガルムは壁に背を預けて目を閉じていた。
廊下のざわめきが、急に途切れた。
波が引くように静かになる、という言い方がある。ガルムは長いこと、あれは書き物の中の表現だと思っていた。実際にそうなるのを、この時初めて聞いた。
目を開ける。
扉のところに、金の髪が立っていた。
甲冑は外している。白い上衣に、腰には例の剣。ただそれだけなのに、狭い控室の空気の密度が、ひと目盛り上がったような気がした。
壁際のベルントが飛び起き、槍が倒れ自分の足に当たった。
「姫……さん」
ガルムは立ち上がろうとした。
「そのままでいいわ」
リズが片手を上げて制する。
「膝、笑ってるでしょう」
図星だった。ガルムは頭を掻いた。
「よくお分かりで」
「私もそうだったもの。一年目は」
彼女は扉を後ろ手に閉め、部屋の中央まで来ると、酒樽の一つに腰を下ろした。皇女が、傭兵の控室の酒樽に、である。ベルントが目を白黒させながら、じりじりと壁伝いに部屋を出ていった。気を利かせたのだろう。
二人だけになった。
「あなた、風の刃を一本、斬ったでしょう」
前置きも何もなかった。
ガルムは、壁に立てかけた斧に目をやった。
「……当たっただけじゃ」
「当たったのよ。四年間で、初めて」
リズは膝の上で手を組み、まっすぐにこちらを見ている。値踏みの目ではなかった。もっと素朴な、確かめに来た者の目だった。
「どうやったの」
「どうもこうも」
ガルムは、欠けた刃のあたりを指で示した。
「見えんのだから、見ようとするのをやめた。それだけじゃ」
「……どういうこと」
「風が、鳴る」
彼は、自分の耳の後ろを指で叩いた。
「あんたの刃は、飛ぶ時に空気を裂いていく。音がするんじゃ。細い、絹を裂くような音がな。六つ来たが、右から来たやつだけ、他より半拍早かった。だから、そこに斧を置いた」
リズの唇が、わずかに開いた。
「斬ろうとしたわけじゃない。振っても間に合わん。だから置いただけじゃ。腹で受ければ、面積がある」
「……置いた」
「そう。当たってくれてよかったわい」
ガルムは、がっはっは、と笑おうとして、肋の痛みに顔をしかめた。
リズは、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「去年の挑戦者はね」
「は」
「私に土を投げたわ。負けた後で」
ガルムは、口を噤んだ。
「二年前の人は、顔を上げなかった。そのまま剣をやめたそうよ。最初の挑戦者は、審判に食ってかかった。魔法は反則だって」
リズの視線が、床の一点に落ちている。
「三人とも、負けた瞬間に、別の顔になったの。試合の前に何を言ってたかなんて、どうでもいいのよ。あんなのは口上だもの。でも、負けた後の顔は、取り繕えない」
彼女は顔を上げた。
「あなたは、笑ったでしょう」
ガルムは、返す言葉を探した。見つからなかったので、正直に言うことにした。
「……あれはな、姫さん。格好をつけたわけじゃない」
「じゃあ何」
「仲間が見とる」
ガルムは、扉の方へ顎をしゃくった。
「あの阿呆どもが、上の席で見とるんじゃ。ワシがしんみりした顔で戻ってみろ。あいつら、どんな顔をして酒を注げばいいか分からんようになる。そうすると、その日の飯がまずくなる」
言ってから、少し恥ずかしくなって、ガルムは杯に手を伸ばした。中身はもう空だった。
「だから笑う。それだけじゃ。三十年、そうしてきた」
リズは、また黙った。
控室の天井の隙間から、細い陽が一筋差し込んでいる。砂埃がその中でゆっくり回っていた。
「……それと、姫さん」
ガルムは杯を置いた。
「試合の前に、あんたを女房にどうのと吠えた。あれは詫びる」
「別に」
「いや、詫びる」
彼は、頭を下げた。白いものの混じった、大きな頭だった。
「ありゃ客への口上じゃ。ああ言うと客が沸く。沸けば胴元が儲かる。儲かれば、負けた者にも祝儀が回ってくる。……それに、名が残る。あの大男は面白い、とな。そう覚えられれば、来年の依頼が一つ二つ増える。仲間の飯代になるんじゃ。そういう計算で言った」
「知ってるわよ、そんなこと」
「知っとっても、言われた側は気分が悪かろう」
リズは、少し驚いたような顔をした。
それから、ふっと肩の力を抜いた。
「あなた、変な人ね」
リズは、少しだけ笑った。目元だけの、控えめな笑い方だった。ガルムは、この姫がそんなふうに笑うところを、誰かが見たことがあるのだろうかと思った。




