第19話「人間の定義が、法にはなかった」
リズが屋敷の門に入ると、庭にガルムが立っていた。薔薇の植え込みの傍で、腕を組んだまま門の方を見ている。待っていたのだ。
「戻ったか」
「ガルム! 聞いてよ、二刻よ。二刻あの親子と同じ卓についたの。私、よくやったと思わない?」
馬車を降りたリズは、まだ興奮の余韻の中にいた。髪飾りは外したままで、頬にはうっすら赤みが残っている。
初めての戦だった。剣を使わない戦。そして、勝ちきった。
「タクミたちは?」
「先に戻っとる」
ガルムの声が、いつもより低かった。
「……広間じゃ」
リズは、その調子の違いに気づかなかった。
夜会服の裾を持ち上げ、玄関へ向かう。石段を上がり、扉を押して、廊下を抜けて――広間の入り口で、足が止まった。
灯りは点いていた。
卓に、二人が座っている。
だが、誰も口をきいていなかった。
「……ただいま」
返事は、なかった。
タクミは椅子に深く体を預け、天井を見上げていた。汚れた外套はまだ脱いでいない。その顔には、何の表情も浮かんでいなかった。
そして、その向かいに。
カティアが、卓に突っ伏していた。
「カティア?」
リズは、駆け寄った。
「どうしたの。怪我でもした?」
返事はない。
肩に触れると、その身体が微かに震えているのが分かった。三角の耳が、ぺたりと頭に伏せられている。尻尾は、椅子の脚に巻きついたまま動かない。
「カティア。ねえ、答えて」
「――触るな」
掠れた声だった。
リズの手が、宙で止まった。
「……悪い」
カティアは、顔を上げなかった。
「あんたが悪いんじゃない。……分かってる。分かってるんだ」
その声が、途中で崩れた。
リズは、動けなくなった。
この広間で初めて会った日、獣人の討伐だと聞かされて椅子を蹴倒したこの女が、今は卓に伏せて震えている。あの時の怒りとは、明らかに質が違った。
――何を、見てきたの。
リズは、タクミを振り返った。
「タクミ。何があったの」
「……ああ」
タクミは、ようやく天井から視線を下ろした。
そして、外套の内側から一冊の帳簿を取り出し、卓の上に置いた。
どさり、と重い音がした。
「屋敷の地下に、蔵があった」
「蔵?」
「そこにいた」
タクミは、それだけ言った。
リズの背筋が、冷たくなった。
「……何人」
「二十人近い」
声が、平坦だった。
「首に枷。足に鎖。……子供も、いた」
リズの喉が、鳴った。自分は、その真上にいたのだ。
燭台の海に囲まれた大食堂で、上等な葡萄酒を口に運びながら、公爵と帝国の未来について語り合っていた。愛想笑いを浮かべ、話を引き延ばし、二刻を稼いだと得意になって。
その足元、石畳の下に。
「……私」
リズの手が、震え始めた。
「私、二刻もあそこにいたのに」
「おまえの仕事だ」
タクミは、静かに言った。
「おまえが稼いだ二刻がなければ、俺たちは中に入れていない。……これも、おまえが持ち帰ったようなものだ」
彼は、卓の帳簿を指で叩いた。
だがリズは、その言葉を聞いていなかった。
彼女の目は、卓に伏せたままのカティアに向いていた。この女は、そこにいたのだ。鉄格子の向こう側にいる同族を見て、そして、連れ出さずに戻ってきた。
「――カティア」
リズは、その隣に膝をついた。
そして、震える背中に、そっと手を置いた。
今度は、払われなかった。
卓の上に、一冊の帳簿が置かれている。
リズは、夜会服のまま、それを開いた。そして、灯りの下で一行ずつ、指で追っていく。
日付。数量。発送元。そして、品目の欄。
そこには、こう書かれていた。
――北方産・特級・3。
――北方産・中等・7。
「……なによ、これ」
リズの声が、低くなった。
「北方産、特級。これが……獣人たちのこと?」
答える者はいなかった。カティアは、卓の隅で拳を握りしめている。ガルムは腕を組んだまま、天井を睨んでいた。
リズは、ページを繰り続けた。日付は、三年前に遡っている。数を足していくと、優に百を超えた。
「三年」
リズは、呟いた。
「三年間、この帝都で、こんなことが」
そして、帳簿を閉じた。
「――許さない」
立ち上がる。その顔には、もはや先ほどまでの淑女の微笑みはなかった。
「明日、これを持ってお祖父様のところへ行く。内務総監が獣人を売買していた証拠よ。いくら大貴族でも、これは言い逃れできない」
「――待て」
タクミが、静かに制した。
「なぜ止めるの! 証拠があるのよ!」
「リズ」
タクミは、卓の帳簿を指した。
「一つ、聞かせてくれ。……帝国の法で、奴隷の売買は、何と定められている」
リズは、一瞬きょとんとした。
「そんなの、決まってるでしょう。禁止よ。それも、極刑に近い重罪。三代前の陛下が定めた法で――」
「その条文を、正確に言えるか」
タクミが、遮った。
「一言一句だ。俺は帝国の人間ではない。法典を読んだこともない。……教えてくれ」
リズは、訝しげな顔をした。
なぜ今、そんなことを聞くのか。分からなかった。だが彼女は、皇位継承者である。帝国法典は、幼い頃から叩き込まれてきた。諳んじることなど造作もない。
「いいわ。……第一編、第四条」
リズは、目を閉じた。
「『あらゆる人間は、何者にも所有されない。これを犯す者は――』」
言葉が、途切れた。
目が、開いた。
「……あら」
リズの顔から、血の気が引いていく。
「まって。……まって、そんな」
「どうした」
「人間」
リズは、その二文字を繰り返した。
「あらゆる、人間は」
広間が、静まり返った。
誰も、口を開かなかった。開く必要が、なかった。
「……定義が、ないの」
リズは、卓に手をついた。指先が白くなっている。
「人間とは何か。法典のどこにも、書いてない。当たり前だと思われてたから。誰も、そんなことを疑わなかったから」
声が、掠れていく。
「だから――獣人は人間ではない、そう言い張れば」
リズは、顔を上げた。
「この帳簿は、何の罪の証拠にもならない……?」
カティアが、卓を殴りつけた。
乾いた音が、広間に響いた。
「ふざけるなッ!」
琥珀色の瞳が、燃えていた。
「あたしたちは! あんたたちと同じように喋る! 同じように泣く! 子供を抱いて、飯を食って、明日を心配して生きてる! それでも人間じゃないってのか!?」
「カティア……」
「あの子は、母親を待ってたんだぞ! あんな檻の中で! それでも人間じゃないっていうのか、あんたたちの法は!」
誰も、答えられなかった。
リズは、帳簿を見つめたまま、立ち尽くしていた。
この法を作ったのは、自分の高祖父である。奴隷を憎み、これを根絶するために筆を執った、名君と讃えられる人だ。その人が書いた条文の、たった一つの空白が――百年後、この光景を生んでいる。
そして自分は、その法を継ぐ立場にある。
「……ごめんなさい」
リズは、カティアに向かって頭を下げた。皇女が、頭を下げた。
「私の国の法が、あなたたちを人間として数えていない。……ごめんなさい」
「あんたが謝ることじゃ、ない」
カティアは、顔を背けた。声が、詰まっていた。
「あんたは、あの子たちに会ってすらいない」
「――だから、会いに行く」
リズが、顔を上げた。
その目には、涙はなかった。あるのは、静かに燃え上がる何かだった。
「タクミ。出発はいつ?」
「予定通りなら、七日後だ」
「早められない?」
「……編成の都合がある。だが、掛け合ってみよう」
「お願い」
リズは、帳簿に手を置いた。
「この紙切れじゃ、あの人たちは裁けない。それは分かった。……でも、法で裁けないなら、私が行く。この目で全部見て、全部引きずり出してくる」
そして、静かに言った。
「法が人間を定義していないなら――定義できる立場に、私がなればいい」
広間が、しんと静まった。
タクミは、その言葉をしばらく黙って聞いていた。
――ああ、こいつは。
自分は檻の外へ出ろと言った。剣を振る以外の場所へ出てみろと。だがこの女は、たった今、その先を自分で見つけてしまった。
外へ出るだけではない。国の形そのものを、自分の手で書き換えると言っているのだ。
「――上等だ」
タクミは、笑った。
「掛け合ってくる。三日で発てるようにしよう」
窓の外では、帝都の夜が更けていた。
城下には無数の灯りが灯り、平和な寝息が街を包んでいる。その足元、石畳の下に、鎖に繋がれた者たちがいる。誰にも数えられぬまま、明日を待っている。その事実を知る者は、まだこの広間の四人しかいなかった。
四人が北へ発つのは、三日後である。
辿り着いた先で何を見ることになるのかを、この夜は、まだ誰も知らなかった。
この19話でヴァレンタイン帝国編の1章完結です。
次回は一度外伝を挟みます。
その次から2章、いよいよ舞台が帝都の外に移ります。
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