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最強の姫騎士と、見えない糸で結ばれた異国の王子  作者: 旭屋綉
第1部 ヴァレンタイン帝国編 第1章

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第18話「あたしは、おかあさんじゃない」

 リズがサングリア公爵邸でワイングラスを傾けているのと同時刻、月の陰になる塀のそばに、二つの影があった。

 

「――行くぞ」

 

 タクミが、左手を軽く振った。

 

 何も見えない。だが確かに、塀の上へ向かって何かが伸びていった。次の瞬間、彼の身体がふわりと浮き上がり、音もなく塀の頂に着地する。

 

「うわ」

 

 カティアが、思わず声を漏らした。

 

「あんた、それ……」

 

「暗糸だ。来い」

 

 差し伸べられた手を掴むと、カティアの身体もまた、引き上げられるように塀を越えた。着地の瞬間、膝を折り、爪先から音を殺して降りる。獣人の身のこなしだった。

 

 庭には、篝火が点々と灯っている。だが警備の兵の姿は、確かに薄い。表側へ回されているのだ。

 

「厨房の裏手だ」

 

 二人は、植え込みの影を伝って進んだ。

 

 やがて見えてきたのは、母屋の側面、地面へ向かって下っていく石造りの傾斜路だった。荷馬車が一台通れるほどの幅。その先には、鉄で補強された頑丈な両開きの扉がある。

 

「……あそこだ」

 

 カティアの声が、掠れた。

 

 扉の前には、槍を持った衛兵が二人。眠たげに欠伸をしているが、位置は動かない。

 

「どうする。あたしが弓で――」

 

「殺すな」

 

 タクミの声が、鋭く遮った。

 

「一人でも死ねば、この屋敷は騒ぎになる。そうなれば、二度と近づけん」

 

「……じゃあ、どうする」

 

 タクミは答えず、左手を持ち上げた。次の瞬間、衛兵の一人の足元で、何かが起きた。石畳の目地に、見えない線が走ったのだ。男が体重を移した瞬間、その足が滑るように払われ、頭から前のめりに倒れ込む。

 

「うおっ!?」

 

 もう一人が振り返った、その刹那。

 

 背後から回り込んだ影が、その首筋を正確に打った。声もなく崩れ落ちる。タクミである。糸を放った位置から、そこまでの距離を、カティアはまったく目で追えなかった。

 

「……速いな、あんた」

 

「急ぐぞ」

 

 扉には、内側から閂が掛かっていた。だがタクミが扉の隙間に指を滑らせ、軽く引くと、内側でかたん、と音がして、閂が外れた。見えない糸が、闇の中を這っていったのだ。

 

 扉が、静かに開いた。

 

 そして――匂いが、溢れ出した。

 

「……っ」

 

 カティアが、口元を押さえた。

 

 汚物と、汗と、消毒に使う薬草の匂いが混ざった、饐えた空気。人が、あるいは生き物が、長く閉じ込められている場所の匂いだった。

 

 石段が、闇の底へと続いている。

 

 タクミは懐から糸を繰り出し、扉の把手に一端を結わえた。

 

「道しるべだ。灯りが消えても、これを辿れば戻れる」

 

 二人は、闇へ降りていった。



 

「――して、殿下」

 

 食堂では、三皿目の料理が下げられたところだった。

 

 公爵は、葡萄酒の杯を静かに置き、初めて本題に触れた。

 

「先日の議会の一件、まことに面目次第もございません。あの者たちは、いささか焦っておりましてな。……ですが、彼らの憂いそのものは、あながち的外れとも申せません」

 

「憂い、とは」

 

「帝位の話でございます」

 

 公爵の口調は、あくまで穏やかだった。

 

「殿下がお迎えになる方は、いずれこの帝国の玉座に就かれる。五百年続いた血の上に、座られる。……それが、どういう意味を持つか。殿下ほどのお方なら、お分かりのはずです」

 

「よそ者に、玉座は渡せない、と」

 

「そこまで無粋なことは申しません」

 

 公爵は、微笑んだ。

 

「ただ――帝国を治めるということは、剣が強ければ済む話ではございません。この国には、五百年かけて編まれた法があり、慣習があり、無数の利害が絡み合っております。それを解きほぐせぬ者が玉座に座れば、国は軋みます。軋めば、割れます」

 

 ――ああ、この人は。

 

 リズは、ワインを口に運びながら思った。この人は、一度も「タクミ」の名を口にしていない。侮辱もしていない。ただ、抽象の高みから、静かに石を積み上げてくる。反論しようにも、掴みどころがない。議員たちの粗雑な脅しとは、比べ物にならなかった。

 

「父上の仰る通りだよ、リズ」

 

 コニャックが、身を乗り出した。

 

「あんな男に帝国を任せられるものか。あいつは僕を『ブランデー』だの何だのと呼ぶんだぞ! 名前すら覚えられない野蛮人だ!」

 

「……コニャック」

 

 公爵が、静かに息子を制した。

 

 そして、リズに向き直る。その目が、初めてわずかに笑った。

 

「――今夜は、良いお顔をしておられますな、殿下」

 

 リズの背筋を、冷たいものが走った。

 

「以前の殿下でしたら、この話を持ち出した時点で、席をお立ちになっていたでしょう。……今夜はずいぶんと、お聞きくださる」

 

 ――気づかれている。

 

 リズは、微笑みを崩さなかった。崩さないよう、全身の力を使った。

 

「私も、少しは大人になったのかもしれません」

 

 そして、杯を掲げた。

 

「もう少し、お話を聞かせていただけますか。公爵」

 



 石段の底には、鉄格子が並んでいた。三つ。あるいは四つ。カティアの目には、それが最後まで見えていた。

 

 そして、その中に。

 

「……ああ」

 

 カティアの喉から、声とも息ともつかないものが漏れた。

 

 人影が、うずくまっていた。

 

 一つ、二つ、三つ。数えて、十を超えたところで、カティアは数えるのをやめた。

 

 汚れた敷き藁の上に、獣の耳を持つ者たちが、身を寄せ合って横たわっている。首には、革の枷。足には、鎖。痩せこけて、目に光がない。

 

 その中に――小さな影が、いくつも混じっていた。

 

 子供だった。

 

「くそ……くそっ……!」

 

 カティアが、鉄格子に取りついた。爪が、鉄を掻く音がする。琥珀色の瞳が、涙で濡れていた。

 

「今、開けてやる。待ってろ、今――」

 

「待て」

 

 タクミが、その肩を掴んだ。

 

「離せ!」

 

「静かにしろ。……見つかるぞ」

 

 押し殺した声に、カティアの動きが止まった。荒い息だけが、闇の中に響く。

 

 その時、格子の向こうで、小さな影が動いた。

 

 子供だった。狼のような耳をした、七つか八つの男の子。鎖を引きずりながら、格子のそばまで這ってくる。

 

 そして、掠れた声で言った。

 

「……おかあさん、が、むかえに、きたの?」

 

 カティアの息が、止まった。

 

「ちがう」

 

 やっとのことで、彼女はそう答えた。

 

「ちがう。……あたしは、あんたのおかあさんじゃない」

 

「そう」

 

 子供は、それだけ言って、また闇の中へ戻っていった。まるで、そう答えられることに慣れているかのように。

 

 カティアは、鉄格子を握りしめたまま、動けなくなった。

 

「タクミ」

 

 その声は、震えていた。

 

「頼む。開けさせてくれ。……あの子だけでもいい」

 

「開ければ、どうなる」

 

 タクミの声は、あくまで静かだった。

 

「二十人近くを、鎖のまま、この屋敷から連れ出せるか。塀を越えられるか。帝都の門を通れるか。……仮に一人だけ連れ出したとして、明日の朝、残りはどうなる」

 

 カティアの肩が、震えた。

 

「口を封じられる。全員だ。そして公爵は、何も知らぬ顔で、明日も政務に出る」

 

「……っ」

 

「もう一つある」

 

 タクミは、鉄格子の向こうを見つめたまま言った。

 

「ここを空にしても、供給は止まらん。捕らえているのは、この屋敷ではない。ヴァルデンブルクだ。源を断たなければ、来月にはまた、次の犠牲者がここへ運ばれてくる」

 

 カティアは、答えなかった。

 

 ただ、鉄格子を握る手から、力が抜けていった。

 

「……あたしは」

 

 やがて、絞り出すように言った。

 

「あたしは、この子たちを見捨てるのか」

 

「見捨てるんじゃない」

 

 タクミは、はっきりと言った。

 

「今夜は、持ち帰る。それだけだ」

 

 そして、格子の向こうへ声をかけた。

 

「――聞け」

 

 闇の中の影が、いくつか動いた。

 

「今夜、おまえたちを連れ出すことはできない。すまん」

 

 沈黙。

 

「だが、必ず戻る。おまえたちを捕らえている者を、根から断ってから戻る。……それまで、生きていろ」

 

 答えは、なかった。

 

 誰も、信じていないのだ。ここへ来て、そう言って、二度と戻らなかった者を、彼らは何人も見てきたのかもしれない。

 

 だがタクミは、それ以上何も言わず、踵を返した。

 

 地下のもう一室、酒蔵の奥に、その机はあった。

 

 整然と並んだ帳簿の束。カティアの目が、暗がりの中でそれを一冊ずつ検めていく。

 

「これだ」

 

 カティアが、一冊を引き抜いた。

 

「荷受けの記録だ。……日付、数、それから」

 

 彼女の指が、一行で止まった。

 

「ヴァルデンブルク発、って書いてある」

 

 タクミが、それを受け取った。闇の中では読めない。だが、ずしりとした重みが手のひらに伝わった。

 

「持ち帰る。……行くぞ」

 

 二人は、糸を辿って闇を上っていった。



 

「――ずいぶんと、長居をしてしまいました」

 

 リズが席を立ったのは、それから四半刻後のことだった。

 

「いえ。実り多い夜でございました」

 

 公爵は、丁重に頭を下げた。

 

「して、殿下。お返事のほどは」

 

「持ち帰らせていただきます」

 

 リズは、微笑んだ。

 

「五百年の話を、一晩で決めるわけには参りませんもの」

 

 公爵の目が、また少し笑った。

 

「……仰る通りでございます」

 

 馬車に乗り込み、屋敷の門が背後に遠ざかった瞬間。リズは、座席に倒れ込むように背を預け、大きく息を吐いた。

 

「……つっかれた」

 

 髪飾りをむしり取り、首元の宝玉を緩める。

 

「もう二度とやりたくない。二度と」

 

 それでも、彼女は二刻を稼ぎきったのだった。

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