第17話「着飾ったのは、タクミのためではなかった」
招待状が届いたのは、フェリクスとの会見から二日後の午後だった。
銀の縁取りを施した上質な羊皮紙に、蔦と葡萄をあしらった封蝋。サングリア公爵家の紋章である。メイドのハンナが恭しく差し出したそれを、リズは無言で受け取り、開いた。
そして、三行ほど読んだところで、その眉が跳ね上がった。
「……ふざけてる」
「どうした」
「晩餐会の招待。三日後の夜、サングリア家の屋敷で」
リズは、紙面を睨みつけたまま続けた。
「差出人は、サングリア公爵。コニャックの父親で、帝国内務総監」
「内務総監か」
タクミの目が、わずかに細くなった。
内務総監。地方統治、治安、そして各種の請願と陳情を統括する、帝国政務の要である。領主からの上申を受け、どれを取り上げどれを握り潰すかを決める権限を持つ。
「文面は?」
「先日の貴族議会の件について、遺憾の意を表したい、ですって。無礼な形で書簡を届けようとしたことを詫びたい、と。……その上で、帝国の将来について、腹を割って話したい、そう書いてある」
「なるほど。粗雑なやり方が失敗したから、今度は洗練された形で来たわけだ」
「腹は立つけど、筋は通ってるわ。断る理由が作りづらい形になってる。……問題はここ」
リズは、招待状の末尾を指で叩いた。
「宛名が、私だけなの」
タクミは、それを覗き込んだ。確かに、リーズレット・ヴァレンタイン殿下、とだけある。同伴者への言及は、一切ない。
「あなたのことなんて、最初から人数に数えてないってこと。招待するに値しない、って言ってるのと同じよ」
リズの声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。自分が侮辱されるより、この男が数のうちに入っていない方が、よほど腹立たしいらしい。
「行かないわ!こんなの」
「行こう」
タクミが、あっさりと言った。
「え?」
「正確には、おまえが行け。俺は行かない」
リズが、きょとんとした顔で見上げてくる。
「……何を考えてるの」
「三日後の夜、サングリア公爵とその嫡男は、確実に屋敷の食堂にいる。主人が客を迎えている間、使用人はそちらに手を取られる。警備の目も、表側に厚くなる」
タクミは、招待状を指で弾いた。
「これほど都合のいい機会は、そうそう来ない」
リズの表情が、変わった。怒りが引き、代わりに何かが猛烈な速度で頭の中を駆け抜けていくのが、傍目にも分かった。
「屋敷に、入るつもりなのね」
「そうだ」
「……ちょっと待って。どうしてサングリア家なの? 獣人を捕まえてたのはフォルクヴァルツ伯爵でしょう。うちのメイドが見たのも、伯爵の屋敷よ」
「捕まえた者と、買う者は別だ」
タクミは、指を折った。一本目。
「一つ。伯爵は辺境の領主だ。獣人を集めたところで、辺境で売り捌けるものではない。買い手は帝都にいる。しかも、大金を払え、口が固く、露見しても揉み消せる立場の人間だ」
二本目。
「二つ。あの一帯だけ、討伐依頼が一件も出ていない。ギルドの受付が不思議がっていた。帝国の請願を握り潰せる立場の人間が、意図的に伏せているとしか思えん。……内務総監なら、造作もない」
三本目。
「三つ。コニャックは、討伐相手が獣人であることを知っていた。まだ公にされていないはずのことをな。しかも問い詰めたら、あからさまに動揺した。子供が親の家業を耳にした、という以外に説明がつかん」
リズは、口を半分開けたまま、その三本の指を見つめていた。
「……全部、繋がってる」
「あくまで筋書きだ。確かめなければ、何の意味もない」
タクミは指を下ろした。
「だから、確かめに行く」
その夜、屋敷の広間に四人が集まった。
卓の上には、帝都の街区図が広げられている。タクミが指し示したのは、城に近い高級住宅地の一角、ひときわ広い敷地だった。
「サングリア公爵邸だ。敷地は屋敷の三倍。塀の高さはおよそ二丈、四隅に見張り台」
「よく調べてあるじゃないか」
ガルムが、感心したように唸った。
「昼のうちに、外から一回りしてきた。……ハンナ、地下のことを聞かせてくれるか」
部屋の隅に控えていたメイドが、びくりと肩を震わせた。
「は、はい」
フォルクヴァルツ伯爵邸で働いていたという、あの娘である。
「大貴族のお屋敷は、造りがどこも似ております。氷室と酒蔵が地下にあって、荷を運び込む口は必ず、厨房の裏手に。……表からは見えぬところに、ございます」
「荷馬車が入る口か」
「はい。伯爵様のお屋敷でも、あの荷馬車は、そこから」
ハンナの声が、わずかに震えた。あの夜見たものを、思い出したのだろう。
「よく話してくれた。……もう一つだけ。荷が入るのは、決まった時刻だったか」
「夜更けにございます。日付が変わる少し前、決まって」
タクミは頷き、街区図に向き直った。
「潜入は二人。俺と、カティアだ」
「あたし?」
卓の向かいで、カティアの猫耳がぴくりと動いた。
「なぜ、あたしなんだ」
「三つ理由がある。一つ、おまえは暗闇でも見える。俺の目では、灯りのない地下で細かいものは読めん」
獣人の視力は人間を遥かに凌ぐ。特に暗がりでは、その差は絶望的なほど開く。
「二つ、身が軽い。塀を越え、屋根を渡る。ガルムでは音が出すぎる」
「ちっ、違いねぇな」
ガルムが、自分の丸太のような腕を見下ろして苦笑した。
「三つ。もし本当に獣人がいた場合――俺には、それが誰なのか分からん。年格好も、部族も、状態も。おまえなら分かる」
カティアは、しばらく黙っていた。琥珀色の瞳が、じっと卓上の一点を見つめている。
「……分かった。行く」
短く、それだけ言った。だがその声には、押し殺した何かがあった。
「ガルムは、外で待て。塀の外、西の路地だ。何かあれば、そこへ逃げる」
「おう」
「そして、リズ」
タクミが振り返った。
リズは、腕を組んで街区図を睨んでいた。作戦から自分が外れていることは、聞くまでもなく分かっている。
「私は、食堂で笑ってろってことね」
「そうだ」
「……分かってる。文句を言ってるわけじゃないの」
リズは、息を吐いた。
「私が行ったら、その場で公爵をぶん殴りかねないもの。潜入なんて向いてない。それくらい自分でも分かってる」
そして、顔を上げた。
「時間を稼げばいいのね。どれくらい?」
「二刻。できれば、それ以上」
「二刻」
リズの顔が、露骨に歪んだ。
「二刻も、あの親子と同じ卓につくの……?」
「無理か」
「……無理じゃないわよ。やるわ」
リズは、自分の頬を両手でぱん、と叩いた。
「これは戦よ。剣を使わない戦。……そうでしょ?」
タクミは、少し驚いたように目を見開き、それから笑った。
「そうだ」
三日後の夕刻、王宮。
リズの私室では、侍女たちが総出で戦っていた。
深い青の夜会服。金糸の刺繍。首元には皇家の宝玉。結い上げられた金の髪には、真珠の飾りが編み込まれている。姿見の前に立つその姿は、闘技場で幾百の刃を薙ぎ払った女とは、まるで別人だった。
「……息が、しづらい」
リズは、胸元を押さえて呻いた。
豊かな胸を持ち上げるように仕立てられた衣装は、そのまま身体を締め上げてくる。剣を振るための呼吸が、まったくできない。
「殿下、大変お美しゅうございます」
侍女たちが口々に言うのを、リズは苦い顔で聞いていた。
美しい。そう言われるたび、自分は飾りだと言われている気がしていた。剣がどれほど強かろうと、行き着く先は誰かの傍らの椅子なのだと。
だが今夜は違う。
――今夜は、これが武器だ。
鏡の中の自分を、リズは睨みつけた。あの親子は、自分をそういう目で見る。着飾った皇女、政略の駒、いずれ従う女。ならば、そう見せてやればいい。
見くびらせておけば、時間は稼げる。
「……よし」
小さく呟き、リズは扉へ向かった。
廊下で待っていたタクミが、その姿を認めて、わずかに足を止めた。
「なによ」
「いや」
タクミは、しばらく黙っていた。
「――よく似合っている」
「……そう」
リズは、そっぽを向いた。だが、耳が赤い。
「言っておくけど、これ、あなたのために着てるんじゃないから」
「分かっている」
「……でも」
扉の前で、リズは足を止めた。振り返らないまま、小さく言った。
「嬉しかった。見てくれて、ありがとう」
そして、夜の帝都へと出ていった。
サングリア公爵邸の大食堂は、蝋燭の海だった。
三十人は掛けられる長卓に、今宵の客はただ一人。その一人のために、燭台という燭台に灯が入れられ、壁の絵画も、天井の漆喰装飾も、すべてが柔らかな金色に浮かび上がっている。
上座に座した男が、優雅に立ち上がった。
「よくぞお越しくださいました、リーズレット殿下」
サングリア公爵。五十代半ば、豊かな白髪を撫でつけ、細身の身体を仕立ての良い夜会服に包んでいる。声は低く、落ち着いており、言葉の一つ一つに無駄がない。
――似ていない。
リズは内心で舌打ちした。あの騒がしい息子と、この男が親子だとは、とても思えなかった。そしてそれは、この男の方が遥かに厄介だということを意味していた。
「リズ! 来てくれたんだね! 僕は信じてた、君なら必ず……」
椅子から腰を浮かせて叫んだところで、その声が途切れた。
燭台の光が、扉から入ってきた姿を照らし出したのだ。
深い青の夜会服。金糸の刺繍。結い上げられた金の髪に編み込まれた真珠。剥き出しになった白い首筋と、そこから下へ続く、鎧では決して見ることのなかった曲線。
コニャックの口が、開いたまま止まった。
彼がこの女を見てきたのは、いつも鎧越しである。稽古場で、闘技場で、式典で。剣を提げ、鋼に身を包み、近づけば斬られそうな気配を纏った姿ばかりだった。幼い頃からそうだった。追いかけて、跳ね返されて、また追いかけて。
その相手が今、丸腰で、絹を纏って、そこに立っている。
「あ……」
喉から、意味をなさない音が漏れた。
「うつく――」
最後まで言えなかった。
顔が、耳まで真っ赤に染まっていく。長年募らせてきた想いが、行き場を失って全身を駆け巡っているのが、傍目にも分かった。腰を浮かせたまま、椅子に戻ることも進み出ることもできず、震える指で虚空を掴んでいる。
――ああ、もう。
リズは、内心で天を仰いだ。
この男のこういうところが、昔からずっと苦手だった。悪気がない。打算もない。ただ、みっともないほど正直なのだ。だから始末に負えない。
「コニャック。座りなさい」
公爵が、静かに言った。それだけで、コニャックは糸の切れた人形のように腰を下ろす。
「……失礼を。倅は、どうにも喜びを隠すのが下手でして」
「いえ」
リズは、微笑んだ。
顔の筋肉が、悲鳴を上げている気がした。




