第16話「その涙は、誰にも見せずに済んだ」
扉が閉まると、司令室は不意に静かになった。窓から差し込む朝の光の中を、埃がゆっくりと舞っている。三人以外に、この部屋には誰もいない。
タクミは、一度だけ窓の外を見た。演習場では、何も知らぬ兵たちが隊列を組み替えている。
そして、口を開いた。
「まずは、この国の未来の話をしよう」
「この帝国の皇位は、男子にのみ認められている。姫殿下は皇位継承者ではあるが、殿下自身が玉座に就くことはない。婿を迎え、その男が皇帝となり、殿下は皇妃として国を支える。……そういう仕組みだ」
「……続けろ」
フェリクスは、机の角を爪で叩いた。
「皇位が男子のみに認められることなど、帝国民なら子供でも知っている。それがどうした」
「では聞こう」
タクミは、静かに言った。
「姫殿下は……皇妃で収まる程度の器の人間だろうか」
――音が、消えた。
叩いていた爪が、止まった。
碧眼に走ったのは、驚きでも怒りでもない。もっと複雑な、長年飲み込んできた何かを不意に突かれた人間の顔だった。
そして、兜の中で。
リズは、呼吸を止めていた。
皇妃で収まる器か。
誰も、そんなことを言わなかった。誰も。
帝国最強と呼ばれ、無敗の姫騎士と讃えられ、それでも行き着く先は玉座の傍らの椅子だった。剣がどれほど強かろうと、それは変わらない。だから恋物語を読み、剣を振り、いつか来る「その日」から目を逸らしてきた。
それを、この男は否と言う。
器が違う、と。
鼻の奥が、つんと痛んだ。
――だめ。今は、だめ。
だが、こらえきれなかった。熱いものが目の縁を越え、頬を伝い落ちていく。
拭えない。兜の面頬が下りている。手を入れることもできない。
――よかった。
この鉄の面がなければ、今の顔を、この二人に見られていた。それだけが、救いだった。
タクミに出会ってから、リズが初めて流した涙だった。そしてそれは、誰の目にも触れることなく、兜の内側を伝って、鎧の襟元へと消えていった。
「……つまり貴様は」
フェリクスの声が、低く響いた。
「殿下を皇妃という籠に閉じ込めておくのは、帝国にとって損失だと。そう言いたいのか」
「その通りだ」
タクミは、笑みすら浮かべた。
「剣闘試合の後、俺は姫殿下に問うた。檻の外へ出る気はないか、と。……そして殿下は、俺の手を取った」
兜の中で、リズの耳が熱くなった。
あの日の光景が蘇る。薄暗い退場口の通路。差し出された手。迷わず掴んだ、自分の指。
フェリクスは、しばらく無言だった。
組んでいた腕が解かれ、だらりと体の横に垂れる。それはこの男が、本当に考え込んでいる時の癖だった。
やがて、乾いた笑いが漏れた。
「……は」
短い笑声。だがそこに、嘲りはなかった。
「檻、か。言い得て妙だな」
窓際まで歩き、演習場を眺める。兵たちが隊列を組んで行軍していた。
「俺も、平民の身でここまで来た。出自だけで道を塞がれた連中を、何人も見てきた」
振り返った碧眼には、冷たさの奥に、熱を持った何かが揺れていた。
「だが現実はどうだ。皇位は男のみ。殿下がどれほど強かろうと、法の前ではただの飾りだ。……それで。貴様の構想の続きを聞かせろ」
「今のヴァレンタイン帝国は平和だ」
タクミは続けた。
「三代前の皇帝が拡大路線から平和路線に切り替えて以来、戦はなくなり、帝都は繁栄を極めていると聞いている。その好例が、先日の帝国祭だ。しかし……」
言葉を、区切った。
フェリクスが、片眉を上げる。
「しかし、なんだ」
窓辺から離れ、机の前に戻ってくる。聞く姿勢が、明らかに変わっていた。品定めではなく、対等の策士と向き合う将の顔になりつつある。
「帝都から離れた辺境はどうだ」
タクミは言った。
「痩せた土地、貧しい暮らし。ひとたび何かが起これば、村ごと消える。生き延びても食う物がない。……俺は帝国の外、東の島国から来た。帝国内に入ってからここに至るまで、そういう絶望をいくつも見てきた」
司令室が、静まり返った。
フェリクスの、組みかけた腕が途中で止まる。
「……辺境、だと」
呟くように繰り返した声には、驚きと、苦い納得が混じっていた。
辺境からの報告書は、毎年上がってくる。だがその内容は年々薄くなり、ここ数年は「例年通り問題なし」の一文で片付けられている。フェリクス自身、それを疑問に思いながら、打つ手を持たなかった。
「俺が師団長になってからも、辺境への派兵は数えるほどだ。しかも全て小規模な掃討で、根本的な解決には程遠い」
兜の中で、リズは息を呑んだ。
――私は、それすら知らなかった。
グスタフの司令部で味わったのと同じ苦さが、また喉元にせり上がってくる。
「……それで。辺境の絶望を見た貴様は、何を変えようとしている」
「今回の討伐令にしても」
タクミは、淡々と言った。
「剣闘試合での姫の宣言を聞いた陛下が、見ず知らずのよそ者に皇位をやりたくない一心で、俺に押しつけた厄介払いに過ぎん。……つまり帝国の中枢には、端から辺境を救おうなどという気はないのさ」
拳が、机を叩いた。
乾いた音が、室内に響き渡る。怒りではない。図星を突かれた人間が見せる、無意識の動揺だった。
「……否定はせん」
絞り出すような声だった。フェリクスは、苦々しく天井を仰ぐ。
「陛下は聡明なお方だ。だが同時に、保守的なお方でもある。五百年の帝国を、よそ者の血で汚すことを、何より恐れておられる」
かちゃり、と甲冑が鳴った。
「お祖父様が……そんなおつもりで?」
信じたくない、という響きが、兜の奥から漏れる。
フェリクスは、リズへ向き直った。そして、あえて淡々と告げた。
「殿下。残念ながら、事実です」
甘い言葉で取り繕うより、よほど誠実な態度だった。
「討伐は口実に過ぎん。陛下は、この男が辺境で野垂れ死ぬことを期待しておられる」
そして再び、タクミへ。
「だが貴様、それを分かった上で引き受けたのか。死にに行くようなものだと知りながら」
「分かっていたからこそ」
タクミは、平然と答えた。
「姫殿下を同行させるという条件で引き受けた。姫殿下が隣にいる限り、俺を闇に葬るという手段は、取れなくなるからな」
――暗殺。
その可能性を、この男はあっさりと口にした。
フェリクスの目が、見開かれた。
いや、正確には――ほんの一瞬、その表情から、あらゆる感情が抜け落ちた。瞬きもせず、身じろぎもせず、呼吸すら止まったかのような、完全な静止。
それは驚愕とは違う何かだった。だがそれは本当に一瞬のことで、次の瞬間には、フェリクスは元の顔に戻っていた。
「……そこまで読んでいたのか」
声が、掠れている。
タクミは、その一瞬を見ていた。見ていたが、何も言わなかった。ただ、静かにフェリクスを見返しただけである。
兜の中で、リズは完全に凍りついていた。
祖父が、自分の夫となる人間を、殺そうとしている。その事実が頭の中で反響し、血の気が引いていくのが自分でも分かった。
「わ、私が同行することで……お祖父様への牽制になると、そういうこと……?」
声が震えていた。だがその震えの質は、恐怖だけではない。怒りだった。祖父への、そして今まで何ひとつ見抜けなかった自分自身への。
フェリクスは、椅子の背に深く体を預け、天を仰いだ。
「つまり貴様の絵図はこうか。辺境を救い、生きて帰る。その過程で帝国の中枢に貴様という存在を認めさせ、皇位の在り方すら覆す既成事実を作り上げる」
碧眼が、天井からタクミへ戻る。そこにもう敵意はなかった。代わりにあったのは、途方もない大博打を前にした武人の、抑えきれぬ高揚だった。
「一つ、聞かせろ」
やがて、フェリクスが言った。
「なぜ、俺にこの話をした。殿下の護衛をさせたいだけなら、ここまで腹の内を晒す必要はない。……俺を巻き込むつもりだろう。具体的に、何をさせたい」
「まだ具体的には何も」
タクミは、首を横に振った。
「まずは今回の討伐を成功させるために、力を貸してほしい。その後は――フェリクス殿。貴殿はこのまま帝国軍人として順調に出世したら、どこまで行ける」
フェリクスは、目を細めた。質問の意図を測りかねる顔をしたが、それでも答えた。椅子から立ち上がり、壁に掛けられた帝国軍の階級図を、指でなぞりながら。
「師団長から順当に上がれば、次は軍団総監。複数の師団を束ねる、現場の頂点だ。ここまでは平民でも、実力と功績で辿り着いた者が歴史上数人はいる。……戦があった時代の話だがな」
指が、階級図の中ほどで止まる。
「その上が方面軍司令。属州を統括する最高軍事責任者。ここから先は、貴族の推薦と皇帝の承認が要る」
そして指は、最上段で止まった。そこには「元帥」の二文字が刻まれている。
「さらに上、帝国全軍を統べる元帥。これは建国以来、皇族とそれに連なる大貴族からしか出ていない。実力の問題ではない。血の問題だ」
指が、その二文字の下の余白を、軽く叩いた。
「現に今その椅子に座っておられるのは、フェルディナント閣下だ。……陛下の、末の弟君であらせられる」
兜の中で、リズがわずかに身じろぎした。大叔父にあたる人である。式典の広間で遠目に見たことはある。だが言葉を交わした記憶は、ほとんどなかった。
振り返ったフェリクスの顔には、苦い笑みが浮かんでいた。自分がどこまで登れるかを、正確に把握している男の笑い方だった。
「これが、俺の限界だ。どれだけ剣が強かろうと、どれだけ兵を率いる才があろうと、生まれが平民である以上、軍団総監が関の山。それがこの帝国だ」
「なるほど」
タクミは、頷いた。
「だがそれは、あくまで現在の帝国軍制においての話だ。……貴殿が、姫殿下と俺についたら、どうなるかな」
――詰将棋の、最後の一手だった。
フェリクスは、階級図から手を離したまま、動かなくなった。碧眼の奥で、何かが組み上がっていく。やがてその目に、ぞっとするほど鋭い光が宿った。
「……血筋を覆す、新たな権威を作るということか」
独り言のように呟き、それからタクミを真っ直ぐに見据える。
「殿下が帝都の外で民を救い、名声を得れば、それは貴族勢力にとって極めて都合の悪い存在になる。皇女でありながら皇帝より民に慕われる姫君など、権力構造の天敵だ」
一歩、また一歩と近づいてくる。もはや無意識ではなかった。
「そしてその殿下と婚姻する男が、帝国最強の戦闘力を持つとなれば……既存の軍制では対抗できなくなる。新しい軍制、新しい指揮系統、新しい権力構造。それを求める民の声と合わせて」
フェリクスは、自分の言葉に呑まれ始めていた。長年抑え込んできた何かが、堰を切って溢れ出している。
「……つまり俺に求めているのは、軍政改革の旗頭か。師団長の立場から、既存の軍部に食い込める人間として」
「言ったはずだ」
タクミは、静かに言った。
「俺は姫殿下を檻の外へ出す。そして姫殿下は、自らの意思でそれを望んでいる。……そのために、力を貸してほしい」
部屋の空気が、決定的に変質した。
碧眼が、リズを捉える。
甲冑姿の皇女は、微動だにしない。だがフェリクスには分かった。あの兜の奥で、この姫が覚悟を決めた目をしていることが。
長い沈黙が落ちた。
「……一つだけ、聞く」
低い、しかし芯の通った声だった。師団長としてではない、一人の男としての問いが来る気配があった。
「お前は、殿下を愛しているのか」
直球だった。
政治でも軍略でも戦術でもない、極めて原始的な問い。あらゆるものを計算で測ってきた男が、最後に求めたのは、たったそれだけの言葉だった。
兜の中で、リズの心臓が跳ね上がった。
――こんな場面で、それを聞くの、この人は。
顔が熱い。だが口は挟まなかった。挟めなかった。これはタクミが答えるべき問いで、自分が割り込んでいい領域ではないと、本能が告げていた。
「ああ」
タクミは、迷わなかった。
「だが、言葉ではない。あの試合で――感じたのだ」
飾り立てた愛の言葉も、美辞麗句もない。ただの事実の表明だった。それがかえって、途轍もない重さを持っていた。
フェリクスは、碧眼を閉じた。
数秒の静寂。やがて開いたその瞳には、迷いはなかった。だが、覚悟でもなかった。
「……そうか」
短く呟くと、フェリクスは机に戻り、勅令書を手に取った。
「第五師団は、命に従う。エーデルフェンに司令部を置き、樹海から出てくる敵を止める。それが勅命である以上、当然のことだ」
それは、承諾だった。だが、同盟の承諾ではなかった。
「だが、勘違いするな」
碧眼が、まっすぐタクミを射抜く。
「今の話に乗ったわけではない。俺が受けたのは、勅命だ。それ以上でも、以下でもない」
一拍置いて、続けた。
「貴様の絵図が本物かどうかは、樹海で見せてもらう。……口だけの男なら、いくらでも見てきた。腹の内を晒す度胸があることは認めよう。だが、度胸と実力は別物だ」
そして、初めて――ほんのわずかに、口の端が上がった。
「貴様が何者か、この目で確かめさせてもらう。それまでは、味方とも敵とも思わん」
「上等だ」
タクミは、笑った。
「見ていてくれ」
司令部を出た時、日はすっかり昇っていた。
馬車に乗り込むまで、リズは一言も発しなかった。扉が閉まり、車輪が動き出して、ようやく兜に手をかける。
かしゃん、と面頬を上げた。
その顔には、もう涙の跡はなかった。兜の内側で、鎧の襟元へと、とうに消えてしまっていた。
「ねえ。……あの紙のこと」
リズが、口を開いた。
「あなた、わざと聞いたでしょう。第三師団が何をすると書いてあるか」
「ああ」
「市街の防衛、ってあの人は言ったわ。……でも、ヴェーバー将軍が受けてたのは、全軍で樹海へ進攻しろ、だった」
膝の上の兜を、リズは見下ろした。
「同じ勅命から下りた紙が、二通りのことを言ってるのよ」
タクミは、窓の外を見たままだった。
「載ってないの」
リズの声が、低くなった。
「ヴェーバー将軍への命令は、割り当てのどこにも書かれてない。書かれてないから、誰の目にも触れない。触れなければ、誰も止められない。……あなたがヴェーバー将軍の執務室でやったことと、同じ形よ。使う向きが、逆なだけ」
そこで初めて、タクミが彼女を見た。
「それで」
「それで、ヴァルデンブルク市街に第三師団が残らなくなる。捕まえるはずだった相手は討たれて、聞き出すはずだった話は、誰も聞かない」
組んだ指に、力が入った。
「あの街から、軍がいなくなるの。……なんで。あの街に、何があるの」
「分からん」
タクミは、短く答えた。
「だが、今おまえが並べた通りだ」
リズは、答えなかった。窓枠に置いた籠手が、かたりと鳴った。
「……悔しい」
ぽつりと、リズが言った。
「え?」
「私、名乗って、命令の頭を読んで、言われた通りに見ていただけ。あとは全部あなたが持っていった」
膝の上で、籠手に包まれた指を組み直す。
「自分で会いに行くって言ったのに。あなたにばっかりやらせないって、言ったのに」
タクミは、何も言わなかった。慰めも、否定もしない。
リズは窓の外へ目をやった。帝都の大通りを、荷馬車が行き交っている。
「でもね」
しばらくして、リズは続けた。
「あの人、最後まで一度も、私のことを見なかったでしょう。事実ですかって聞いた時と、覚悟を確かめる時だけ。あとは全部あなたを見てた」
「そうだな」
「……あの人は、私を『負けた人間』としては見た。でも、まだ『戦える人間』としては見てない」
兜を膝に置き、リズは自分の掌を見つめた。
「だから、次は私が話す」
顔を上げた時、その目には、高く昇った陽の光が差していた。
「あの人が私を見ざるを得なくなるまで、私が話す。……今日は無理だった。でも、次は違う」
タクミは、その横顔をしばらく眺めていた。
そして、ふと思った。この女は今日、二つのものを持ち帰った。一つは、皇妃で収まる器ではないと言われた、あの言葉。
もう一つは、それを言われて泣いた自分を、誰にも見せずに済んだという事実である。
――今はまだ、それでいい。
いつかこの女が、兜を被らずにあの部屋へ入っていく日が来る。その日にこそ、フェリクス・レーヴェンシュタインという男は、初めて彼女を見るのだろう。
馬車は、昼の帝都を静かに進んでいった。




