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最強の姫騎士と、見えない糸で結ばれた異国の王子  作者: 旭屋綉
第1部 ヴァレンタイン帝国編 第1章

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第16話「その涙は、誰にも見せずに済んだ」

 扉が閉まると、司令室は不意に静かになった。窓から差し込む朝の光の中を、埃がゆっくりと舞っている。三人以外に、この部屋には誰もいない。

 

 タクミは、一度だけ窓の外を見た。演習場では、何も知らぬ兵たちが隊列を組み替えている。

 

 そして、口を開いた。

 

「まずは、この国の未来の話をしよう」

 

「この帝国の皇位は、男子にのみ認められている。姫殿下は皇位継承者ではあるが、殿下自身が玉座に就くことはない。婿を迎え、その男が皇帝となり、殿下は皇妃として国を支える。……そういう仕組みだ」

 

「……続けろ」

 

 フェリクスは、机の角を爪で叩いた。

 

「皇位が男子のみに認められることなど、帝国民なら子供でも知っている。それがどうした」

 

「では聞こう」

 

 タクミは、静かに言った。

 

「姫殿下は……皇妃で収まる程度の器の人間だろうか」

 

 ――音が、消えた。

 

 叩いていた爪が、止まった。

 

 碧眼に走ったのは、驚きでも怒りでもない。もっと複雑な、長年飲み込んできた何かを不意に突かれた人間の顔だった。

 

 そして、兜の中で。

 

 リズは、呼吸を止めていた。

 

 皇妃で収まる器か。

 

 誰も、そんなことを言わなかった。誰も。

 

 帝国最強と呼ばれ、無敗の姫騎士と讃えられ、それでも行き着く先は玉座の傍らの椅子だった。剣がどれほど強かろうと、それは変わらない。だから恋物語を読み、剣を振り、いつか来る「その日」から目を逸らしてきた。

 

 それを、この男は否と言う。

 

 器が違う、と。

 

 鼻の奥が、つんと痛んだ。

 

 ――だめ。今は、だめ。

 

 だが、こらえきれなかった。熱いものが目の縁を越え、頬を伝い落ちていく。

 

 拭えない。兜の面頬が下りている。手を入れることもできない。

 

 ――よかった。

 

 この鉄の面がなければ、今の顔を、この二人に見られていた。それだけが、救いだった。

 

 タクミに出会ってから、リズが初めて流した涙だった。そしてそれは、誰の目にも触れることなく、兜の内側を伝って、鎧の襟元へと消えていった。

 

「……つまり貴様は」

 

 フェリクスの声が、低く響いた。

 

「殿下を皇妃という籠に閉じ込めておくのは、帝国にとって損失だと。そう言いたいのか」

 

「その通りだ」

 

 タクミは、笑みすら浮かべた。

 

「剣闘試合の後、俺は姫殿下に問うた。檻の外へ出る気はないか、と。……そして殿下は、俺の手を取った」

 

 兜の中で、リズの耳が熱くなった。

 

 あの日の光景が蘇る。薄暗い退場口の通路。差し出された手。迷わず掴んだ、自分の指。

 

 フェリクスは、しばらく無言だった。

 

 組んでいた腕が解かれ、だらりと体の横に垂れる。それはこの男が、本当に考え込んでいる時の癖だった。

 

 やがて、乾いた笑いが漏れた。

 

「……は」

 

 短い笑声。だがそこに、嘲りはなかった。

 

「檻、か。言い得て妙だな」

 

 窓際まで歩き、演習場を眺める。兵たちが隊列を組んで行軍していた。

 

「俺も、平民の身でここまで来た。出自だけで道を塞がれた連中を、何人も見てきた」

 

 振り返った碧眼には、冷たさの奥に、熱を持った何かが揺れていた。

 

「だが現実はどうだ。皇位は男のみ。殿下がどれほど強かろうと、法の前ではただの飾りだ。……それで。貴様の構想の続きを聞かせろ」

 

「今のヴァレンタイン帝国は平和だ」

 

 タクミは続けた。

 

「三代前の皇帝が拡大路線から平和路線に切り替えて以来、戦はなくなり、帝都は繁栄を極めていると聞いている。その好例が、先日の帝国祭だ。しかし……」

 

 言葉を、区切った。

 

 フェリクスが、片眉を上げる。

 

「しかし、なんだ」

 

 窓辺から離れ、机の前に戻ってくる。聞く姿勢が、明らかに変わっていた。品定めではなく、対等の策士と向き合う将の顔になりつつある。

 

「帝都から離れた辺境はどうだ」

 

 タクミは言った。

 

「痩せた土地、貧しい暮らし。ひとたび何かが起これば、村ごと消える。生き延びても食う物がない。……俺は帝国の外、東の島国から来た。帝国内に入ってからここに至るまで、そういう絶望をいくつも見てきた」

 

 司令室が、静まり返った。

 

 フェリクスの、組みかけた腕が途中で止まる。

 

「……辺境、だと」

 

 呟くように繰り返した声には、驚きと、苦い納得が混じっていた。

 

 辺境からの報告書は、毎年上がってくる。だがその内容は年々薄くなり、ここ数年は「例年通り問題なし」の一文で片付けられている。フェリクス自身、それを疑問に思いながら、打つ手を持たなかった。

 

「俺が師団長になってからも、辺境への派兵は数えるほどだ。しかも全て小規模な掃討で、根本的な解決には程遠い」

 

 兜の中で、リズは息を呑んだ。

 

 ――私は、それすら知らなかった。

 

 グスタフの司令部で味わったのと同じ苦さが、また喉元にせり上がってくる。

 

「……それで。辺境の絶望を見た貴様は、何を変えようとしている」

 

「今回の討伐令にしても」

 

 タクミは、淡々と言った。

 

「剣闘試合での姫の宣言を聞いた陛下が、見ず知らずのよそ者に皇位をやりたくない一心で、俺に押しつけた厄介払いに過ぎん。……つまり帝国の中枢には、端から辺境を救おうなどという気はないのさ」

 

 拳が、机を叩いた。

 

 乾いた音が、室内に響き渡る。怒りではない。図星を突かれた人間が見せる、無意識の動揺だった。

 

「……否定はせん」

 

 絞り出すような声だった。フェリクスは、苦々しく天井を仰ぐ。

 

「陛下は聡明なお方だ。だが同時に、保守的なお方でもある。五百年の帝国を、よそ者の血で汚すことを、何より恐れておられる」

 

 かちゃり、と甲冑が鳴った。

 

「お祖父様が……そんなおつもりで?」

 

 信じたくない、という響きが、兜の奥から漏れる。

 

 フェリクスは、リズへ向き直った。そして、あえて淡々と告げた。

 

「殿下。残念ながら、事実です」

 

 甘い言葉で取り繕うより、よほど誠実な態度だった。

 

「討伐は口実に過ぎん。陛下は、この男が辺境で野垂れ死ぬことを期待しておられる」

 

 そして再び、タクミへ。

 

「だが貴様、それを分かった上で引き受けたのか。死にに行くようなものだと知りながら」

 

「分かっていたからこそ」

 

 タクミは、平然と答えた。

 

「姫殿下を同行させるという条件で引き受けた。姫殿下が隣にいる限り、俺を闇に葬るという手段は、取れなくなるからな」

 

 ――暗殺。

 

 その可能性を、この男はあっさりと口にした。

 

 フェリクスの目が、見開かれた。

 

 いや、正確には――ほんの一瞬、その表情から、あらゆる感情が抜け落ちた。瞬きもせず、身じろぎもせず、呼吸すら止まったかのような、完全な静止。

 

 それは驚愕とは違う何かだった。だがそれは本当に一瞬のことで、次の瞬間には、フェリクスは元の顔に戻っていた。

 

「……そこまで読んでいたのか」

 

 声が、掠れている。

 

 タクミは、その一瞬を見ていた。見ていたが、何も言わなかった。ただ、静かにフェリクスを見返しただけである。

 

 兜の中で、リズは完全に凍りついていた。

 

 祖父が、自分の夫となる人間を、殺そうとしている。その事実が頭の中で反響し、血の気が引いていくのが自分でも分かった。

 

「わ、私が同行することで……お祖父様への牽制になると、そういうこと……?」

 

 声が震えていた。だがその震えの質は、恐怖だけではない。怒りだった。祖父への、そして今まで何ひとつ見抜けなかった自分自身への。

 

 フェリクスは、椅子の背に深く体を預け、天を仰いだ。

 

「つまり貴様の絵図はこうか。辺境を救い、生きて帰る。その過程で帝国の中枢に貴様という存在を認めさせ、皇位の在り方すら覆す既成事実を作り上げる」

 

 碧眼が、天井からタクミへ戻る。そこにもう敵意はなかった。代わりにあったのは、途方もない大博打を前にした武人の、抑えきれぬ高揚だった。

 

「一つ、聞かせろ」

 

 やがて、フェリクスが言った。

 

「なぜ、俺にこの話をした。殿下の護衛をさせたいだけなら、ここまで腹の内を晒す必要はない。……俺を巻き込むつもりだろう。具体的に、何をさせたい」

 

「まだ具体的には何も」

 

 タクミは、首を横に振った。

 

「まずは今回の討伐を成功させるために、力を貸してほしい。その後は――フェリクス殿。貴殿はこのまま帝国軍人として順調に出世したら、どこまで行ける」

 

 フェリクスは、目を細めた。質問の意図を測りかねる顔をしたが、それでも答えた。椅子から立ち上がり、壁に掛けられた帝国軍の階級図を、指でなぞりながら。

 

「師団長から順当に上がれば、次は軍団総監。複数の師団を束ねる、現場の頂点だ。ここまでは平民でも、実力と功績で辿り着いた者が歴史上数人はいる。……戦があった時代の話だがな」

 

 指が、階級図の中ほどで止まる。

 

「その上が方面軍司令。属州を統括する最高軍事責任者。ここから先は、貴族の推薦と皇帝の承認が要る」

 

 そして指は、最上段で止まった。そこには「元帥」の二文字が刻まれている。

 

「さらに上、帝国全軍を統べる元帥。これは建国以来、皇族とそれに連なる大貴族からしか出ていない。実力の問題ではない。血の問題だ」

 

 指が、その二文字の下の余白を、軽く叩いた。

 

「現に今その椅子に座っておられるのは、フェルディナント閣下だ。……陛下の、末の弟君であらせられる」

 

 兜の中で、リズがわずかに身じろぎした。大叔父にあたる人である。式典の広間で遠目に見たことはある。だが言葉を交わした記憶は、ほとんどなかった。

 

 振り返ったフェリクスの顔には、苦い笑みが浮かんでいた。自分がどこまで登れるかを、正確に把握している男の笑い方だった。

 

「これが、俺の限界だ。どれだけ剣が強かろうと、どれだけ兵を率いる才があろうと、生まれが平民である以上、軍団総監が関の山。それがこの帝国だ」

 

「なるほど」

 

 タクミは、頷いた。

 

「だがそれは、あくまで現在の帝国軍制においての話だ。……貴殿が、姫殿下と俺についたら、どうなるかな」

 

 ――詰将棋の、最後の一手だった。

 

 フェリクスは、階級図から手を離したまま、動かなくなった。碧眼の奥で、何かが組み上がっていく。やがてその目に、ぞっとするほど鋭い光が宿った。

 

「……血筋を覆す、新たな権威を作るということか」

 

 独り言のように呟き、それからタクミを真っ直ぐに見据える。

 

「殿下が帝都の外で民を救い、名声を得れば、それは貴族勢力にとって極めて都合の悪い存在になる。皇女でありながら皇帝より民に慕われる姫君など、権力構造の天敵だ」

 

 一歩、また一歩と近づいてくる。もはや無意識ではなかった。

 

「そしてその殿下と婚姻する男が、帝国最強の戦闘力を持つとなれば……既存の軍制では対抗できなくなる。新しい軍制、新しい指揮系統、新しい権力構造。それを求める民の声と合わせて」

 

 フェリクスは、自分の言葉に呑まれ始めていた。長年抑え込んできた何かが、堰を切って溢れ出している。

 

「……つまり俺に求めているのは、軍政改革の旗頭か。師団長の立場から、既存の軍部に食い込める人間として」

 

「言ったはずだ」

 

 タクミは、静かに言った。

 

「俺は姫殿下を檻の外へ出す。そして姫殿下は、自らの意思でそれを望んでいる。……そのために、力を貸してほしい」

 

 部屋の空気が、決定的に変質した。

 

 碧眼が、リズを捉える。

 

 甲冑姿の皇女は、微動だにしない。だがフェリクスには分かった。あの兜の奥で、この姫が覚悟を決めた目をしていることが。

 

 長い沈黙が落ちた。

 

「……一つだけ、聞く」

 

 低い、しかし芯の通った声だった。師団長としてではない、一人の男としての問いが来る気配があった。

 

「お前は、殿下を愛しているのか」

 

 直球だった。

 

 政治でも軍略でも戦術でもない、極めて原始的な問い。あらゆるものを計算で測ってきた男が、最後に求めたのは、たったそれだけの言葉だった。

 

 兜の中で、リズの心臓が跳ね上がった。

 

 ――こんな場面で、それを聞くの、この人は。

 

 顔が熱い。だが口は挟まなかった。挟めなかった。これはタクミが答えるべき問いで、自分が割り込んでいい領域ではないと、本能が告げていた。

 

「ああ」

 

 タクミは、迷わなかった。

 

「だが、言葉ではない。あの試合で――感じたのだ」

 

 飾り立てた愛の言葉も、美辞麗句もない。ただの事実の表明だった。それがかえって、途轍もない重さを持っていた。

 

 フェリクスは、碧眼を閉じた。

 

 数秒の静寂。やがて開いたその瞳には、迷いはなかった。だが、覚悟でもなかった。

 

「……そうか」

 

 短く呟くと、フェリクスは机に戻り、勅令書を手に取った。

 

「第五師団は、命に従う。エーデルフェンに司令部を置き、樹海から出てくる敵を止める。それが勅命である以上、当然のことだ」

 

 それは、承諾だった。だが、同盟の承諾ではなかった。

 

「だが、勘違いするな」

 

 碧眼が、まっすぐタクミを射抜く。

 

「今の話に乗ったわけではない。俺が受けたのは、勅命だ。それ以上でも、以下でもない」

 

 一拍置いて、続けた。

 

「貴様の絵図が本物かどうかは、樹海で見せてもらう。……口だけの男なら、いくらでも見てきた。腹の内を晒す度胸があることは認めよう。だが、度胸と実力は別物だ」

 

 そして、初めて――ほんのわずかに、口の端が上がった。

 

「貴様が何者か、この目で確かめさせてもらう。それまでは、味方とも敵とも思わん」

 

「上等だ」

 

 タクミは、笑った。

 

「見ていてくれ」

 

 

 

 司令部を出た時、日はすっかり昇っていた。

 

 馬車に乗り込むまで、リズは一言も発しなかった。扉が閉まり、車輪が動き出して、ようやく兜に手をかける。

 

 かしゃん、と面頬を上げた。

 

 その顔には、もう涙の跡はなかった。兜の内側で、鎧の襟元へと、とうに消えてしまっていた。

 

「ねえ。……あの紙のこと」

 

 リズが、口を開いた。

 

「あなた、わざと聞いたでしょう。第三師団が何をすると書いてあるか」

 

「ああ」

 

「市街の防衛、ってあの人は言ったわ。……でも、ヴェーバー将軍が受けてたのは、全軍で樹海へ進攻しろ、だった」

 

 膝の上の兜を、リズは見下ろした。

 

「同じ勅命から下りた紙が、二通りのことを言ってるのよ」

 

 タクミは、窓の外を見たままだった。

 

「載ってないの」

 

 リズの声が、低くなった。

 

「ヴェーバー将軍への命令は、割り当てのどこにも書かれてない。書かれてないから、誰の目にも触れない。触れなければ、誰も止められない。……あなたがヴェーバー将軍の執務室でやったことと、同じ形よ。使う向きが、逆なだけ」

 

 そこで初めて、タクミが彼女を見た。

 

「それで」

 

「それで、ヴァルデンブルク市街に第三師団が残らなくなる。捕まえるはずだった相手は討たれて、聞き出すはずだった話は、誰も聞かない」

 

 組んだ指に、力が入った。

 

「あの街から、軍がいなくなるの。……なんで。あの街に、何があるの」

 

「分からん」

 

 タクミは、短く答えた。

 

「だが、今おまえが並べた通りだ」

 

 リズは、答えなかった。窓枠に置いた籠手が、かたりと鳴った。

 

「……悔しい」

 

 ぽつりと、リズが言った。

 

「え?」

 

「私、名乗って、命令の頭を読んで、言われた通りに見ていただけ。あとは全部あなたが持っていった」

 

 膝の上で、籠手に包まれた指を組み直す。

 

「自分で会いに行くって言ったのに。あなたにばっかりやらせないって、言ったのに」

 

 タクミは、何も言わなかった。慰めも、否定もしない。

 

 リズは窓の外へ目をやった。帝都の大通りを、荷馬車が行き交っている。

 

「でもね」

 

 しばらくして、リズは続けた。

 

「あの人、最後まで一度も、私のことを見なかったでしょう。事実ですかって聞いた時と、覚悟を確かめる時だけ。あとは全部あなたを見てた」

 

「そうだな」

 

「……あの人は、私を『負けた人間』としては見た。でも、まだ『戦える人間』としては見てない」

 

 兜を膝に置き、リズは自分の掌を見つめた。

 

「だから、次は私が話す」

 

 顔を上げた時、その目には、高く昇った陽の光が差していた。

 

「あの人が私を見ざるを得なくなるまで、私が話す。……今日は無理だった。でも、次は違う」

 

 タクミは、その横顔をしばらく眺めていた。

 

 そして、ふと思った。この女は今日、二つのものを持ち帰った。一つは、皇妃で収まる器ではないと言われた、あの言葉。

 

 もう一つは、それを言われて泣いた自分を、誰にも見せずに済んだという事実である。

 

 ――今はまだ、それでいい。

 

 いつかこの女が、兜を被らずにあの部屋へ入っていく日が来る。その日にこそ、フェリクス・レーヴェンシュタインという男は、初めて彼女を見るのだろう。

 

 馬車は、昼の帝都を静かに進んでいった。

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