第15話「鉄の面を下ろして、司令室へ」
金属の擦れる音で、タクミは目を覚ました。
まだ夜が明けきらぬ薄明の時刻である。屋敷の廊下から、かちゃり、かちゃりと硬質な音が断続的に響いてくる。何事かと寝室を出たタクミは、そこで珍しいものを見た。
リズが、鎧を着ていた。
「……早いな」
低血圧で朝に弱く、放っておけば日が高くなるまで寝台から出てこない女である。その本人が、まだ空が藍色をしているうちから、姿見の前で胸当ての留め具と格闘していた。
「おはよう。……ん、ちょっと、これ」
背中の留め具に手が届かず、器用に肩を捻っている。タクミが黙って背後に回り、革帯を引いて締めてやった。
「ありがと」
結い上げた金の髪が、鎧の襟から覗いている。装いは軽装ではなく、正式な野戦仕様の板金鎧だった。籠手も、脛当ても、すべて揃っている。
「これから戦にでも行くのか」
「行くわよ。……ある意味ではね」
リズは姿見に向き直り、最後に兜を手に取った。面頬付きの、視界を細く絞った重厚なものである。
それを、被った。
かしゃん、と面頬が下りる。金の髪も、白い頬も、碧の瞳も、すべてが鉄の向こうに隠れた。残ったのは、細い覗き穴の奥に光る、二つの点だけである。
タクミは、しばし黙ってその姿を眺めていた。
「……訓練でもないのに、面頬まで下ろすのか」
「うん」
兜の中から、くぐもった声が返ってくる。
「顔、見られたくないから」
「フェリクスにか」
答えはなかった。だがそれは、肯定と同じだった。
五年間、避けられ続けてきた相手である。その男に、今日初めて正面から会う。会って何を言われるか、何を言われた時に自分がどんな顔をするか、リズには見当がついていないのだ。そして、見当がつかないものを人前に晒すのを、この女は何よりも嫌う。
剣を握れば誰にも負けない。だが、それ以外の場所で無防備になることには、まるで慣れていない。
「行こう、タクミ」
兜の奥から、はっきりとした声が響いた。
「フェリクスの顔、直接見てやる」
馬車が動き出してしばらく、タクミが一度だけ口を開いた。
「名乗って、勅命を読み上げろ。……第三師団の名を出す時だけ、あの男の手を見ておけ」
膝の上に兜を抱えたまま、リズは彼を見た。
グスタフの司令部からの帰り道に、この男が言ったことを思い出す。片方の師団長が、もう片方の存在を知らされていない。そして、知らされていないのは、おそらくあちらも同じだ――。
「確かめるのね」
「正面から聞いても、あの手の男は答えん。知っていると言うか、答える義理はないと言うかのどちらかだ」
タクミは、窓の外へ目をやった。
「初めて聞く名を聞かされた時、人は必ずどこかが動く。……顔ではない。手だ」
リズは、兜の縁を指でなぞった。
自分にできることが一つ与えられた。それが嬉しいのか、それとも一つしか与えられなかったことが悔しいのか、判じかねていた。
第五師団司令部は、帝都中心部からやや外れた区画にあった。
第三師団のそれが「使い込まれた」建物だとすれば、こちらは「磨き上げられた」建物だった。石壁には汚れ一つなく、正門から玄関までの敷石は寸分の狂いもなく並んでいる。周囲には武装した衛兵が等間隔に立ち、視線は微動だにしない。
同じ整然でも、質が違う。グスタフの司令部が積み重ねの秩序なら、こちらは意志で押さえつけた秩序だった。
「止まれ。ここは帝国第五師団司令部である。何用か」
門衛が槍を交差させ、道を塞いだ。全身鎧の女と東方風の男という異様な取り合わせに、一瞬たじろぐ様子は見せたが、すぐに職務の顔に戻る。訓練が行き届いていた。
リズが、面頬を上げた。
金の髪と、白皙の面が朝日に晒される。
「リーズレット・ヴァレンタイン。皇帝陛下の勅命により、フェリクス・レーヴェンシュタイン師団長に面会を求めます」
門衛二人の顔から、血の気が引いた。
皇女が供も連れず、直々に司令部を訪ねてくる。前代未聞である。慌てて槍を収めた一人が、転がるように建物の中へ駆け込んでいった。
待つこと、数分。
重厚な扉が、ゆっくりと開いた。
司令室に足を踏み入れた瞬間、リズは自分の呼吸が浅くなるのを感じた。
窓から差し込む朝の光の中、奥の執務机に、その男は座っていた。
銀髪を後ろへ撫でつけた長身。切れ長の碧眼。軍服の着こなしには糸一本の乱れもなく、机上の書類は定規で測ったように整えられている。歳の頃は三十代半ば。だがその佇まいには、年齢よりも遥かに長い年月を軍務に費やした者だけが持つ、乾いた重さがあった。
フェリクス・レーヴェンシュタイン。
十五年前、二十歳そこそこで剣闘試合を制し、以後十年にわたって王座を守り続けた男。リズが剣を握る理由になった男。そして、この五年間、一度も彼女の前に姿を現さなかった男である。
その男は、皇女を前にして――立ち上がらなかった。
「これはこれは。皇女殿下自らお越しいただけるとは」
声は丁寧だった。だが椅子から腰を上げる気配は、微塵もない。
「今は取り込み中ですが、どのような御用件で」
兜の下で、リズは奥歯を噛んだ。
――そう。こういう人なのだ。
この五年、式典で幾度も同じ広間にいながら、一度も目を合わせなかった。今もそうだ。この男は自分を見ていない。皇女という肩書きの向こう側にいる人間を、見ようとしていない。
だが、リズは面頬を下ろした。かしゃん、と鉄が落ちる音が、静かな司令室に響く。
顔を隠したのは、動揺を見られないためだった。同時にそれは、この場に「皇女」ではなく「一人の戦士」として立つという意思表示でもあった。
そして、口を開いた。
「皇帝陛下より、大樹海の蛮族を討伐せよとの勅命が下りました。ついては、帝国軍第三師団および第五師団に出撃が命じられています」
第三師団、と口にした時である。
リズは、細い覗き穴の向こうへ神経を集めていた。ペンを持つ指が止まるか、視線が机の書面へ落ちるか。初めて聞く名であれば、どこかが動くはずだった。あの老将が、消された名前の一点で動いたように。
何も、動かなかった。
指も、瞼も、呼吸の間隔すらも。とうに知っている名を、わざわざ読み上げられただけの顔だった。
「第三師団は先行し、ヴァルデンブルクに駐留、市街の警戒に当たる。第五師団は――」
そこで、言葉が途切れた。
言うべき次の一句を、リズは持っていなかった。第五師団をどう動かすのか。それはタクミの領分であり、まだ聞かされてもいない。
――ここまでだ。
自分で会いに行くと言った。あなたにばかりやらせないと言った。それなのに、玄関口で名乗り、命令の頭を読み上げたところで、もう手札が尽きている。
見ておけと言われたことだけは、できた。それ以外は、何一つできなかった。
兜の中で、リズは屈辱を噛み殺した。
「第五師団は大樹海の外縁に展開。エーデルフェンに司令部を置き、樹海を監視せよ。樹海から町へ向かう蛮族を、一匹残らず止めろ」
タクミが、後を引き取った。
「本隊が樹海に入り、中枢を叩く。以上だ」
司令室の空気が、変わった。
フェリクスが、ペンを置いた。ゆっくりと、まるで獲物を品定めするように、その視線がタクミの上を這う。頭から爪先まで、値踏みするように。
「……誰だ、貴様は」
当然の問いだった。名乗りもせず、いきなり師団の運用を口にする不審者。しかもその隣に皇女が立っている。
フェリクスは椅子の背にもたれ、足を組んだ。
「大樹海の蛮族討伐、それは結構。だが貴様は何者だ。どこの馬の骨が、帝国軍に指図している」
「彼は……」
リズが一歩前に出かけたところで、フェリクスは手を挙げて制した。
「殿下。俺は、殿下にお聞きしているのではありません」
碧眼が再びタクミを射抜く。そこには敵意すらなかった。ただ、無価値である、という純粋な判定だけがあった。
「傭兵風情が我が師団を動かすと。随分と面白い冗談だ」
「申し遅れた。俺の名はタクミ・アマギ」
タクミは、動じなかった。
「先日、謁見の間にて皇帝陛下より、大樹海の蛮族討伐の勅命を賜った者だ。フェリクス殿、貴殿はあの場におられなかった。困惑されるのも無理はない」
フェリクスの眉が、わずかに動いた。
謁見の間。その一語が、彼の中で何かと結びついたらしい。組んでいた足が解かれる。
「……ああ」
背筋が、わずかに伸びた。
「あの茶番か。陛下が、剣闘試合の優勝者に勲章をくれてやったという」
訂正する気も失せるほどの侮蔑が、その声には込められていた。机の縁を、指がとんとんと叩く。
「つまり貴様が、例の優勝者か。……祭りの余興で勝った程度の男に、帝国軍を預けるとは。陛下も随分と酔狂でいらっしゃる」
かちゃり、と兜が鳴った。
リズが、甲冑の中で拳を握りしめたのだ。反論の言葉が喉元まで出かかっている。だが、それを飲み込んだ。ここで自分が庇えば、この男の評価はさらに下がる。それが分かる程度には、リズも学んでいた。
フェリクスは、机の端に置かれた勅令書を、ひらりと指で弾いた。
「作戦の中身自体は、理解した。第三師団が街を守り、我が第五師団が敵を止める。理には適っている」
「その紙だ」
タクミが、顎で示した。
「第三師団が何をすると書いてある。読んだままを言ってくれ」
フェリクスの眉が、寄った。質問の意図が読めない、という顔だった。
「……市街の防衛だ。それがどうした」
「いや」
タクミは、それきり紙のことに触れなかった。触れないことが、答えだった。
兜の中で、リズは息を詰めた。
この男は、紙を持っている。第三師団がどこで何をするかが書かれた紙を、自分の机の上に。だから第三師団の名を読み上げられても、指一本動かなかったのだ。
あの老将の机には、そんな紙はなかった。第五師団という四文字は、あの部屋で最後まで一度も出てこなかった。
――同じじゃない。
あの帰り道にタクミが言ったことは、半分だけ外れている。知らされていないのは、あの将軍だけだ。
そこまで辿って、リズはもっと冷たいものに突き当たった。
市街の防衛。この男の紙には、そう書いてある。だがあの司令部で老将が読み上げたのは、第三師団は全軍をもって大樹海に進攻し、これを制圧せよ、だった。同じ勅命から下りた紙が、二通りのことを言っている。
――どこにも載っていない。
あの無謀な命令は、割り当てのどこにも書かれていないのだ。書かれていなければ、誰の目にも触れない。触れなければ、誰も止められない。書かれていないことは指揮官が決める――タクミが第三師団の執務室で使った理屈と、同じ形をしていた。使う向きが、逆なだけだ。
そしてリズは、その書き換えで何が変わったのかを、初めて逆から数えた。
ヴァルデンブルク市街に駐留するはずだった第三師団が、森へ消える。捕らえるはずだった者は、討たれる。聞き出すはずだった話は、誰も聞かない。
市街から、軍がいなくなる。
喉の奥が、すっと冷えた。
そこで初めて、碧い目にわずかな光が灯った。
「だが一つ聞かせろ。貴様自身の戦力は。傭兵団とやらの規模は。まさか数十人で樹海に踏み込むつもりではあるまいな」
「俺の実力は」
タクミは、静かに答えた。
「先日の試合で、姫殿下に勝った」
――外で兵たちの号令の声が、聞こえた。フェリクスは、瞬きすらしなかった。碧眼はタクミの顔を凝視したまま、微動だにしない。
三秒。五秒。十秒。
「……今、なんと言った」
声が、低い。聞こえなかったのではない。聞こえた上で、確認していた。先ほどまでの嘲弄とは、まるで質の違う鋭さがそこにはあった。
「殿下に、勝っただと」
椅子が軋んだ。フェリクスが身を乗り出したのだ。整然と書類の並んだ机の向こうから、初めて、タクミと同じ高さの目線になる。
「五年間無敗の姫騎士に。剣闘試合で」
信じていない、という顔ではなかった。信じたくない、という顔だった。
「……殿下」
碧眼が、初めてリズへ向いた。
この五年間、一度も合わなかった視線が、まっすぐに自分を捉えている。冷たい目だった。だがその奥に、どこか縋るようなものが混じっているのを、リズは見た。
「事実ですか」
兜の中で、リズは息を吸った。
「……事実です」
声が、思ったより落ち着いて出た。
「私は、負けました」
沈黙が落ちた。
「傭兵団の規模は、俺と姫殿下を含めて、四名だ」
――一拍の、間。
「……何だと」
フェリクスの顔から、表情が抜け落ちた。
「四名。……四名だと? 二個師団の兵を動かしておいて、貴様の手勢は四人か」
声に、はっきりとした侮蔑が戻った。いや、侮蔑ですらない。呆れである。
「冗談にしても程がある。子供の遊びか」
「元は、もう少しいた」
タクミは、動じずに言った。
「ギルドの腕利きも、剣闘試合の上位に残った連中も、一度は集まった。……だが、揃って手を引いた。大金を積まれてな」
フェリクスの、呆れの色が消えた。
「……買収されたのか」
「そういうことだ」
碧眼が、すっと細くなる。
この男の頭が、別の速度で回り始めたのが分かった。傭兵を金で切り崩す。それができる人間は限られている。そして、そこまでして討伐を妨害したい人間がいるということは……。
「貴様、すでに貴族に狙われているわけだ」
「らしいな」
「らしい、で済ますな」
フェリクスの声が低くなった。
「勅命を受けた指揮官の足元を、金で崩しにかかる者がいる。それは陛下の命に逆らうということだぞ。……そんな真似を平気でやる連中が、貴様の背後で動いている」
「だが、おかげで手間が省けた」
タクミの声には、負け惜しみの色がなかった。
「金で転ぶ者は、全員消えた。残ったのは、金を積まれてなお残った二人だ」
その言葉に、リズは兜の中で小さく息を吐いた。
先日、屋敷の広間で同じことを言われた時、自分は毒気を抜かれて笑ってしまった。だが今、この冷たい男の前で改めて聞くと、あれは強がりではなかったのだと分かる。
「手勢が四人でも、勘定に入るのは四人だ。数だけの兵は、いざという時に一人も勘定に入らん」
「……ふん」
フェリクスは、鼻で笑った。だがその笑いには、先ほどまでの侮蔑がなかった。
「言うことだけは一人前だな」
机を叩いていた指が、止まった。
碧眼の奥で、何かが計算されている。軍人としての頭脳が、「姫騎士を倒した男」と「貴族に狙われている男」という二つの変数を、盤面に乗せようとしていた。
「つまり貴様は、この戦を足がかりに、帝国内での発言力を固めようというわけだ」
鋭い。政治的な嗅覚も一級品だった。
「陛下の覚えめでたく、姫を娶り、軍を動かし、手柄を立てる。そしてゆくゆくは――」
言葉を切って、冷ややかに笑う。
「まるで英雄譚だな。出来すぎている」
「フェリクス、彼はそんな野心で……!」
「黙れ」
一言だった。短く、絶対的な。
リズの口が、金縛りにあったように閉じた。
――黙れ、と言われた。
皇女に向かって。しかし不思議と、怒りは湧かなかった。この男は身分を無視したのではない。今この部屋で、身分が何の意味も持たないことを知っているのだ。
「筋違いだな、フェリクス殿」
タクミが口を開いた。
「俺が姫を利用し、軍を動かし、発言力を高めるのが目的だと。……それは、まったくの筋違いだ」
空気が、張り詰めた。壁際に控えていた副官たちが、石のように固まっている。
碧眼が細まった。笑みが消え、剥き出しの不快感が浮かぶ。
「筋違い、だと」
軍靴が、石床を踏んだ。フェリクスが立ち上がり、一歩詰め寄る。
「では聞こう。貴様は何のために戦う」
単純な問いだった。だがその裏には、答えられまい、という確信が透けている。
「金か。名誉か。女か」
三本の指を、順に立ててみせる。
「どれでも構わん。だが戦場に立つ以上、目的は要る。目的のない刃ほど、危ういものはない」
――ああ、とリズは思った。
この人は、冷酷なのではない。兵を率いる者としての矜持が、根の部分にあるのだ。だから、目的もなく軍を掻き回す人間が許せない。
「答えてみろ。貴様は、何のために剣を振るう」
「いいだろう」
タクミは頷いた。
「貴殿には、俺の考えを話そう。……ただし、ここから先は重大な軍事機密だ。貴殿と姫殿下以外の者には、退出を願いたい」
フェリクスの目が、細くなった。
軍事機密。その語の重みを、この男は正確に理解していた。副官たちへ、ちらりと視線を送る。
「全員、退室しろ」
副官たちは顔を見合わせながらも、逆らえるはずもなく、足早に司令室を出ていった。重い扉が閉ざされ、三人だけの密室が出来上がる。
「聞いてやる。話せ」
外からは訓練の靴音だけが、微かに聞こえる。窓から差し込む光が、先ほどより少し高くなっていた。碧眼から射貫かれた眼光も、鋭さを増しているように見えた。
これで15話です。
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