第14話「帝国軍同士は、味方だ」
執務室に、重い沈黙が落ちていた。俯いたリズの拳には、爪の跡が赤く残っている。その沈黙を破ったのは、タクミだった。
「分かった。もういい」
タクミが、あっさりと引いた。
リズが驚いて顔を上げる。ここで畳みかけるとばかり思っていたのだ。この男なら、あと三手も詰めればグスタフを追い込めるはずだった。
「作戦の話をしよう、将軍」
タクミは、地図を自分の方へ引き寄せた。
「第三師団の全軍進攻は、取りやめだ」
グスタフの動きが、止まった。
「あんたの案の通りに動いてもらう。精鋭一個大隊を抽出し、ヴァルデンブルクへ派遣。市街に駐留して警戒に当たれ。……残る九千は、帝都で待機だ」
「……お待ちください」
老将の声が、掠れていた。
「それは、勅命の変更にあたります。上へ、伺いを立てねば」
「立てん」
タクミは、あっさりと言った。
「伺いを立てれば、どこかでまた止まる。あんたの紙を三度止めた場所だ。……同じ穴に、四度目を落とす気はない」
グスタフの喉が、鳴った。
「勅命には、大樹海の蛮族を討伐せよと書いてある。どの部隊をどこへ置くかまでは、書かれていない」
タクミは、卓に広げられた地図の縁を、指の背で軽く叩いた。
「書かれていないことは、指揮官が決める。……それだけの話だ」
屁理屈である。リズにも、それは分かった。だがこの男は、屁理屈の通る隙間を正確に見つけていた。命令書に書かれていないという、たった一行分の空白を。
「……ですが、後になって咎められるのは」
「俺だ」
即答だった。
「あんたは、指揮官の命令に従っただけになる。……軍令に従うのが、あんたの職分なんだろう」
グスタフの顔が、初めて崩れた。
つい先ほど、この男は同じ言葉で逃げたのだ。なぜ止めなかったのかと問われて、軍令は下ったのであります、と。あの一言で、自分の無力に蓋をした。
その同じ一言が、今、正しいことをするための逃げ道として差し出されている。
老将は、卓に広げたままの古い羊皮紙に目を落とした。三度上申して、三度潰されたものである。何度も広げられ、畳まれた跡がついた紙だった。差し出した時には、そこに自分の名があった。下りてきた紙には、なかった。
それが今、名を削られもせず、この部屋で通った。
「……承知、いたしました」
その声が、わずかに震えていた。
「ただし、二つ厳命しておく」
タクミは指を二本立てた。
「一つ。獣人が現れた場合、捕らえるのは構わん。だが、殺すな。一人もだ」
グスタフの表情が、動いた。
「二つ。帝国軍同士は、味方だ。これを絶対に忘れるな」
その二つ目に、グスタフは怪訝な顔をした。
「……当然のことでありますが」
「当然のことを、わざわざ言っている」
タクミは、それだけ言った。
第五師団が、何のために呼び戻されるのか。まだ確証はない。だが、二万という数が何かを隠すための衣なら、その衣の下で、味方同士が刃を向け合う場面が来ないとも限らない。その時、この言葉が一瞬の躊躇いを生む。それでいい。
リズは、隣で聞きながら、背筋が冷たくなるのを感じていた。この男は、まだ起きてもいない事態のために、今、布石を打っている。
「承知、いたしました」
グスタフは、深く頭を下げた。
「大隊は、既に選抜を終えております。兵も、糧も、馬も。……いつでも、発たせられます」
その一言に、リズは息を呑んだ。
この人は、全軍進攻の命令を受けてからも、あの千名を解かなかったのだ。使われるあてのない大隊を、抱えたまま置いていた。いつか誰かが、あの紙をもう一度見てくれることを、諦めきれずに。
「捕縛を旨とし、殺傷は厳に禁じます。……帝国軍同士は、味方である。兵にも徹底させます」
辞去の間際だった。
扉に手をかけたタクミが、ふと足を止めて振り返った。
「将軍。最後に一つだけ」
「はっ」
「あんたが上申した調査案。あれを握り潰したのが誰かは知らん。だが――握り潰されたことは、あんたの恥じゃない」
グスタフが、顔を上げた。
「あんたは、やるべきことをやった。三度もな」
タクミは、静かに続けた。
「だが、次に黙れば――あんたの恥になる」
部屋の空気が、止まった。
グスタフは、何も言わなかった。言い返しもせず、頷きもせず、ただ、その言葉を受け止めた。喉仏が、一度だけ、ゆっくりと上下した。
まるで、苦い薬を飲み下すように。
「……お気をつけて、お発ちください」
それが、彼の答えの全てだった。
司令部を出ると、日はすっかり高く昇っていた。
中庭では、先ほどと同じように兵たちが訓練を続けている。号令の声も、隊列の乱れのなさも、何一つ変わらない。だが、リズにはもう、この整った庭が同じものには見えなかった。
この整然とした秩序の中で、あの人は三度声を上げ、三度潰され、それでも自分の持ち場を守り続けてきたのだ。
「ねえ、タクミ」
馬車に乗り込みながら、リズが口を開いた。
「どうして、最後まで問い詰めなかったの。あなたなら、できたでしょう」
「できたな」
タクミは、あっさりと認めた。
「口を割らせることはできた。だが、割らせた口から出た言葉は、俺が引きずり出したものだ。あの男自身が選んだものじゃない」
「……違うの?」
「違う」
タクミは、窓の外を流れる帝都の街並みを見ていた。
「あの男は、これから自分で選ばなければならん。誰かに言わされたのでは、選んだことにならない。……三十年、あの場所を守ってきた男だ。それくらいの敬意は払っていい」
リズは、しばらく黙っていた。
やがて、窓の外へ目をやったまま、口を開いた。
「……ねえ。さっき、私が言いかけたこと」
「数か」
リズが、驚いて彼を見た。
「なんで分かるの」
「止めたのは俺だ。何を言いかけたかは、こっちが一番よく知っている」
図星だった。耳の後ろが、じわりと熱くなる。
「……だって、おかしいでしょう。ゲルハルトは千名だって言ったのよ。精鋭一個大隊、輜重も少ない、すぐにでも発てるって。それが、あの将軍の受けてた命令だと一万。同じ師団の、同じ遠征の話なのに」
「数が二つあるんじゃない」
タクミは、窓枠に肘を置いた。
「二つ目に、書き換わったんだ。そして、ゲルハルトのところには一つ目しか届いていない。……近衛の副団長にすら、だ」
リズは、その言葉を頭の中で並べ直した。並べ直したところで、引っかかるものが出てきた。
「じゃあ、ゲルハルトが言ってた『軍が立てた当初の作戦』って」
「あの男の案だ」
あっさりとした答えだった。
「精鋭を抽出して、駐留して、捕らえて、聞き出す。ゲルハルトの説明と、あの羊皮紙は同じものだった。……三度潰したはずのものを、名前だけ消して使ったわけだ」
馬車が、石畳の継ぎ目を踏んで揺れた。
「なんで、そんなこと」
「伯爵から、正式に出撃を要請された。断れん。何か出さねばならん。……手元に、よく出来た案があった。それだけのことだ」
それだけのこと。あの人が三度書き、三度潰された紙が、誰かにとっては、たまたま手元にあった都合のいい紙でしかなかった。
リズは、膝の上で指を固く組んだ。潰した人間は、その紙を捨てずに取っておいたのだ。そして必要になった時、名前のところだけを削り取って、上へ流した。
「でも、名前を消す必要なんて――」
言いかけて、リズは口を噤んだ。
必要は、あった。
消した者は、あの案を誰が書いたかを知っていたのだ。知っていて、消した。伯爵領で何かがおかしいと言い続けた男の名を、どこにも残さないために。
――だから、あの人は黙ったんだ。
喉の奥が、冷たくなった。あれは卑怯なのではなかった。あの人はとっくに、一度だけ釘を刺されていたのだ。これ以上は書くな、と。声にも、文字にもならない形で。
組んだ指から、力が抜けた。
「……ねえ、タクミ」
顔を上げた時、その目は、さっきまでとは別のところを見ていた。
「あの将軍、第五師団の話を一度もしなかったわ」
タクミの目が、ゆっくりと彼女に向いた。
「私、途中から待ってたの。二個師団で行くんだから、第五師団と歩調をどう合わせるのか、って話が出るはずでしょう。合流地点とか、補給とか、指揮系統とか」
リズは、指を組み直した。
「でも、一度も出てこなかった。あの人が受けた命令は、第三師団の全軍進攻。それだけ」
「――気づいたか」
「気づくわよ、それくらい」
リズは、少しむっとしたように言った。
だが、すぐにその顔が曇った。
「ねえ。あれって、つまり」
「そうだ」
タクミは、静かに答えた。
「あの男は、第五師団のことを知らん」
馬車の車輪が、石畳を軋ませた。
「同じ勅命で動く、同じ討伐軍だぞ。片方の師団長が、もう片方の存在を知らされていない。……そんな作戦があるか」
「伝達の手違い、じゃないの?」
「一度ならな」
タクミは、首を横に振った。
「だが、あの男は三度上申している。その三度とも、握り潰された。……もし第五師団のことが伝わっていれば、あの男は必ずそこに触れていたはずだ。二個師団で行くなら話は変わる、とな」
リズの背筋が、冷たくなった。
「触れていない、ということは」
「最初から、知らされていない」
タクミの目が、細くなった。
「そして、知らされていないのは、おそらくあちらも同じだ」
「フェリクスも……?」
「確かめてみなければ分からん。だが、片方だけ伏せるより、両方伏せるほうが簡単だ」
馬車の中に、沈黙が落ちた。
リズは、自分の膝を見つめていた。
「……何のために、そんなことを」
「分からん」
珍しい言葉だった。この男が「分からない」と口にするのを、リズはほとんど聞いたことがなかった。
「分からないの?」
「今はな」
タクミは、窓の外へ視線を戻した。
「だが、一つだけ言える。……手違いで、こうはならん」
彼の声は、静かだった。
「誰かが、意図してやっている」
この男は、敵ならば容赦なく叩き潰す。貴族議会を一枚の舌先で追い返し、コニャックの嫌がらせすら踏み台にしてみせた。それなのに、敵でない相手には、こんな手の緩め方をする。
いや、緩めたのではない。あれは、賭けたのだ。あの男が、いつか自分で口を開くことに。
「……私ね」
リズが、ぽつりと言った。
「さっき、あの人を責めようとしたの。知ってるくせに黙ってるなんて卑怯だって。……でも、言えなかった」
膝の上で、指を組み直す。
「だって私、気づいてすらいなかったんだもの。伯爵領のことも、獣人が消えてることも、何ひとつ。城で剣を振って、政務を勉強して、それで国のことを分かってるつもりでいた」
声が、掠れた。
「あの人は少なくとも気づいた。気づいて、三回も声を上げた。私は――一度も上げてない。上げるどころか、知らなかった」
窓の外を、朝市帰りの母子が通り過ぎていく。籠いっぱいのパンを抱えた子供が、母親を見上げて笑っていた。平和な光景だった。この平和のどこかに、あの檻に押し込められた子供たちがいる。
「知らなかった、じゃ済まないのよね。……この国を継ぐつもりなら」
タクミは、何も言わなかった。ただ、リズの手の上に、自分の手をそっと重ねた。
慰めの言葉はなかった。その方がありがたかった。今、優しいことを言われたら、たぶん泣いてしまう。
リズは、重ねられた手をぎゅっと握り返した。
「ねえ、タクミ。第五師団のことだけど」
顔を上げた時、その目にはもう、涙の気配はなかった。
「フェリクスが帰ってきたら、私も行く。……ううん、私が行く」
「ほう」
「あなたにばっかり、やらせない」
タクミは、意外そうにリズを見た。
「言っておくが、簡単じゃないぞ」
「分かってる」
即答だったが、その語尾がわずかに揺れた。
――本当に分かっているのか。
リズは、自分でも思った。
これまで人と向き合う時、剣が要らなかったことはほとんどない。挑まれ、受け、勝つ。それが自分の知る唯一の作法だった。剣を抜けない相手と、言葉だけで渡り合う。そんな戦い方を、自分は一度も習っていない。
さっきだって、そうだ。グスタフに何を言えばよかったのか、結局最後まで分からなかった。怒鳴りかけて、飲み込んだだけだ。
それでも。
「上手くやれるかは、分からない」
リズは、正直に言った。
「でも、行かないっていう選択肢はもうないの。……あの人には、私が会わなきゃいけない気がする」
なぜ、と問われても答えられなかった。ただ、五年間ずっと避けられ続けてきた相手である。その五年に、こちらから一度も手を伸ばさなかったのは自分の方でもあった。それを、今日グスタフの前で思い知らされたばかりだった。
気づかなかった。声を上げなかった。手を伸ばさなかった。もう、それではだめだ。
「いいだろう」
タクミは、小さく笑った。
「俺も同行する。だが、口火はおまえが切れ」
「……いいの?」
「言い出したのはおまえだ」
リズは頷いた。頷いてから、急に喉が渇いた気がした。
馬車が、帝都の大通りを進んでいく。
その四日後、第三師団の精鋭一個大隊千名が、静かに帝都を発った。グスタフ・ヴェーバー自らが率いての、ヴァルデンブルクへの進駐である。見送りの式典はなく、街道を行く隊列を気に留める市民もいなかった。
そして、その二日後。
第五師団長フェリクス・レーヴェンシュタインが帝都へ帰還したという報せが、屋敷に届くことになる。
突然ですが、ここで帝国の軍政について解説します。
帝国の軍政は、人数にばらつきはあるものの概ね100人で中隊、10中隊1000人で大隊、10大隊10000人で師団となる。
大隊には歩兵、槍兵、弓兵、騎兵等の種別があり、これに工作兵、衛生兵、輜重隊等を加えて1個師団が形成される。
師団が複数集まった単位が軍団である。が、平和路線を継承し大きい対外戦争を行っていない現帝ヴォルフガング三世の治世下では軍団が編成されたことはなかった。それだけに、今回2個師団が招集されたことは異例中の異例である。




