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最強の姫騎士と、見えない糸で結ばれた異国の王子  作者: 旭屋綉
第1部 ヴァレンタイン帝国編 第1章

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13/63

第13話「三度の上申は、握り潰された」

13話は、当初公開した2026/09/14 07:42の版に6話、12話との整合性が合わない点及び今後の展開と矛盾する点が見つかったため、修正しました。

以後このようなことがないよう、細心の注意を払います。

既に初版をお読みいただいた方には、大変申し訳ございませんでした。m(_ _)m

 帝国軍第三師団の司令部は、帝都の南東、練兵場に隣接した石造りの建物だった。

 

 城のような壮麗さはどこにもない。飾り気のない灰色の壁、必要最低限の窓、掲げられているのは帝国旗と師団旗の二旒のみ。中庭では朝の点呼を終えたばかりの兵たちが、整然と隊列を組み替えている。号令の声は短く、無駄がなかった。

 

「……綺麗ね」

 

 馬車を降りたリズが、思わず呟いた。

 

「整いすぎてる、って言った方が近いかしら。落ちてる小石まで、線に沿って除けてあるみたい」

 

 建物そのものは古く、あちこちに補修の跡がある。だが、その補修の一つ一つが丁寧だった。金をかけて建て直すのではなく、あるものを大事に使い続けている。そういう場所だった。

 

「この師団を預かる男の性格が、そのまま出ているな」

 

 タクミは目を細めた。まだ会ってもいない相手の輪郭が、この庭だけで半分は見えた気がした。

 

 案内された執務室も同様だった。壁一面の棚に並ぶのは、装丁の立派な兵法書ではなく、擦り切れた台帳の束。机の上には帝国北東部の地図が広げられ、その端が何度も指でなぞられたのだろう、紙が薄くなっている。

 

 その机の向こうから、白髪混じりの短髪の男が立ち上がった。

 

「リーズレット殿下。ご足労いただき、恐縮であります」

 

 第三師団長グスタフ・ヴェーバー。五十代半ば、日に焼けた顔に深い皺を刻み、鎧ではなく略式の軍装を身につけている。背は高くないが、肩から胸にかけての厚みが尋常ではなかった。長年、重い盾を持ち続けた者の体だ。

 

 彼はリズに深く一礼した後、タクミへと視線を移した。そして、わずかに間を置いてから、同じように頭を下げる。

 

「……タクミ殿。今次遠征の総指揮を執られるとか」

 

 その一拍の間に、多くのものが詰まっていた。

 

 どこの馬の骨とも知れぬ東方の男が、剣闘試合で勝ったというだけで、遠征軍の総指揮を執る立場に立った。三十年以上を軍に捧げ、ようやく師団長まで上り詰めた男にとって、それがどう映るか。想像するのは難しくない。

 

 だが、グスタフの声には、嫌味も皮肉も含まれていなかった。ただ、事実として受け止め、事実として礼を尽くしている。そういう声だった。

 

「タクミだ。よろしく頼む、ヴェーバー将軍」

 

「グスタフで結構であります。……どうぞ、おかけください」

 

 茶が出された。上等ではないが、丁寧に淹れられたものだった。

 

「本日は、作戦のご確認と伺っておりますが」

 

 グスタフが切り出した。

 

「ああ。だが、その前に一つ聞かせてくれ」

 

 タクミは、茶碗を置いた。

 

「将軍。あんたが受けた命令を、正確に言ってくれ」

 

 グスタフの眉が、わずかに動いた。作戦の確認に来た人間が、まず命令文を読み上げさせるとは思っていなかったのだろう。

 

「はっ」

 

 彼は、姿勢を正した。

 

「第三師団は全軍をもって大樹海に進攻し、これを制圧して蛮族を討伐すべし。……以上であります」

 

「全軍」

 

「一万であります」

 

 リズの指が、茶碗の縁で止まった。

 

 ――違う。

 

 あの朝、屋敷の広間で、ゲルハルトは確かにこう言ったのだ。第三師団が抽出するのは精鋭一個大隊、千名のみ。輜重も少なく、既に編成を終えている。早ければ五日以内には発てましょう、と。

 

 千と一万では、桁が違う。聞き違えようのない数だった。

 

 思わず口を開きかけた彼女を、タクミの視線が制した。こちらを一度見ただけである。それだけで、リズは自分が何をしようとしたかを悟った。こちらの持っている数を、相手に先に渡すところだった。聞きに来た側が、答えを先に置いてどうする。

 

 膝の上で、そっと手を組み直す。喉まで出かかったものを、飲み込んだ。

 

「あんたは、それをどう思う」

 

 しばしの沈黙。グスタフは、机の上の地図に目を落とした。

 

「軍人が上意を論じるのは、越権であります」

 

「では、越権をしてもらおう。俺は指揮官だ。指揮官が現場の将に意見を求めて、何がおかしい」

 

 グスタフの視線が、地図から上がった。その目には、初めて明確な感情が浮かんでいた。値踏みの色だった。

 

「……よろしいのですか」

 

 値踏みするような視線を残したまま、グスタフは念を押した。越権を許されるのか、それとも試されているだけなのか、その一言で見極めようとしているようだった。

 

「構わん」

 

「では、申し上げます」

 

 老将は、背筋を伸ばした。

 

「不可能であります」

 

 言葉は短かった。だが、その一言に、三十年の重みが乗っていた。

 

「大樹海は、下生えが人の背丈を超え、道と呼べる道もございません。あの中に一万を入れれば、隊列は百歩で崩れ、伝令は届かず、部隊は互いを見失います。集結地点を定めても、半数は辿り着かんでしょう。そして――」

 

 グスタフは、地図の深緑の一帯を指で叩いた。

 

「敵は、逃げます」

 

 リズが、はっと息を呑んだ。同じ結論に、この男も辿り着いていたのだ。

 

「大軍の足音は、数刻前から森に届きます。獣人は散り、木々の間に消えるだけです。我らは何と戦うのか。……木と、泥と、虫と戦って、糧食が尽きた頃に引き揚げる。それが関の山であります」

 

「では、あんたなら、どうする」

 

 その問いに、グスタフはしばらく黙っていた。そして、机の抽斗から一枚の羊皮紙を取り出した。

 

 古い紙だった。何度も広げられ、畳まれた跡がついている。

 

「……これは」

 

「私が立てた案であります」

 

 彼は、それを卓に広げた。

 

「第三師団より精鋭一個大隊のみを抽出し、ヴァルデンブルクへ派遣する。市街に駐留して警戒に当たり、襲撃があればこれを迎え撃ち、捕らえる。……そして、捕らえた者から住処を聞き出し、樹海の実態を調査する」

 

「一個大隊。千名か」

 

「はい。大軍を森へ突っ込ませるより、遥かに理に適っております」

 

 タクミは、その羊皮紙を手に取った。

 

 几帳面な字で、部隊の編成から補給路まで細かく書き込まれている。何度も推敲された跡があった。

 

「これを、上げたのか」

 

「三度」

 

 グスタフの声が、低くなった。

 

「三度、上申いたしました。……三度とも、握り潰されました」

 

「握り潰したのは誰だ」

 

「分かりません」

 

 老将は、首を横に振った。

 

「上申書は軍務局を通って上へ行きます。どこで止まったのかは、私には辿れません」

 

 沈黙が落ちた。

 

「では、下ってきたのは何だ」

 

「……初めは、これとほとんど同じものでありました」

 

 グスタフは、卓の上の羊皮紙の端を、指で押さえた。

 

「精鋭一個大隊を抽出し、ヴァルデンブルクへ駐留せよ。襲撃あらば捕らえよ。……文面まで、よく似ておりました」

 

 リズが、顔を上げた。

 

「それ、通ったってことじゃないの」

 

 グスタフは、その問いに直接は答えなかった。

 

「差し出した紙には、私の名がございました」

 

 節くれだった指が、羊皮紙の隅を一度だけ叩いた。

 

「下りてきた紙には、ございませんでした」

 

 部屋が、静かになった。リズには、その意味がすぐには掴めなかった。掴めないまま、背中の産毛が立った。

 

「大隊の編成は、その時に済ませております。……それが書き換わったのは、つい先日であります」

 

「全軍進攻に、か」

 

「はい」

 

 グスタフは、それだけ答えた。つい先日がいつを指すのかは、言わなかった。言われずとも、この部屋にいる三人には分かっていた。

 

「では、なぜ止めなかった」

 

 タクミが、静かに問うた。

 

 グスタフの顎が、わずかに引き締まった。

 

「軍令は、下ったのであります」

 

 答えになっていない答えだった。だが、それが答えだった。

 

 リズは、膝の上で拳を握っていた。この人は分かっていた。分かっていて、それでも軍令に従うしかなかった。自分の立てた案が三度潰され、代わりに下ってきた無謀な命令に。

 

「では、次だ」

 

 タクミは、身を乗り出した。ここからが本題だった。

 

「フォルクヴァルツ伯爵から上がっている、襲撃の報告。あれを見せてもらいたい」

 

「……はっ」

 

 グスタフは棚から書類の束を取り出し、机に広げた。羊皮紙が十数枚。日付順に整理され、余白に細かな書き込みがある。読み込まれた形跡だった。

 

 タクミは、それを一枚ずつ繰っていった。速い。だが、目は一行ずつを正確になぞっている。

 

「……襲撃は、この一年で十一回。すべてヴァルデンブルク近郊。時刻は夜間から未明」

 

 三枚目を置いて、四枚目へ。

 

「伯爵の私兵に死傷者、延べ二十三名。市民に負傷者、九名。死者はなし」

 

 六枚目。

 

「……将軍。一つ聞くが」

 

 タクミは顔を上げた。

 

「これだけ襲われて、獣人の死体は何体上がっている」

 

 部屋の空気が、変わった。

 

 グスタフは答えなかった。

 

「二十三名も私兵が倒れているんだ。応戦したはずだろう。一体も討ち取れなかったのか?」

 

「……報告には、ございません」

 

「捕虜は」

 

「……ございません」

 

「では、帝国軍の人間で、実際に襲撃を目にした者は」

 

 沈黙。

 

「一人も、おりません」

 

 グスタフの声は、平坦だった。

 

「この十一件、すべて伯爵家の書記局を通じて上がってきたものであります。我らが確認したのは、書面のみ」

 

 リズの顔から、血の気が引いていた。

 

「待って。じゃあ、この報告……全部、伯爵の言い分だけってこと?」

 

「左様であります、殿下」

 

「そんな……確かめもせずに、軍を動かすの?」

 

「領主の上申は、公文書であります」

 

 グスタフの目は、地図の一点から動かなかった。それ以上は、言わなかった。

 

 ――公文書だから疑わない。それは軍人の建前だ。この男は、それを建前だと知りながら口にしている。

 

 タクミは、七枚目の羊皮紙を指で弾いた。

 

「もう一つ。この報告には、決定的に欠けているものがある」

 

「……」

 

「奪われたものが、書かれていない」

 

 グスタフの肩が、ほんのわずかに動いた。

 

「襲撃というからには、目的があるはずだ。糧食か、家畜か、武器か、金目のものか。飢えた者が里に降りるなら、まず食い物を狙う。だが、この十一件、どれ一つとして『何を持ち去られたか』の記載がない。焼かれた建物もない。壊されたのは柵と、荷車が数台」

 

 タクミは、書類の束をとんと揃えた。

 

「――襲撃ではないな、これは。少なくとも、獣人が何かを奪いに来た記録ではない」

 

 リズが、思わずタクミを見た。この男は、たった今初めて目にした書類から、そこまで読み取ったのだ。

 

「では、何だと仰るのですか」

 

 グスタフが、初めて自分から問うた。

 

「衝突だ。獣人が里へ攻め込んだのではなく――何かを追ってきた、あるいは、何かを取り返しに来た。そして、それを阻む者と、揉み合いになった。柵が壊れ、荷車が壊れ、双方に怪我人が出た。死人が出ていないのは、獣人にも殺す意志がなかったからだ」

 

 部屋が、静まり返った。

 

 グスタフは、身じろぎ一つしなかった。だがその沈黙は、否定の沈黙ではなかった。

 

「将軍」

 

 タクミが、静かに言った。

 

「あんたが上申した当初の作戦案。あれは、いい案だった」

 

「……恐れ入ります」

 

「だが、俺には一つ、腑に落ちんことがある」

 

 タクミは、グスタフの目をまっすぐに見た。

 

「なぜ、捕らえる案にした?」

 

 グスタフの瞳が、初めて揺れた。

 

「街を襲う獣人を、精鋭を送って迎え撃つ。ここまでは分かる。だが普通なら、討ち取る、と書く。撃退する、でもいい。あんたは、捕らえると書いた。そして、住処を聞き出す、と」

 

 タクミは、一拍置いた。

 

「――聞き出す、というのは、相手と言葉が通じるということだ」

 

 リズが、息を呑んだ。

 

「将軍。あんたは最初から知っていたな。獣人が言葉を解することを。そして――」

 

 タクミの声が、低くなった。

 

「あんたは、獣人に事情を聞くつもりだったんだろう。住処の場所じゃない。なぜ里に来るのか。それを、直接聞くつもりだった。違うか」

 

 グスタフは、答えなかった。

 

 窓の外から、練兵場の号令が遠く響いてくる。整然とした、規則正しい声。この男が三十年をかけて築き上げてきたものの音だった。

 

「……あなたは」

 

 グスタフが、ようやく口を開いた。

 

「あなたは、書面を読むのがお上手だ」

 

 それは、答えではなかった。話を逸らしたのでもない。ただ、それ以上は言えない、という表明だった。

 

「将軍」

 

 リズが、耐えかねたように口を挟んだ。

 

「あなた、何か知ってるんでしょう。伯爵領で、何が起きてるの」

 

「殿下」

 

 グスタフは、深く一礼した。

 

「私は、第三師団を預かる者であります。師団の兵の命を預かり、与えられた任を果たす。……それが、私の職分であります」

 

「そんなことを聞いてるんじゃないわ!」

 

「殿下」

 

 もう一度、同じ声で。

 

 その二度目の呼びかけには、拒絶ではない何かが混じっていた。頼むから、これ以上聞いてくれるな――そう聞こえた。

 

 リズは、言葉を失った。

 

 怒鳴りつけてやろうと思った。この人は知っている。知っていて、黙っている。それは卑怯だ。そう言ってやろうと思った。

 

 だが、言えなかった。

 

 この人は、三度上申した。握り潰された。それでも軍令に従い、無謀と知りながら森へ入る準備をしている。逃げも隠れもせず、自分たちの前に座って、答えられることには全て答えた。

 

 ――そして、私は。

 

 リズの喉が、詰まった。

 

 私は、この国の皇位継承者だ。城で剣を振り、政務を学び、恋物語を読んで暮らしてきた。伯爵領で何が起きていたか、一度でも知ろうとしたことがあったか。獣人が消えているという噂を、聞いたことすらなかった。

 

 この人は、少なくとも気づいた。気づいて、上申した。三度も。

 

 私は、気づきさえしなかった。

 

 ――知らなかった、では、済まないのに。

 

 拳の中で、爪が掌に食い込んでいた。

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