第12話「変更された、遠征計画」
それから、幾日かが過ぎた、朝のことだった。
「タクミ様。お客様がお見えです」
ハンナの取り次ぎに、タクミが玄関へ向かうと、そこに立っていたのは、生真面目な顔をした壮年の武人、――近衛騎士団副団長のゲルハルトだった。
「朝早くから、失礼いたします、タクミ様。リーズレット殿下に、火急のご報告がございまして。恐れ入りますが、殿下をお呼びいただけますでしょうか」
「ああ、少し待て。今、呼んでくる――」
と、タクミが言いかけた、その時だった。
「んぅ......朝から、誰よぉ......」
例のごとく、けだるげな声とともに、寝間着姿のリズが、ふらふらと階段を下りてきた。低血圧のせいか、朝のリズはいつも決まって不機嫌で、瞼も半分ほどしか開いていない。そして、その無防備な寝間着姿は――やはり、目の毒だった。
「で、殿下ぁ!?」
ゲルハルトの目が、点になった。慌てて視線を天井へと逃がし、その顔がみるみる青ざめていく。
「な、なぜ、殿下が、寝間着姿で、タクミ様のお屋敷から......っ! タ、タクミ様! これは、いったい、どういう......! 殿下の御身に、万が一のことでもあれば、この私、皇帝陛下に、どう申し開きを......ぐぅ、胃が......っ」
生真面目な副団長は、片手で胃のあたりを押さえ、脂汗を浮かべている。皇族の令嬢が、婚前の男の家で寝起きしている――その事実が、彼の職務上の良心を、これでもかと締め上げているらしかった。
「......ん?」
そこで、リズがようやく、自分の格好と、来客の存在に気づいた。数秒の沈黙。そして。
「......っ、ゲ、ゲルハルト! 見るなぁ――ッ! 出ていけぇ――ッ!!」
真っ赤になったリズが、脱兎のごとく二階へと駆け戻っていく。何度目になるか分からない、朝の惨劇であった。
「......相変わらず、朝に弱いのだな、リズは」
タクミが苦笑すると、ゲルハルトは胃を押さえたまま、恨めしげな、それでいてどこか諦めたような目でタクミを見た。
「......タクミ様。後ほど、じっくりと、お話を伺わせていただきますからな」
しばらくして、身支度を整えたリズが、澄ました顔で――しかし耳だけはまだ赤いまま――広間に現れた。もはや何事もなかったかのように振る舞う姫に、ゲルハルトも深くは追及せず、居住まいを正して本題に入った。
「では、改めまして。ご報告申し上げます」
ゲルハルトは、懐から書類を取り出した。
「先般、殿下の御同行に伴い、根本からの見直しとなっておりました帝国遠征軍の編成が、このほど、正式に決定いたしました」
その言葉に、リズの表情が、姫騎士のそれへと引き締まった。先ほどまで寝ぼけていた女は、もうそこにはいない。
「殿下。此度の討伐には、帝国軍第三師団と、第五師団の参戦が決定いたしました」
「二個師団......?」
リズが、思わず声を上げた。
「二個師団って......二万よ。ちょっと待って、戦争でもするつもりなの?」
一個師団はおよそ一万。それが二つとなれば、二万の兵が動く計算になる。国家間の戦を構えるならばともかく、森に棲む獣人の討伐という名目には、あまりにも桁が違っていた。
「大軍を出せばいい、というものでもないだろう」
タクミが、静かに口を挟んだ。
「大樹海がどういう場所か、忘れたのか。木々が密生し、下生えが人の背丈を超え、道すら定かでない森だ。そんなところに二万の兵を押し込んで、まともに動かせると本気で思っているのか?」
整然と隊列を組んで進軍する。それは開けた平原でこそ意味を持つ戦法だ。樹海では隊列など数十歩で崩れ、伝令は届かず、部隊は互いを見失う。二万の兵は二万の迷子になるだけだった。
「......仰る通りです」
ゲルハルトが、苦い顔で頷いた。
「軍務に携わる者であれば、誰もが同じことを申しましょう。あの森に大軍を入れるなど、正気の沙汰ではありません。私も編成案を目にした時、我が目を疑いました」
「それに、そもそもの前提がおかしい」
タクミは、椅子の背に体を預けた。
「考えてもみろ。二万の軍勢が地を鳴らして押し寄せてくる。そんなものを前にして、獣人がまともに戦うと思うか?」
リズが、はっと目を見開いた。
「......逃げるわね。当たり前だわ」
「そうだ」
「それも、まとまって逃げたりしない。散り散りになって、森の奥に消えるだけよ。あの子たち......いえ、獣人は、森を知り尽くしてる。人間が知りもしない獣道を通って、いくらでも姿を消せる」
リズは、そこまで言って、言葉を切った。自分で口にしながら、その先の光景が見えてしまったのだ。
「バラバラに隠れた獣人を、二万の兵であの広大な森から探し出す......? そんなの、砂浜に撒いた針を拾い集めるようなものじゃない。何年かかるか分かったものじゃないわ」
「討伐軍としては、およそ成立しない」
タクミが結論を置いた。
大軍は森で機能せず、敵は戦わずに散る。討伐という目的に照らせば、この編成は端から破綻している。にもかかわらず、二万の兵は動かされようとしている。
――ならば、この軍は、いったい何のために編成されたのか。
「ゲルハルト」
タクミは、身を乗り出した。
「一つ聞かせてくれ。この討伐計画は、俺が現れる前から動いていたはずだ。当初、帝国軍はどういう作戦を立てていた?」
ゲルハルトは、しばし逡巡する素振りを見せたが、やがて意を決したように書類を繰った。
「......本来であれば、軍機に属する事柄ですが。殿下と、指揮官であるタクミ様には、お知らせしておくべきでしょう」
そして、彼は当初の計画を語り始めた。
「事の発端は、フォルクヴァルツ伯爵からの上申にございます。曰く、自領の中心都市ヴァルデンブルクに、獣人が度々襲撃を仕掛けてくる。私兵だけでは抑えきれぬゆえ、帝国軍の出撃を要請したい、と」
「その上申を受けて、軍が立てた当初の作戦は――こうです」
ゲルハルトは、指を一本立てた。
「第三師団より、一部の精鋭のみを抽出し、ヴァルデンブルクへ派遣する。彼らは市街に駐留し、警戒に当たる。そして、もし実際に獣人が襲撃してきた際には――これを迎え撃ち、捕らえる」
「捕らえる......?」
リズが、眉をひそめた。
「討伐ではなく?」
「はい。捕らえた獣人から、その住処を聞き出し、樹海のどこに集落があるのかを調査する。それが第一段階でございました。そして、その調査結果を見た上で、討伐を行うか否か、次の作戦を練る――そういう、段階を踏んだ計画だったのです」
広間に、短い沈黙が落ちた。
精鋭を少数派遣し、まずは実態を調べる。それは、極めて真っ当な計画だった。相手の規模も居場所も分からぬまま大軍を森へ突っ込ませるより、遥かに理に適っている。
「......おかしいわ」
リズが、呆然と呟いた。
「ううん、作戦がおかしいんじゃない。まともすぎるのよ。冷静で、順序立ってて、当たり前の作戦じゃない。......それが、どうして二万の討伐軍になるのよ」
「それが......」
ゲルハルトの声が、重くなった。
「タクミ様が剣闘試合を制され、殿下の御同行が決まった。その途端に、計画が根本から書き換えられたのです。調査は飛ばされ、いきなり『討伐』となった。そして、第五師団の追加参戦が決定いたしました」
「第五師団まで......」
「それだけではございません」
ゲルハルトは、一段声を落とした。
「第五師団長フェリクス・レーヴェンシュタイン閣下は、目下、別任務にて帝都を離れておられます。にもかかわらず――上は、閣下をわざわざ呼び戻すという決定を下しました」
タクミの目が、すっと細くなった。
わざわざ呼び戻す。任務の途上にある師団長を、である。
「......妙な話だな」
「はい。閣下でなければならぬ理由が、私には見当もつきません」
その言葉に、リズが小さく息を漏らした。
「フェリクス......ね」
その響きに、微かな翳りが混じったのを、タクミは聞き逃さなかった。
「知っているのか」
「知ってるも何も」
リズは、紅茶のカップを弄びながら、視線を落とした。
「十五年前、当時最年少で剣闘試合を優勝して、そこから十年連続で優勝し続けた人よ。平民上がりの叩き上げでね。私が剣闘試合に出るまでは、『帝国最強』って呼ばれてたのは、彼のほうだった」
父が消息を絶ったと発表された、あの年のことを、リズは今もよく覚えている。塞ぎ込んでいた自分が連れ出された闘技場で、たった一人、圧倒的な強さで勝ち上がっていく男がいた。刃が唸るたび、観客が地鳴りのように沸いた。あの背中に、幼い自分は目を奪われたのだ。あの人より強くなろう、と。そう決めた日から、剣を握り続けてきた。
だが、そのことは口にしなかった。
「私が出てきてから、その称号は、私のものになった。......彼、それ以来一度も、剣闘試合に姿を見せなくなったの」
「五年前から、ですな」
ゲルハルトが、静かに補足した。
「レーヴェンシュタイン閣下は、それ以降、剣闘試合の時期になると、必ずと言っていいほど帝都を離れておられます。辺境の視察、演習の督励、街道の警備......理由は毎年変わりますが、時期だけは判で押したように同じでして」
「毎年、必ず?」
「はい。軍務ゆえ偶然と申し上げることもできますが......五年続けば、偶然とは申せますまい」
リズの指が、カップの縁で止まった。
「......避けられてるのよ、私。分かってる」
軽い調子で言おうとして、失敗していた。
「積み上げた十年を、ぽっと出の小娘に、それも皇女の身分ごと持っていかれたようなものだもの。面白いはずがないわ。......嫌われてるんだと思う、たぶん」
剣一本で成り上がった平民の誇りが、生まれながらの強者によって、ある日突然、上書きされる。その悔しさは、剣を握る者にしか分からない類のものだ。だからこそ、リズはこの五年、一度も彼に会いに行けなかった。
「なるほどな」
タクミは、そこまで聞いて、腕を組んだ。頭の中では、別の計算が進んでいる。
五年間、剣闘試合の時期には必ず帝都を離れていた男。今もまた、別任務で遠方にいる。その男を、わざわざ呼び戻してまで、この討伐軍に加えようとしている者がいる。
――そして、当初の作戦を知る第三師団と、後から追加された第五師団。
「ゲルハルト。一つ、確認させてくれ」
タクミの声は、静かだった。
「第三師団と第五師団は、同じ命令を受けているのか? それとも――それぞれ、別の任務を与えられているのか」
ゲルハルトが、虚を突かれたように瞬きをした。
「別の......? いえ、私の知る限り、両師団とも蛮族討伐のための参戦と伺っておりますが......」
「そうか」
タクミは、それ以上は言わなかった。
だが、内心では確信に近いものが芽生えつつあった。この編成は、討伐のためのものではない。二万という数は、何かを覆い隠すための衣だ。そして本命の任務は、おそらく師団ごとに違う。表向きの命令書に書かれていない役割が、どちらかに――あるいは両方に――割り振られている。
それが何であるかは、まだ分からない。だが、わざわざ呼び戻される師団長という一点だけは、どうにも据わりが悪かった。
「各師団長との面談は、明後日以降を予定しております」
ゲルハルトが、話を締めくくった。
「第三師団は、グスタフ・ヴェーバー師団長。堅実を絵に描いたようなお方で、守りの用兵にかけては帝国随一と評されております。......そして第五師団は、先ほど申し上げた通り、レーヴェンシュタイン閣下の帰還を待たねばなりません」
「出立の時期は」
「そこが、いささか厄介でして」
ゲルハルトは、書類を繰った。
「第三師団は、当初計画の段階から準備を進めておりました。抽出するのは精鋭一個大隊、千名のみ。輜重も少なく、既に編成を終えております。......早ければ、五日以内には発てましょう」
「第五師団は」
「一万でございます。加えて、殿下の御同行に伴い、編成をやり直しております。......揃うまでに、あと半月以上は要するかと」
タクミは、頷いた。
規模が十倍違う上に、片方は編成のやり直しである。同時に発てるはずがなかった。
「では、第三師団が先に出る。......それでいい」
「よろしいので?」
「構わん。あちらは市街の警戒任務だ。早く着いて悪いことはない」
「フェリクスは、しばらく不在、か」
ゲルハルトが辞去した後、広間には二人が残された。
「......どうするの、タクミ」
リズが問う。その横顔には、まだ拭いきれない不安が残っていた。
「二万の兵よ。私、そんな大軍を指揮したことなんてない。剣は振れても、指揮なんて経験、一度もないのに」
剣闘試合の舞台で無敗を誇ってきた戦姫にとって、これは全く異質な戦場だった。一対一の斬り合いなら、誰にも負けない自信がある。だが、何千、何万という兵を纏め、動かすとなれば、話は別だ。
「正直に言うと、どう振る舞えばいいのか、見当もつかないの」
縋るような目で、タクミを見た。
「指揮のことなら、そう気負う必要はない」
タクミは、静かに答えた。
「リズは、軍の象徴でいればいい。皇女が、しかも帝国最強と謳われる姫騎士自らが最前線に立つ――それだけで、兵の士気は跳ね上がる。細かい采配は、俺がやる」
あっさりとした返答だった。だがそこには、根拠のない気休めではなく、確かな自信が滲んでいた。その言葉を聞いて、リズの強張った肩から、少しだけ力が抜ける。この男がそう言うのなら、きっと大丈夫なのだと、素直にそう思えてしまう自分がいた。
「それより――今は、当初の作戦を知る人間に会うのが先だ」
タクミは、話を本筋へと戻した。
「調査で済ませるはずだった計画が、なぜ二万の討伐軍に化けたのか。第五師団は後から加わった以上、経緯を知らされていない可能性が高い。......となれば」
「グスタフ・ヴェーバー、ね」
リズが引き取った。
「当初の作戦を任されていたのは、第三師団。しかも、帝都にいる」
「そういうことだ」
タクミは立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。すっかり昇った朝日が、帝都の街並みを明るく照らしている。白い城壁も、朝市の賑わいも、何一つ変わらない平穏な光景だった。だがその平穏の下で、二万の兵が動こうとしている。誰かの描いた絵図に沿って。その絵図の最初の一筆を、確かめに行く時が来ていた。




