第3話「もう、本気では斬れない」
薄暗い通路に、二人分の足音だけが響いていた。
このヴァレンタイン帝国は、大陸南方に広がる大国だ。長きにわたり武を軽んじず、しかし戦を好まぬ統治を貫いてきた。北西の連邦とも、東部諸国とも、ここ数十年は大きな戦火を交えていない。それでも軍備を怠らぬのは、東方で急速に勢力を広げるヴェルム神国の存在があるからだと、タクミは旅の道中で幾度となく耳にしていた。
そして年に一度のこの帝国祭は、平和な統治の象徴でもあった。武を尊びながらも血を流させない祭典として、剣闘試合が催される。かつては殺し合いに近い催しだったというが、今ではあくまで「降参か戦闘不能」で決着がつく見世物へと姿を変えている。
その決勝を勝ち抜いた者だけが挑める、もう一つの舞台。それが、皇女リーズレットとの特別試合だった。
五年前、当時十七だったリーズレットは己の剣の腕を持て余し、「自分より強い者としか結婚しない」という前代未聞の宣言を帝国中に轟かせた。以来この四年、剣闘試合の優勝者たちが次々と挑んでは、誰一人として彼女の身体に指一本触れることさえできずに敗れ去っていった。
そして今年、五度目の挑戦者として現れたのがタクミだった。
リーズレットは腕を組んだまま、隣を歩くタクミをちらりと見上げた。頬にはまだ赤みが残っている。
「ねえ。さっきの答え、まだちゃんと聞いてないんだけど」
「答え?」
「なんで私との結婚を受け入れたのか、よ。ちゃんと理由を聞かせてもらってないもの」
その声には、単なる詰問以上の熱がこもっていた。恋愛にまつわる物語をあれだけ読み漁ってきた彼女にとって、目の前で起きていることは物語のどの類型にも当てはまらない。困惑と、それを上回る好奇心が拮抗しているのが、横顔からも見て取れた。
「顔が好みだった、とか?」
自分で言っておいて、ないわねと首を振る。
「まさか一目惚れとか言わないわよね。あんな試合の最中に」
瞳が不安と期待の間で揺れていた。答えを聞きたいような、聞くのが怖いような。無意識に指先が自分の髪の毛先をくるくると弄んでいる。
「ハハハ……一目惚れ、か……」
――あながち間違ってはいないかもな
「おまえがこれまで戦ってきた中でも、最強の相手だったからだ。剣も、魔法の腕もな」
松明の炎がふわりと揺れた。通路の空気が一瞬、甘く張り詰める。
リーズレットの肩がぴくりと跳ねた。「最強」。その言葉に、戦う者としての矜持がくすぐられたのが自分でもわかる。
「最強、ね……」
嬉しいのか困っているのか判別しがたい、なんとも言えない表情が浮かんだ。挑戦者の口から「最強」と評されたのは、これが初めてのことだった。
壁にもたれかかり、腕を組む。
「お世辞はいらないわ。で、それと結婚とどう繋がるわけ?」
核心を突いた問いだった。最強の戦士だから惹かれた、というのは戦闘狂の理屈だ。求婚の動機としては飛躍がありすぎる。だがその瞳の奥には、答え次第では受け入れてもいいという光が確かに揺れていた。五年待った相手だ。少しでも期待させるようなことを言われたら、もう後戻りはできない。
「俺は強い相手を尊敬している。そして、その強さの全てを知りたくなる」
「それに――おまえも同じ種類の人間だ、俺の力に興味があるのだろう。俺の見えない攻撃の正体を知りたがっていたではないか」
リーズレットの目が見開かれた。「おまえも同じ種類の人間だ」。その一言が、この五年間彼女が抱えてきた孤独の正体を、正確に言い当てていた。
壁から背中が離れ、一歩、タクミに近づく。
そうだ。同じだった。自分より強い者がいない。誰と戦っても物足りない。圧倒的な力の差の前に、誰もが膝を折り、命乞いをし、二度と挑もうとしなくなる。退屈で、寂しくて、けれど誰にも打ち明けられなかった。弱さを認めることは、姫騎士としての自分を投げ出すことに等しかったから。
喉がこくりと鳴った。
「……ずるいわ、あなた」
声が震えていた。怒りでも悲しみでもない。初めて「対等」の存在に出会えた者の、抑えきれない感情の震えだった。
さらに一歩。もうタクミとの距離は拳一つ分もない。見上げる瞳が松明の光を反射して濡れている。
「五年よ。五年間、ずっと一人だった。誰も私とまともに戦えなくて、話もできなくて……」
ぎゅっとタクミの服を両手で掴んだ。
「あなたの強さの全てを知りたいって……私も同じこと思ってる。だから……」
瞼が伏せられ、長い睫毛が影を落とす。次の言葉を紡ぐまでの沈黙が、通路に甘く満ちていた。
タクミが顔を寄せると、今度は二人とも目を閉じたまま、静かに唇が触れた。試合中の荒々しいものとは違う、通路の松明すら遠慮するかのような、柔らかな時間だった。
「料理の腕がどうとか、部屋がどうとか、そんな事はどうでもいい。これからお互いのことを知っていけばいい」
服を掴む指が白くなるほど力を込めている。抵抗する気配は微塵もない。
やがて唇が離れると、リーズレットの瞳はとろりと蕩けていた。帝国最強の姫騎士が、出会って数時間の男の前でこんな顔をしている。もし誰かに見られたら、帝国の歴史書に載る醜態だろう。
ぽすん、と額をタクミの胸に預けた。
「お互いのことを知っていけばいい、か……」
「おうおう、ここにいたか優勝者! いやぁ、いい試合だった! ワシの酒を一杯……」
軽い足音とともに、酒瓶を片手にぶら下げたガルムが通路に姿を現した。その視界に飛び込んできたのは、額を男の胸に預ける帝国最強の姫騎士の姿だった。
三秒間の沈黙。
にやぁっと下品な笑みがガルムの顔中に広がった。
「おやおやぁ? お取込み中でしたかなぁ?」
「っ……ガルム! 今すぐ消えなさい!!」
ばっとタクミから離れ、リーズレットが顔を真っ赤にして身構える。だが腰の剣は、まだタクミの手にあったままだ。素手のまま身構える姿は、迫力よりも羞恥のほうが色濃く出ていた。
「ちょうどいい、こっちに来い二人とも。おい、控室でお祭り騒ぎになってるんだよ!」
問答無用でガルムに背中を押され、二人は控室へと連れて行かれた。
扉を開けた瞬間、待ち構えていたのは剣闘試合の出場者たちだった。試合を終えたばかりの戦士たちが、勝敗の遺恨など忘れたかのように酒杯を掲げている。
「優勝者のお通りだ!」 「聞いたぞ、姫さんと結婚するんだって!?」 「めでたい! 今日はとことん飲もうぜ!」
どっと沸き起こる歓声と拍手。リーズレットは居心地悪そうに身を縮めながらも、その熱気にどこか救われたような顔をしていた。この四年、勝負を挑んでは膝をつく者ばかり見てきた彼女にとって、心から祝福されるという経験自体が久しぶりのものだったのかもしれない。
リーズレットが酒杯を置き、静かにタクミを見据えた。
「ねえ、みんなの前で聞いてもいい? あなたのその見えない武器――正体、教えてくれない?」
「おお、姫さんも気になってたか!」 「聞きたい聞きたい!」
酔いの回った戦士たちも口々に囃し立てる。タクミは肩をすくめ、左手をすっと持ち上げた。
「暗糸だ」
言葉と同時に、宙に淡い光の筋がいくつも浮かび上がる。目を凝らさなければ見えないほど細い、蜘蛛の糸にも似た輝き。ヤポニクに伝わる暗殺の技を修めた者だけが繰り出せる、指先から放つ不可視の糸だった。斬るのではなく、絡め取り、引き千切り、あるいは的確に一点だけを破壊する。剣の間合いなど関係なく届くその技こそが、ガルムの突撃を止め、リーズレットの武装を次々と剥ぎ取った正体だった。
「……なるほどね。剣の間合いが関係ないのは、私だけでなくあなたも同じだったってわけ」
リーズレットは糸をまじまじと見つめながら呟いた。悔しさよりも、感心の色のほうが強い。
「おっかねぇ武器だぜ、まったく」
ガルムが酒を呷りながら笑う。
「ところで、ワシはアンタとの試合の後、姫さんに気をつけろ、風の刃は目に見えんぞ、なんて忠告しちまったが。あの話だけで、姫さんの風の刃に対応できるものなのか?」
「風の刃について聞いていたから、いきなり剣の間合いに飛び込まずに済んだよ」
悪びれもせずタクミが言うと、ガルムはぶるっと震えた。
「おっかねぇ男だな、おい……」
その一連のやり取りを聞いていたリーズレットの目に、ふと鋭い光が宿った。先ほどまでの乙女の顔が一瞬で消え、戦士の貌が覗く。
――なるほど。ガルムから引き出した情報を、そのまま私との試合でも使っていたというわけね。
得心がいったように小さく頷くと、不敵に唇の端を持ち上げた。
「……あなたの技を知って尚更、燃えてきたわ。次は同じ手、通用しないから」
控室がわっと沸いた。
「おいおい、優勝したその日にもう再戦の話か? 熱いねぇご両人!」
ガルムが茶化すように囃し立てる。
だがタクミは静かに首を振った。
「知ったところで、二度とおまえは俺に勝つことはできない」
「何故ならば、おまえはもう俺と本気で剣を交えることができないからだ」
控室の喧騒が、すっと引いた。誰もが二人の会話に耳をそばだてている。
「……どういう意味よそれ。私が怖気づくとでも思ってるの?」
腰に手を当て、挑むような目つきでリーズレットが詰め寄る。
「なんだなんだ、姫さんが怖気づくだと? そいつぁ天地がひっくり返っても……」
混ぜっ返そうとしたガルムを一睨みで黙らせ、リーズレットは再びタクミに向き直った。
「言っとくけど、私にそんな心配は無用よ。戦場で手を抜くくらいなら死んだ方がマシだわ」
だがタクミは知っていた。試合の終盤、鎧を剥がされていく中で、彼女の動きにほんの一瞬迷いが生じた瞬間があったことを。あれは戦闘の中で確かに隙を生む揺らぎだった。
「自分の胸に手を当てて考えてみろ。おまえは俺にどのような感情を持っている?」
「愛する人を本気で殺しにかかれる人間は、ただの殺人狂だ。おまえはそういう人間ではないだろう」
控室が静まり返った。松明の炎すら動きを止めたかのように、空気が張り詰める。
リーズレットの、自分の胸に当てた手が、ぴたりと止まった。
愛する人。その単語が鼓膜を打ち、脳を貫通し、心臓に直撃した。まだ出会って数刻しか経っていない相手に対して、そう言われている。否定しなければならない。姫騎士として、帝国の威信にかけて、この戯言を一刀両断にしなければ。
だが言葉が出てこなかった。胸に当てた掌の下で、心臓が馬鹿みたいに暴れているのを感じている。
「わ、私は……」
控室の戦士たちが、いつの間にか誰一人として声を出さず、固唾を飲んでこの光景を見守っていた。恋の顛末という最上の見世物を前に、酒杯を傾ける者すらいなくなっている。
「さ、殺人狂じゃないわよ私は! 当たり前でしょそんなの!」
顔が耳の先まで真紅に染まり、視線が泳ぐ。論点がずれていた。タクミの指摘に対する反論としては的外れもいいところだ。「愛する人」という部分を完全に無視して、「本気で殺しにかかれるか」の部分だけ拾っている。つまりリーズレットの意識は、そこに触れたくないから必死に話を逸らそうとしているのだ。
「だ、だいたいね! 出会って間もないのに愛するとか、そんな……演劇じゃないんだから……!」
「いや姫さん、あんたの部屋の戯曲本まんまじゃねぇか……」
誰かが小声でぼそりと呟き、周囲がどっと笑いをこらえる気配を見せた。リーズレットの顔がますます赤くなる。
「俺も同じだ」
その一言に、控室が再び静まり返った。
「二度とおまえに勝つことはできないだろう」
その言葉の意味が浸透するまで、数秒を要した。
タクミが言っているのは単純明快なことだった。愛する者を本気では斬れない。それは剣闘試合において致命的な枷になる。つまり――リーズレットの勝利が、最初から確定してしまっているということだ。
「おいおいおい! こりゃとんでもねぇ告白だぞ!」
「あの優勝者が、姫さんに『もう勝てません』だと!?」
控室がまたも沸き立った。
リーズレットはがしっとタクミの両肩を掴み、正面から顔を覗き込んだ。目が真剣そのものだ。
「ちょっと待ちなさい。それ、つまり……私を傷つけたくないから負けるって言ってるの?」
脳内で二つの感情が激しくぶつかり合っていた。一つは、戦う者としての怒り。手加減されるなど屈辱以外の何物でもない。もう一つは、「愛する者」という言葉がもたらす、どうしようもない熱。
「ふざけないで。そんな試合、私は認めない。全力で来なさい! 私を……舐めないで!」
怒声とは裏腹に、タクミの肩を掴む指は小刻みに震えていた。
「先程の試合は、本当の意味で命を賭けた真剣勝負だった。だが……お互いもう同じような戦いはできないだろう」
その言葉が控室に静かに染み渡った。先の試合は命を賭けた真剣勝負。だがもう、あの頃には戻れない。互いの刃が情に鈍る以上、同じ熱量の殺し合いは二度と成立しない。
肩を掴んでいた手がゆるゆると力を失い、だらりと下がった。
反論できなかった。「全力で来い」と怒鳴った口が、次の言葉を見つけられずに閉じている。リーズレット自身が一番よくわかっていたのだ。もしタクミが本気で自分を斬りに来たら、果たして自分は同じように動けるのかと。
俯き、金の髪が顔を隠す。小さな声が漏れた。
「……じゃあ、どうするのよ」
剣で決着がつかないなら、何が残るのか。
顔を上げ、潤んだ瞳でタクミを射抜く。
「おまえ自身は、これからどうするつもりだったんだ」
静かな問いだった。リーズレットは一瞬、虚を突かれたように瞬きをする。
「……皇女としての務めを果たすだけよ。いずれ誰かと結ばれて、帝国を次の世代に繋いでいく。生まれた時から、そう決まっていたわ。剣闘試合だって、その”誰か”くらいは自分の手で選びたいっていう、せめてもの意地だったの」
淡々と紡がれる言葉の端々に、諦観にも似た響きが滲んでいた。皇女という立場に生まれた以上、いずれ誰かと添い遂げ、帝国の繁栄に尽くす。それが定められた道なのだと、疑うことすら許されずに育ってきたのだろう。
「帝国か……いつまで帝国などという檻の中にいるつもりだ。おまえはこんなところで燻っているような人間ではないだろう」
控室にどよめきが走った。檻。帝国を檻と呼んだ。この国建国以来最強と謳われる姫騎士に向かって、である。
だがリーズレットは目を見開いた後、怒るどころか、その瞳に別の色を浮かべた。憧れだ。幼い頃から帝都の城壁の中で育ち、姫騎士の称号を背負い、剣闘試合という鳥籠を自ら作ってまで「最強の伴侶」を探し続けた女。その鳥籠の外を見せてやると言う男が、今、目の前にいる。
唇が微かに震えた。
「燻ってる、ですって……」
図星だった。四年間無敗という看板の裏で、リーズレットは少しずつ窒息していた。挑んでくる者はいなくなり、対等に語れる者もおらず、恋愛の演劇や物語だけが唯一の逃げ場だった。そんな日々を「充実している」と思い込もうとしていた自分を、この男はたった一言で暴いてみせた。
ふっと笑った。自嘲でも苦笑でもない、どこか吹っ切れたような笑みだった。
「あなた、本当に無茶苦茶ね」
その空気を破るように、控室の扉が勢いよく開け放たれた。
「リズ! こんな男との結婚など、僕は認めないぞ!」
包帯だらけの身体を引きずりながら現れたのは、上等な仕立ての服を纏った青年だった。乱れた身なりと殴られたような青痣の下にも、育ちの良さを感じさせる整った顔立ちと、着慣れた所作が滲んでいる。その後ろに数名の衛兵が続いている。
「僕と結婚しろ! 僕の方がお前を愛して……」
突然の乱入者に、タクミは眉を寄せた。
「誰だ、おまえは」
その問いに、青年は一瞬言葉を詰まらせた後、屈辱に顔を歪めた。
「な……っ、僕を知らないだと? 僕はコニャック=ド=サングリア! 建国の頃よりこの帝国に仕えてきたサングリア公爵家の嫡男だぞ!」
名門の誇りを振りかざすように声を張り上げるが、包帯だらけの姿では威厳もあったものではない。
「ああ、あのコニャックの坊ちゃんか」
ガルムが酒杯片手に苦笑した。
「今年もこっそり名前を偽って剣闘試合に出てたんだが、また一回戦で沈んでてな。懲りねぇ男だよ」
「……昔からの、まあ腐れ縁みたいなものよ」
リーズレットが額を押さえながら溜息をつく。
「幼馴染でね。物心つく前からずっとこの調子。弱いくせに毎年懲りずに現れるの。いい加減にしてほしいわ」
振り返りもせず、リーズレットが冷たく言い放つ。
「二度と私の前に現れるな、と言ったはずよ」
控室の戦士たちの間から、くすくすと笑いが漏れた。
コニャックはよろめきながらも、震える指をタクミに突きつけた。
「お前だ! お前がリズを誑かした男か! 僕と……一騎打ちだ!」
声を張り上げるコニャックに、タクミは特に驚いた様子もなく軽く肩をすくめてみせた。
「今の状態で? おまえが求めているのは決闘ではなく、慰めの言葉だと思うが」
「な……っ」
「悪いようにはしない。だが今日のところは、大人しく帰った方がいい」
淡々としたその物言いに、コニャックはぐっと言葉を詰まらせた。控室にいた戦士たちの視線が、哀れみと呆れの入り混じった色を帯びて彼に注がれる。反論しようにも、負けを重ねた身体では言葉に力が入らない。
だがコニャックは諦めなかった。よろめきながらもリーズレットに向き直り、その手を強引に掴もうとする。
「リズ、行こう! こんな得体の知れない男と結婚するくらいなら、僕が……」
「離しなさい」
リーズレットの声は静かだったが、有無を言わせぬ響きがあった。掴まれかけた手を難なく振り払い、コニャックを一瞥する。
「あなたの気持ちはわかったわ。でも、私の気持ちはもう決まってる。……ごめんなさい」
その一言に、コニャックの顔から完全に色が抜けた。今度こそ、はっきりと拒絶されたのだと理解したらしい。
「……っ、覚えてろよ! 僕は諦めない、絶対に……!」
捨て台詞を残し、衛兵に両脇を抱えられるようにして連行されていく。悲鳴にも似た声が通路の向こうに遠ざかり、控室にはやがて静寂と、それを埋めるようなざわめきが戻ってきた。
「相変わらずだなぁ、あの坊ちゃんも」
誰かがぼやき、また笑いが起こる。祝祭の空気が控室全体を包み込んでいた。
談笑が続く中、控室の扉が再び――今度は先ほどより重々しく開かれた。
現れたのは、帝国近衛騎士団の一隊だった。先頭に立つのは、厳つい顔に冷たい汗を浮かべた壮年の騎士。片膝をつき、深く頭を垂れる。
「リーズレット殿下。皇帝陛下がお呼びでございます。至急、謁見の間へお越しいただきたく」
控室の空気が、一瞬にして張り詰めた。
「……そちらの優勝者殿も、ご同行願いたいとの仰せです」
騎士の視線がタクミへと向けられる。祝祭の熱気がすっと引き、代わりに緊張が控室を満たしていった。
リーズレットとタクミは顔を見合わせた。皇帝ヴォルフガング三世――帝国の頂点に立つ男が、いったい何のために自分たちを呼び出すのか。だが一つだけ確かなことがある。この呼び出しもまた、二人の運命を新たな方向へと押し出す、次の一手に過ぎないということだった。




