白の記憶
霧には匂いがある。 老人はそう言って孫の頭を撫でた。
二人は公園のベンチに腰かけている。
あたり一面は濃い霧に覆われて、 彩色豊かな児童遊具が霞んで見える。
人の気配はなく、 ただ静けさだけがあった。
「においってどんなにおい?」
孫は顔を上げてたずねた。
思いっきり吸い込んでみたらわかる、 と老人はスーッと音をたてた。
孫はうなずいて鼻いっぱいに吸い込むと、 霧の息が鼻孔の奥をツンと衝いた。
冷たい感覚は喉奥へ沈み、 衝撃だけが脳天へ昇っていく。
それはアイスクリームを食べたときに似た感覚だった。
鼻をつまんで悶える孫を見て、 老人は優しげに笑う。
霧の匂いとは即ち冷気のことであり、 凍てついた匂いならざる匂いとしてよく喩えられた。
老人は空を見上げる。 雲一つ無く、 青空も無い。 在るのは雪原のように白い空だった。
「なにみてるの?」
孫は首をかしげてたずねた。
お天道様を見ていた、 と老人は答えた。
「おひさまわらってる?」
孫が上を向いたので眩しいからと見るのを制した。
幼い双眸にはまだ光の刺激が強かろうと気遣ったのだ。
小さな手で目を覆う孫の仕草に微笑みながら、 老人はふたたび空を見上げた。
霧のフィルター越しに見た太陽は、 円い輪郭をはかなげに描いている。
日の高さから今は昼過ぎだろうか。 老人は目を細めた。
「だれもこないね」
孫はベンチに座ったまま、 両の足をブラブラと揺らす。
時計を見ると時刻は午後一時過ぎ。
二人が公園に着いてから四時間が過ぎていた。
老人は無人の広場を眺めながら思う。 このまま待ち続けてもきっと誰も来ないのだろうと。
孫には友達がいなかった。 街に子供がいないからだ。
この街にあった学校と名の付く施設は児童の減少を理由に廃校となって久しい。
だが子供がいないといっても0人ではない。 孫のような境遇の者も少なからずいる。 そんな子達と出会えないものかと公園巡りをしていたのだが、 最後まで偶然は訪れなかった。
いや偶然にすがった時点で結論は達していたのだ。
わかっていたはずなのにどうしても割り切れない。 そう思った時だった。
「なにかとんできたよ。 なんだろう」
霧で姿は見えないが囀り声が聞こえる。
孫に急かされて老人はベンチから腰を上げた。
「こっちこっち。 こっちからきこえるよ」
腕を引かれて辿りついたのは、 敷地の中心に植えられた公園樹だった。
白い背景と灰紫褐色した立ち木の対比が美しく、 扇型に広がる優雅な樹形に感嘆する。
裸木特有の仄かな寂寥感を噛みしめていると、 小さな手が袖を引っぱってきた。
「どこみてるの。 あそこだよあそこ」
老人はごめんごめんと謝りながら孫の指先に視線を向ける。
空に向かって伸びた枝先に一羽の小鳥がとまっていた。 体は細長くてすらりと伸びた二股の尾羽を持ち、 小さなくちばしで背中や翼の裏を羽づくろいしている。 こいつは珍しいと老人は顎を一撫でした。
「ねえねえ。 あれはなんていうの?」
孫がそう尋ねたときだった。
無邪気にはしゃぐ声が届いたのか、 小鳥はチチチと鳴いて矢のように飛び去ってしまった。
残念そうにする孫の頭を撫でながら老人は諭す。 大きな音をたてちゃいけないよ。 ビックリして逃げてしまうからね。 だから静かに近づきなさい。 そう言って口に指を当てると、 孫も口を塞ぐ真似をしてみせた。
「まだいるかな? いたらいいな」
そろりそろりと歩き回る孫を見守りながら、 老人は独り黙考する。
何もない公園でも得るものがあったのは嬉しい誤算だった。
これなら自分でも孫に与えることができるかもしれない。
感性という名の眼を。
感性とは目に見えないものを見る能力だと云われる。
その力は人の心や感情の機微を読み取り、 物事に隠された本質や真相を理解する。 そして何よりも霧の中を歩く上で大切な感覚的認識力の向上に貢献される。 では感性の眼をどう高めればよいのか。 幼児期は今も昔も変わりはしない。 公園に出向いて歳の近しい子と遊べばよい。
たったそれだけのはずなのに環境すら与えられないのが現状だ。
だが問題ない。 人の子がいないのならば老いぼれが代わりを紹介してやろう。
とても骨の折れる遊び相手になるが孫ならきっと大丈夫だろう。
そうと決まれば準備をせねばなるまい。
まずは子犬を飼おうか。 首輪とリードを揃えて毎日散歩に出かけよう。
靴も歩きやすいものに取り換えねばならん。
ついでにフォグコートも新調しよう。
物置に仕舞ったバーナーはまだ動くだろうか。
ああ、 孫のクッカーも必要だ。
これは帰って一式を確かめねばならんな。
老人は孫を呼ぶ。 霧をかき分けて小さな影が戻ってきた。
「どうしたの?」
老人はおうちに帰ってごはんにしようと言った。
孫も空腹を覚えたのか素直にうなずいて骨ばった手を掴んだ。 二人は手を繋いで公園を後にする。
名残惜しそうな顔をする孫を見て、 老人は手を振ろうかと誘った。
二人は歩みを止めて公園の方向に向き直る。
「ばいばい、 またね」
孫は小さな手を力いっぱい振った。
霧に消えた相手へ、 再会の約束が届くように。
何度呼びかけても返事は無い。 それでも孫は一途に手を振り続けた。
「またあえるかな」
孫が自問するように呟いた。
きっとまた会える、 と老人は返す。
うつむきながらうなずく孫に言葉を続ける。
全てが霧に閉ざされていても道は続いている。
歩き方を覚えて世界を広げればその先できっと出会える。
だから今の気持ちを忘れずにいなさい。
見失っても、 立ち止まっても、 迷っても、 今日のことを思い出しなさい。
求める答えは今にある。 全ては原点から始まるのだ。
さあ、 胸に手を当ててごらん。 ほら今そこに――宿った。
「よくわかんないよ」
老人はすまんすまんと笑いながら、 孫の頭をくしゃくしゃとかき回した。
くすぐったそうに笑う声が重なって空気が和らいでいく。
ひとしきり笑い終えた二人は手を繋ぎ直して歩き出す。
孫はさっき訊きそびれたことを思い出した。
「ねえねえ。 あれはなんていうの?」
あれか? あれはな――。
愉しげな足音は霧の中に消えていった。




