赤狐令嬢を巡る白鼠と蛙のミッションEx ④ ――Carmen at Full Tilt and Petrushka, Scissors in Hand――
返事に窮した、その一瞬。ポーリャちゃんに纏わりついていた、むせかえるような血の匂いが、呆けたようにリベを見つめることしかできない僕の胸を締め上げてきた。
彼を巻き込まないように、ポーリャちゃんのお腹に穿たれている深傷のかたわらを離れて既に駆け出し始めていた鼠の僕が、全身の毛を逆立てた。噛みつくような勢いで叫ぶ。「何で見るわけ!? 僕の馬鹿!」
ほとんど同時に接近するリベの鋏。
一挙に距離を詰めてきた、殺気立って赤熱色を帯びた彼女の魔法をやり過ごせるような冴えた代案なんて、あるはずもない。
半分だけ息を呑んだ肺の奥底。それを震わせるような直撃が二つ。
遅れて激痛。左肩甲骨の真裏、同じく左の脇腹。掠ったものも含めれば、その数、四つ。まともに数えられたのはそこまでだった。視界の端が朱に染まる。
堪えきれない苦悶の声が、食いしばった歯列をこじ開けて、が、とも、ぐゎとも付かない、くぐもった呻き。
それでも、僕の腕の中で苦しそうに眉根を寄せたポーリャちゃんを放り出すなんて、本当に御免だった。
彼に目を遣ったせいで、完全にリベから逸れてしまった僕の眼球に替わって、鼠としての赤い瞳で見上げた視界。最高に低彩度な景色の真ん中にリベは、いた。
回れ右したくなるくらい大群の《鋏》を背に、僕らを見下ろしていたリベが、両目をすっと細める。
彼女の左手が掻き合わせてる、ボロボロの襟元。
大きく引き裂かれたワンピースの合わせ目。直視しまいと、滑るように辿った仔鼠の視線が、リベの右手が握り締めていた鋏の切っ先に不意に縫い留められた。
鼠としての僕からは黒鉄色にしか見えない、特大の剪定鋏。丸みを帯びたその柄が、まるで梃子の原理を見せつけるかのように、リベの人差し指を先頭にした四本指とともに、僕の頭の上によじ登ってリベをガン見していた鼠に向かって思い切り振り下ろされ始め――あ。これは逃げなきゃ不味い感じ――リベから背けたままの、ヒトの方の僕の十全とは程遠い視野と――逃走開始直後の僕の目が捉えた天地が手ブレしまくっている、ほぼモノクロな映像と――が揃って、彼女の感情を体現したみたいな薄紅色の魔力に塗りたくられ――慣れない二重の視野から脳に届いた情報を僕がどうにか見れる程度まで統合し切れたのと、リベに向けて曝け出す格好になっていた――二十日鼠姿の僕が逃げ出したあとの――がら空きで無防備な僕の後ろ頭に、“I told you! Rebe—Rebe told you, Shoma! Don't look, I said, never look at me! So why—why did you look? That’s mean! That’s so mean!”、激重の衝撃音は、ほぼ同着!
僕の知る範疇では、今日一番に酷い喚き散らしが、目から火花が散るのと丁度なタイミングで、喉の奥から勝手にほとばしる。
「っリベ! リベ、やめて!! 僕、そんなつもりじゃあ――」
転がり込んだ僕の顎の下。そこから這い出ようとしかけている鼠としての僕の口から引きずり出された、言い訳みたいな甲高い悲鳴と、
「僕の馬鹿! ほんとに何を見てるわけ!?」
声変わり前の地声で以って、当の僕自身に向かって間の抜けた新たな叱責を叩き返すって云う、痛いにも程がある最低最悪のセット構成で。
僕が横抱きにしてたはずの、ポーリャちゃん。小さなリベと変わらぬ形の、彼の上半身を縦抱きに近い格好で胸元にぐっと引き寄せ直すしかなかった、ヒトとしての僕の右腕と、痛打を受けた後頭部に回ってしまった左の掌。
転々と居場所を変えて走り回り中な、鼠の方の僕の目から入ってきている、無我夢中どころか、余りにみっともない、腐葉土に膝をつきながら、頭のコブをおさえている僕の涙目姿。
そんな僕が、リベからどんな風に見えているかなんて想像に難くなかった。
その証拠なのだろう。
「ふぅん⋯⋯」
小さく鼻を鳴らしたリベが、両方の僕に向かって尋ねてきた。
「ねえ。笙真君。何が、そんなつもり?」
そんなセリフとともに、ヂャキンッ。
リベに寄り添うように浮かんでいた鋏が立てる、鋭い噛み合わせ音。
僕らを取り囲んでいた妙な静寂を削り取るみたいに冷え切って、平らになった彼女の声が、「見ないでって言ったのに」、二体分に分かれた僕の鼓膜に容赦なく突き刺さる。
「笙真君は、リベの、何を見たの?」
何って――僕だってずっと待ってたのに? その言い方はないんじゃない? 僕を謗ろうとする彼女の詰問口調とむくれ顔に、ずくんと疼いた僕の脳裏。
リベの熱を冷ますために、夢の外のポーリャちゃんのスマホから、白鼠姿の僕を経て、リベの身体へと絶え間なく流れ込ませている代替魔力素子。
昴のいた世界の魔法使いたちにとっての「当たり前」らしい、名前通りに冷たくて青白い輝きを帯びた人工魔法の煽りを受けて、リベ以上に凍えているに違いない僕の頭。
そこに浮かび上がったのは、『リベが悪いんだもん、全部』、ついさっきそう言い切った言葉とは裏腹な態度をあらわにした彼女に対する、苛立ち交じりになった僕自身からの、紛うことなき反論、ううん、強すぎる反発だった。
統と婚約することを僕にだけ伏せてたキミの帰りを、花束を抱えてずっと待ってた『あの日』の――、「キミこそ、ずっと除け者にされてた僕の気なんて、全然知りもしないくせに!」
頑なになった心の思うまま、そう口走ってしまえば、あとはもう、止まらなかった。
僕の肩口にもたれかけさせたポーリャちゃんの首筋。力無くうなだれている彼の首裏の窪みに後ろ脚を掛けた姿勢になって足を止めた、リベを見つめている鼠の僕が、ハラハラから一転、ギョッとした様子になって、紅玉みたいな真っ赤な目線を投げ寄越してくる。
虹色混じりの赤毛に埋もれるような、アルビノのハツカネズミを、“ああ、もう。知るもんか”。
半ばやけくそ気味に、ほんの一瞥。
外から割り込んできた、“笙真、バッテリー残が2%を下回った。急がないと”にも応じることなく、僕はリベの方へと大きく首を巡らせた。
彼女を真っ直ぐに見据えて、口を開く。
「ひどいのは、一体どっちなのさ?」
刺したいなら、刺せばいい。夢の中だから、死ぬわけでなし。
破れかぶれにそう続けた僕の目前で、リベの顔から表情という表情がすっと抜け落ちた。
痛々しげな青茶い痣の上に影を落とした睫毛と、あの日、力任せに撲たれたに違いない、惨たらしく切れて腫れ上がった彼女の唇が、わなないて、
「言えるわけないよ。だって、」
ぽつりと零れたのはそんな、僕が思いもよらなかった言葉。
手負いの獣みたいに爛々と萌葱色に輝いていたはずの、リベの右目がさっと翳る。
「リベ、笙真君にだけは、絶対の、絶対、に⋯⋯嫌われたく、なかったんだもん」
奇跡的に白く残されていた彼女の頬を、たどたどしく紡がれた一音ごとに滑り落ちかけていく幾筋かの雫。
どこまでも透き通っているその行く先を追おうとして、差し伸べてしまった僕の左腕が、ジッ! 熱を帯びた一陣の鋏に音を立てて薙ぎ払われる。
腕の奥深くまでこそげ取られた苛烈な痛みが袖口から容赦なく駆け上って、僕が掬い損ねたリベの涙ごと、昴のスマートフォンを頼りにアンカーよろしく夢の外から『宮代笙真としての声と意志』を、荒れ狂う鋏と言うよりも、まるで――そう、まるで。
熊蜂で出来た嵐みたいに絡め取ろうとする、ひとかたまり分の大きな唸りとして、一気に膨れ上がった!
――Warning.
Battery critically low. Forced Sustain Mode will engage automatically. Enter 【Y】/【N】. Five. Four. Three. Two. One⋯⋯. バチンッ!!




