50.晴れやぐ選択を
七月三十日。『花芽ラあまいものまつり』閉幕から三日目、私は三人の目を盗んで【LOVERS】に訪れていた。
──こんこん。
「……どうぞ」
"臨時休業"と書かれた木札の掛けられた木製扉を叩き、返る声に応じて戸を開く。小気味の良い音を立てるカウベルに耳を癒されながら薄暗い店内を見渡すと、奥に見えた窓際の二人席、小さな丸卓に目が留まる。卓には仄明かりを湛えるカンテラと、それを挟むように置かれた湯気の立ち昇るカップが二つ。そして肘をついたまま、こちらに目を細める白髪の麗人が一人。
「いらっしゃいませ」
曦 海月。
私の今日の目的。廻琉が教えを乞うた人。
「……どうも」
胸のうちには、ほんの少しだけ焦げる気持ち。
「今日はありがとうございます。
わざわざお時間頂いてしまって」
「気にしなくていい、休みを一日ズラしただけだから。
寧ろありがたいよ。そろそろあの子達も休ませてあげたかったしね。なにより、私もキミと話してみたかったから」
椅子を引いて腰を掛ける。その短い動作の間すら、生温い視線が頬を刺し続けているのを感じていた。嫌……ではない。が、あまり気分の良いものではない。
座面の柔いクッションに身を任せ、海月店主へと向き直る。右眼に掛かる白髪の奥から穏やかな眼差しをこちらへと向けている海月店主に向けて、ひとつ、問いを投げかけた。
「あなたが鹿々桜に来たのは……どうしてですか?」
海月店主は口元をおさえて小さく笑っていた。本題ではない、軽いジャブのつもりで投げた事を見透かされているみたいで、少しだけ……不愉快だった。
「『昏』が見たくて。と言ってもキミは満足できないだろうね。……どこまで話したらいいかな?」
「全部。あなたの事を教えてください」
「くくっ。……………廻琉の事は?」
挑発的な笑い方に沸いた苛立ちが言葉に乗ってしまわないように、精一杯の不満を込めて見つめ返した。
海月店主はそれすら可笑しい事かのように小さく丸めた拳を口に当てて肩を揺らしていた。一頻り笑い終えたのち、彼女はゆっくりと落ち着いた声で語り始めた。
「ふっ、ふふ。そうだね。私は昔から漫画が好きでね」
頷いて返す。
それはそうだろう、スイーツ選手権の選手紹介の時、兎の反応を思い返してみればわかる。あの時の言葉だってなにかの漫画からの引用だった筈だ。
それが鹿々桜に来た理由になるのか、それはまだ私にはわからないが。
「『昏』。二ヶ月もの間、街が黄昏に包まれる異常。
美しい。そしてなにより、格好いい。……堪らないだろう?フィクションみたいで」
海月店主の口元には笑みが浮かんだままだが、至ってふざけているようには見えない。"美しい"、"格好いい"、……フィクションのようなものであれば、
「……異常なら白泪にだって、涸佷にだってあります。鹿々桜じゃなくても……もっとはっきりした理由がある……筈です」
「私は──、」
海月店主はそこで言葉を区切り、卓の端に置かれたポットから角砂糖を二つ、自らのカップへと落とす。角砂糖が音を立てて沈んでいった時、切った言葉を繋ぐように、優しげな声が店内を流れる。
「──必要だとは思わない。思えない。
明確な理由というものが、何にしても。
それに……『星門』は大きいばかりで見ていてもつまらないし、『落涙』は遠目からは荘厳だけれど……ふふ、怖いからね。死にたくはないしね」
海月店主がそう言い終えた後、自分の視線が手元のカップへと落ちている事に気付いた。
理由が必要ない……?どうして?なにかをするなら……前提として理由がある、筈だ。初めて誰かの事を"知りたい"と思ったから来た………なのに。
「……少しだけ、自分語りをしよう。
昔の話だ、私の。肆京にいた頃、ここに来る事を決めるまでのくだらないお話」
海月店主のカップから昇る湯気が吐息で揺れているのが見える。視線をあげることはできないままだった。
「私は、言っちゃなんだけど良いとこの生まれだった。……《《よまたぎ》》の御三家と言ってね。肆京の辺境を取り仕切る地主でね、"曦"の他は……知らないさ。知りたくもないしね」
"よまたぎ"なんて……聞いた事もない。だけど嘘を言っているようには見えない。
詰まるところ名家の生まれなわけだ。なら尚のこと疑問だった。……どうして鹿々桜に?わざわざ店までもって。
「そこの九人姉妹の末っ子なんだ。すごいだろう?九人全員女だった。……上の姉達は世継ぎの為にと見合いをさせられていた。何度も、何度も。望まずとも。
私は……そうだね。見合いはしなくて済んだんだ。
女の子が好きだったから。そんな私を理解してくれた、というよりは……期待されていなかったんだろう」
聞こえてくる海月店主の声はどこか寂しげで、それでいて力強くて、どこか他人事のようだった。
"女の子が好き"だと言い切ったその顔は……まだ見る事はできなかった。
「見合いの後、耳障りな夜の後にもいつものように笑う姉達の視線が……私は怖かった」
視界には未だ湯気立つ珈琲に映る私の顔だけが映っていた。どうして…そんな顔をしているの……?自分の事でも……ない、のに。
「そんな私の居場所がとある寂れた喫茶店だった。
"曦"の家の力が及ばない、県境の田舎町をぶらついていた時に見つけたんだ。少し遠かったけどね、毎日のように通ったさ、なにせ沢山漫画が置かれていたから」
海月店主がポットから角砂糖を二つ取り出してカップに落とす。角砂糖はとぷんと音を立てて、暗い底へと沈んでいく。
「……マスターは素敵な女の人だった。学生だった私よりも少しだけ小さくて、快活で。笑顔の眩しい……綺麗な人だった。"曦"を知ってか知らずかわからないけれど、遠くから来る私にとても良くしてくれた。
漫画の話ならいくらでも。話さなくたって、何時間でも。……それが幸せだった」
言葉は出てこなかった。
誤魔化すようにカップに口を付けると、舌から全体に苦味が広がっていく。……熱くて、苦くて。
「………そこも潰れてしまってね。私以外のお客さんは殆どいなかったから仕方ないけれど。
……私が高校を卒業する年だった、かな。マスターはなにも言わずにどこかへ消えてしまった」
「探しているんですか?」
不意に出た言葉に、海月店主は笑っていた。少しだけ机が揺れて、黒い水面に映った顔が波紋に消える。
この人がどうして今笑えているのか……私にはわからなかった。
「そこまで青くはないよ。……また会いたいと思う日はあるけれどね。鹿々桜に来たのはさっき言った通り、本当だ。その道程にマスターが居た、それだけの話だよ」
海月店主が再びポットへ手を伸ばし、角砂糖を二つ取り出してカップへ落とす。二つ、音を立てて黒い海へと身を投げて。カップからは湯気はもう立っていなかった。
「……家から逃げたのも。青い日をマスターと共にした事も。『昏』に憧れて鹿々桜に来た事も。廻琉と碧を弟子にとった事も。スイーツ選手権に出た事だって。
……全部、私が選んだ事だ」
海月店主が砂糖の泳ぐカップにマドラーで渦を作る。ゆっくり、ゆっくりと混ざり合うように回して、波が落ち着いた頃に、漸く一口。微笑みを湛えた口元から離されたカップがソーサーへと着地する軽い音と共に、海月店主は言葉を続けた。
「理由は都度あるものさ。"面白そうだから"、"頭に来たから"、"寂しかったから"。時にはなんとなくでもいい。
はっきりしなくてもいい、言葉にできなくてもいい。……後から名前を付けてみるのもいいね」
「……海月さんは、」
聞きたいこと、沢山あった筈だ。……カンペだって用意してきた。鹿々桜に来たことなんてきっかけ作りのつもりだったのに。
……《《これ》》は違う、けど。
「もし、また好きな人が出来た時、
………もしその人がまた居なくなってしまったら、」
気になる、あなたならどうするか。
「……どう、しますか?」
……答えてよ。
「怖い想定だね。それにとても悲しい。
それでも、私は選ぶよ。
私の心が向く道、光が灯るその先を」
今になって漸く海月店主の目が見える。
温かな視線はずっとこちらを刺したまま。
「"もう逃がさない"。それが私の選ぶ答えだ」
目を細めて、優しげな微笑みを湛えて。
これまでより、ずっと力強い言葉で。
……私は、…………廻琉は。
「……すぐに答えを出そうとしなくてもいい、キミ達はまだ若いから。手を取ってゆっくり歩いていけばいい。未来はまだまだ長いから」
──こんこん。
そう言って、海月店主が窓を二度、軽く叩いた。
それに反応したかのように、壁になにかがぶつかる音が聞こえる。
「ふっ……ふふっ………まったく」
海月店主が笑いを殺しながら窓を開く。
生温い外の空気が呆気にとられたままの私の頬を撫ぜて、聞き馴染んだ声が鼓膜を叩いた。
明るくて、溌剌として、……可愛くて。
「なななっ!なな!なんで気が付いたんですか!」
「……廻琉」
窓から顔を覗かせる廻琉と目が合う。
廻琉はどこか気まずそうにきょろきょろ辺りを見回して、それから、いつもみたいに首を傾げて笑ってくれた。釣られて……かはわからないけれど、少しだけ。
「聞いてた?」
「ううん!全然!ほんと!壁越しだもん!
こうやって……耳くっつけても、ね!聞こえなかった、よ!」
「……聞こうとはしてたんだ」
「だって!だって凪乃ひとりで出掛けるんだもん!
しかも師匠と密会なんてさ!
浮気だ!浮気!」
「別に。……そんなんじゃないし」
第一、まだ付き合っているわけじゃない、
けど、躍起になる廻琉は……まぁ、悪くはなかった。
「もうっ!帰るよ!お昼寝しよ!一緒に、ね!」
「ふふっ、……はいはい」
いつかの時のように頬を膨らませる廻琉を見て、ふと"海月店主に腕を絡ませて見せようか?"なんて過ぎったけれど、後が怖いからやめておいた。
「……あ」
すっかり忘れていた珈琲のカップを手に取って、思い切って一息で飲み干す。熱は冷めていて、相変わらず苦味は口の中に広がっていくけれど、すきになれそうな気がした。
「……今日はありがとうございました。
また来ます。次は……ちゃんと、客として」
「うん。いつでもおいで。休みの日にでも、一報くれたら開けるさ。キミ達の為ならね。
その時には……イチオシの漫画を読ませてあげよう」
「楽しみにしてます。あと、これ」
「いいよ。一杯目はサービスだから。
それに……ふふっ。良いものを見させてもらったし」
開けた窓越しに、私の左腕に絡みついた廻琉をみて海月店主が笑った。服越しに伝わる廻琉の体温と鼓動が、ちょっとだけ嬉しかった。
「うわあぁ〜っ!」
店の外へと出るべく、一旦廻琉を引き剥がす。
カウベルの付いた木扉まで来た時、後ろの海月店主へと向き直る。
後ろを歩いていた海月店主は顎に手を添えてどこか考え事しているような様子のまま、口を開いた。
「ひとつ、いいかな」
「……?いいです、けど」
「夜明 凪乃。キミは……傳田の出身かな?」
そう問うた海月店主の声は、先程までとは随分と違っていた。怒っているような様子ではない、決して。
……なにかを案じているような、そんな気がした。
「いや……生まれは、たしか緋水仙でだったと思います、けど。……なにか?」
それを聞いた海月店主は小さく唸っていた。どうかしたのだろうか?
私は両親が転勤族だっただけに、生まれ故郷というものにあまりピンときていなかった。
鹿々桜来たのも父の故郷だったから、という理由だった。母の故郷は……思えば聞いた事はなかった。
………あのアルバムに載っているだろうか。
「いや、すまないね。思い違いだ。
……悪かった、廻琉を待たせてしまったね」
「……あっ」
「遅いよぉ〜〜〜〜〜〜っ!!凪乃の浮気者!」
外から廻琉の声が聞こえてくる。急がなければ。
ご近所に聞かれてしまっては変な誤解が生まれてしまう、おかしな噂が回っては大変だ。
「じゃあ、また」
「うん、気をつけてね。碧と兎ちゃんにもよろしく」
「おこるよ!ほんと!」
小さく手を振る海月店主に向けて、空いた手で大きく手を振って返す。隣のフグも手を振っているらしいのが影でわかる。可愛いものだ。
しばらく歩いて花芽ラのアーチが見える頃、ふと海月店主の白髪を思い出す。地毛なのか、染めているのかわからないが、綺麗な色だった。
「……海月さん、綺麗な髪だったね」
「なになになに!!おこるよ!」
「ふふっ、ごめん。……でも珍しいでしょ?白髪。
だから、かな」
……鹿々桜に来る前、傳田で過ごした一週間の事だ。事故の前後だから、だろうか。あの頃の記憶は特に曖昧だった。あの子の顔すら浮かばない、声だって、名前だってもう思い出せない。
「昔ね。同じ色した髪の子と遊んだ事思い出してさ」
たった一週間。それでもかけがえのない時間だった。
夕陽を返す白髪だけが記憶に残っていた。
……彼女は、今も元気にしているだろうか。
「……仲良かった、の?」
「うん。碧と兎に会う前の、初めての親友……だと、私は思ってる。……もう会えないけどね」
私が話している間、廻琉は顔を背けたままだった。それでも、繋いだままの手は力強く握り締められていた。
熱が籠って、ちょっぴり痛いくらい。もしかして怒らせてしまったのだろうか。
「ねぇ、廻琉」
「……なに?」
「帰ったらさ。やりたい事、あるんだけど。いい?」
廻琉の声はどこか素っ気なくて、可愛らしい。
"やりたい事"、に釣られて熱の籠る手のひらすらも。
「……荷解き、手伝って」
ご機嫌とりなんてわけじゃない。
これは思い出したから。
引越しの時、押し入れの奥にしまったダンボール。これまでずっと開けてこなかった小さな箱。
「ひとつだけ忘れてたものがあるの。
これは……廻琉と二人でしたいから」
埃を被った、私の過去。
向き合う事を選んだ、私の答え。




