47.経て甘く
予想だにしない言葉を受けた私は兎の目を見たままフリーズしていた。今どんな表情をしているのか、なんて事に気を回せるほどの余裕がある筈もない。この上なく突飛な質問に驚くあまり答えが喉の奥に詰まっている。酔いでもしたのだろうか、ノンアルなのに。それとも空気にアテられたのか、そんな性質でもなかろうに。
「……そ───、ん」
姿勢を整えて答えを返そうとした時、"答えるな"とでも言いたげに、兎の手のひらがまっすぐこちらに向けられる。
「後でもっかい聞く。その時に…な」
「……いいけど」
兎が左隣で俯いたままの海月店主に一瞥を送ったのち、音を立てないよう慎重にこちらへと椅子を寄せる。耳を澄ませるとすぅすぅと可愛らしい寝息が小さく聞こえてくる。
かたりと音を立てて丸卓の上に二つのグラスが並ぶ。兎の目線は白い海に沈む丸い月に注がれていた。
「……あたしは能力を持ってる。
クソ迷惑で………名前も知らねぇカスの能力をな」
目だけは互いのグラスに置いて、声は出さないままに小さく頷く。グラスの中で揺れる黄金の液体が提灯の光を淡く反射していた。隣に並ぶグラスの中では白い丸氷が徐々に溶け出している。ミルク…だろうか。
「……怖かったんだ」
兎の絞り出すような声色が胸の奥に深く沈んでいく。思考はクリアだ。それでも…今は何も返さずにいた。
言葉を探しているような沈黙が続いた数分の間、互いの顔を見ることはできなかった。
「なんて言えばいいのかわかんねぇな。
上手く言えねぇけど……ざっくり言えば、心が読めるってやつだ。考えとか………まぁ、感情も」
兎の言葉を聞きながら、私は"怖かった"の意味を頭の中で反芻し続けた。自分で言うのもなんだが……私は馬鹿じゃない。それに十年も共に過ごせばわかることだって沢山ある。思考を巡らせるうち、抱いた事のない感情がふつふつと沸いていた。
「"啓示"を受けたのはまだ腹ん中にいた時だ。覚えてる筈もねぇ。話せば読める。……好きな奴らなら、例え離れてても降ってくる。物心ついた時からそれが当たり前だと思ってた」
「それで?」
口を衝いて出た言葉だった。
隣から兎が息を呑む音が聞こえてきたのを誤魔化すようにグラスへと手を伸ばして口を付ける。唇に黄金が触れて、ほのかな甘さが薫ってくる。
中身の減っていないグラスが音を立てて卓へと着いた時、兎は声を落としたまま話を続けた。
「……母さんと会う日が減って気が付いたんだ。
大きくなるにつれて、帰るのもあたしが寝てる時間が増えた。たまたま夜中まで起きてた時に会って…話した時にな。能力がな、……はは。"怖"ってさ。
怖かったらしい、あたしの事が」
「………それで」
「それ以外はいつも通りだった。
笑ってくれたしさ。……夜更かしを叱ってもくれた。今だって誕生日にはプレゼントを送ってもくれる」
兎が懐からGPS端末を取り出して卓の上に置いた。花火大会の時に私たちにも渡された物だった。……私と碧の分は壊れてしまったが。
「五歳の誕生日の時に母さんが碧を連れてきてくれた。
……それからは帰ってきてねぇ。ハツネ社の取締役員サマは本社で忙しくしてるからな。プレゼントと一緒に連絡もくれはするが……会話は続かねぇ。せいぜいスタンプ一個なもんだ」
ご丁寧にトーク履歴の開かれたスマホが卓の上に置かれた。数ヶ月に一度、兎の母親からは一言かスタンプが送られてきている。兎の誕生日の日には、"友達と使いなさい"と添えられたGPS端末の写真に加えて、もうひとつフキダシが見切れていた。が、それをスクロールする勇気は私にはなかった。それ以降は……兎の方からも同じように返していた。
「液晶越しでも、手紙なんかでも能力は働くんだ。勝手にな。……きめぇだろ?それが嫌で時間を置いて返事してんだ。……スタンプなら読めないしな」
数秒の沈黙が落ちて、卓上のスマホが液晶の光を落とす。"ムーンラビッツ"に浮かんでいた白い月はすっかり溶け切り、グラスの底に白い海を作っていた。
隣で大きく息をつく音に続いて、それからうんざりするほど辛気臭い声が耳に届く。
「もっかい聞く。……凪乃は──」
「舐めてるの?」
どのくらいぶりだろうか。
久々に視界に入れた兎の顔は予想していた通りだった。目元は赤く腫れ上がり、頬には涙の筋ができて襟元を濡らしていた。瞳も…赤い。昼間はスイーツに夢中で気が付かなかったが、カラコンでも入れて来ていたのだろうか、このバカ。
「この十年ずっと黙ってたからごめんなさいって?
心を読めるから嫌われるって言いたいの?」
「……まぁ、その。……なんていうか」
「こっち見て」
存外強くなってしまった言葉を受けて、兎がまるで宿題を忘れてきた事を叱られている小学生のように苦々しい表情で逸らしたばかりの視線を戻す。
この愚かな親友にどんな言葉を浴びせるべきか、私はずっと考えていた。ふつふつ煮えた感情を抑える必要ももうない。
「瀧奈ちゃんの家に行った時の事覚えてる?」
「……マルルの能力の時か?あの時は…その、手伝うっつったのに遊んでばっかで悪かっ──」
「うるさい」
落ち込んだ時に聞いていないことまでうじうじ言い出すのはこいつの悪いところだ。普段の野放図な振る舞いからの落差は凄まじい。ある意味兎らしいといえばらしい所ではあるが、今はいい。
「あの時ね。実は候補を三つまで絞れたまではいいけど決め手に欠けてた。だから三人が野球してるの眺めてたの」
「……でもちゃんと鑑定できたじゃんか。あたしは遊んでただけで……何の役にもたってねぇよ」
「そんな事ない。覚えてない?
あの時、兎は自分がなんて言ったか覚えてる?」
「……いや、なんも考えてなかったし。
たしか足音デカくなる…みたいな能力だったよな?よく逃げ出す奴だし、次からは見つけやすいかもって思った気は……する」
まだ兎の調子は戻りきらないまでも、言葉数は増えつつあった。ただこういう時に目を逸らしがちなのは相変わらずだ。
「それが決め手だった。兎はなにも考えてなかったとしても私を助けてくれた。瀧奈ちゃんとマルルの事も。
……それにさ。ほら、グラス持って」
残り少なくなった黄金の入ったグラスを持ち上げて、"ムーンラビッツ"のグラスに軽くぶつける。カツン、と軽い音が響いて、白い海の水面が揺れる。
音を聞き届け、兎の持ち上げた"ムーンラビッツ"と"夜明けへと"のグラスが同じ高さで並び、カクテル越しに兎と視線が重なったのがわかる。
「昔っから変なところで察し良いなって思ってた。きっと碧もそう。それが能力のせいだったとか関係ないよ」
十年前、独りっきりだった病室に二人が飛び込んできたあの日からずっと、今日この日まで。ただの一瞬たりとも。
「怖いなんて思ったことない。
……碧を見る目は時々、少しだけ気持ち悪いけどさ」
「……おう」
グラスをぶつけ合って、飲み干す。
込められた気持ちを味わうように、ずっと覚えていられるように。
一口目、二口目よりもずっと甘い。
時間が経つ程に甘く、優しく染みていく。
「だいすきだよ、兎」
「ははっ。………あめぇ」
兎の声はどこか朗らかで、口元にはいつも通りの笑みを浮かべていた。
「……"ムーンラビッツ"の月はミルクを凍らせて成形した物なんだ」
心地の良い静寂が丸卓を包んで数秒後、視界の外から忘れていた存在の声が耳を撫ぜる。
海月店主が目を覚ましたようだ。
……いつからだろうか、そんなちょっとした不安が脳裏を過ぎった時、視線のかち合った海月店主が"乾杯"のジェスチャーを取る。少しだけ顔周りが熱くなったのが感じられる。兎も借りてきた猫のように縮こまってしまっていた。
「あの子たちが時間が経つ程に甘くなるように設計したんだ。"夜明けへと"も同じ。後で感想、伝えてあげてね」
海月店主が廻琉と碧の居る【LOVERS】のテナントを指してから、丸卓に置かれた二つのグラスを指して示す。
「そのグラスもキミ達用の特注。持って帰っていいからね。…じゃ、私は二人を連れて先にロータリーに向かうから。遅れないようにおいで」
颯爽と立ち去る海月店主の背中を見送り、スマホを開いて忘れていた時間を確かめる。
時刻は十七時と三十分を示していた。あまいもの祭りの閉幕式、そしてスイーツ選手権の結果発表が始まるのは二十時からだ。ここからロータリーまではそう遠くない。今から出てゆっくり歩いて向かうのも良いだろう。
───ピポン♪
兎と見合わせ、立ち上がるべく背もたれから身を起こした時、丸卓に置かれた兎のスマホが軽快な音を立てて通知を報せる。
「……ん」
『昏』の仄闇に液晶の明かりが灯り、ふと一通のメッセージが目に入る。同時に、視界の端ではスマホから目を逸らす兎の姿も映っていた。
「…わり、凪乃。……後で見るから」
……あまり行儀が良いとは言えないが、仕方ない。液晶の落ちた兎のスマホを掴みあげてパスコードを入れていく。どうせ碧か私の誕生日だろう。020409……私のだ。
「兎、ほら見て。これなら私でも読めるよ」
煌々と灯る液晶を向けられ、おずおずと視線を向けた兎が目を見開く。
たった一通。それでも込められた想いはきっとあるのだから。
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『あまり遅くならないようにね』17:33
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「"心配"だってさ」
「……ははっ。……っ、……大正解」




