46.あなただけに捧ぐ味
時刻は十五時と五十五分。
余裕を持って【LOVERS】に着くことのできた私たちは目を疑った。あれだけの行列が影も形もなかったのだ。飲食スペースの丸テーブルは半分以下まで数を減らしており、恐らく客足の調整を図ったであろう事が伺えた。
さらに驚いた事はそれでも尚、満席を維持していた事だった。まったくもって恐ろしい、そして期待が持てるというものだ。いったい何をご馳走してくれるのやら。
「じゃ、入ろっか」
「おう、ドンと来いってもんだぜ」
「逆かも」
──カランカラン。
「いらっしゃいませ」
ドアベルの小気味の良い音が鳴り響き、小さな店内へと足を踏み入れるとカウンター席とその奥に海月店主の姿があった。海月店主は私たちを見るや否や、外の飲食スペースでホール作業を進める二人に大きな声で指示を飛ばした。
「廻琉、碧!ゲストだ!」
海月店主の細身から出たものとは思えない大声が私たちを迎えた。急な出来事に竦んだ私たちを次に迎えたのは、指示を受けて飛んできた二人の眩しい笑顔だった。
「凪乃!兎ちゃん!いらっしゃいませ!
時間ピッタリ、だね!」
「いらっしゃいませぇ!待ってたよぉっ!」
働き詰めだったからか、二人の制服からほんのり漂う汗の匂いが鼻を擽ったが、なにひとつ嫌じゃなかった。スイーツの甘い匂いと溶け合っているようで、安心感すら覚えられた。
「ほらほら!こっちこっち!」
「ふたりだけの特別席だよぉ!」
元気いっぱいの二人に連れられて来たのは花芽東公園にある大池のほとりに設置された大きな丸テーブルだった。真ん中にはランタンが置かれて、仄かに辺りを照らしてくれている。わざわざお店の横にある飲食スペースから運んできたのだろう。併せて四人分の椅子が設置されていた。
「ここでちょっと待っててねぇ!」
「ちょっと時間かかるから、ね!」
二人はそう言い残して、またお店の方へと戻っていってしまった。
離れに見える飲食スペースでは海月店主がホール作業に当たっているのが見えた。テーブルの数もまた少し減っている。同時に客捌けも進めているようだ。
……本当に三人で回してたんだ。
「どうも。兎ちゃんと…凪乃ちゃんだね」
腰掛けたまま、なにやら沈黙を貫いている兎に倣ってじぃっと大池を眺めていると、後ろから海月店主の声が飛んできた。
振り向いてみると、そこには器を二枚携えた海月店主の姿があった。器からは風に乗って芳醇なカスタードの香りと焼き菓子特有の香ばしい香りが漂ってくる。
そっ、とテーブルの上に乗せられた器の上には黄金色に輝く焼き菓子の姿があった。
「こちら、"夕暮れブリュレタルト"。
私からのサービスだ、……召し上がれ」
「ど、どうも」
"夕暮れブリュレタルト"なる一品が目の前に置かれた瞬間、半分程は埋まっていた筈の胃袋が鳴き声を上げた。無理もない。見れば理解る、これは美味しいやつだ。
鼻腔を擽る濃厚な焼けたカスタードの香り、大きめの丸テーブルいっぱいを満たす程の香ばしいこの匂いは鼻を通って脳へ、そして胃袋へとダイレクトに強烈な一撃を叩き込んでくる。
【あまより】でもそこそこの量を食べていた兎も皿の上に待つタルトに向けてチラチラと視線を飛ばしていた。無言のままではあったが、その顔からは"もう待てねーよ"と声が聞こえてくるようでもあった。
食べる前にちらりと海月店主の方へと目を向けると、海月店主もまたこちらを見ていた。視線がぶつかり、にこりと優しい笑みを浮かべて席に着いた海月店主から目を逸らし、改めてタルトへと向き直る。
「出来たてだ。熱いうちに、是非」
海月店主のGOを受け、兎と殆ど同じタイミングでタルトに手を付けた。
まさに"夕暮れ"そのものな円をフォークで一口サイズに切り分ける。外側のタルト生地がサクッと音を立ててぽろりと崩れ、閉じ込められていた濃厚クリーミーなフィリングの一層香ばしいバターの香りを解放させる。パキっと小さな音を立てながら表面のカラメル層が割れていく。中心へと進めていくに連れてフォーク越しにふにりと返る感触が強まり、食べずともフィリングの濃厚さが伝わってくる。も…もう待てないよ。
ひ、一口。
「……っ!これは……っ」
美味しい!美味しい………!!
言葉に……できない…っ!
口に入れた瞬間広がる芳醇な香りと焼けたカスタードのほろ苦さにそれを上塗りする程に濃厚な甘み…っ!サクほろのタルト生地とまったりとろりクリーミーなフィリングの絶妙なコラボレーションが……たっ、堪らない!!美味しいっ、美味しいっ!美味しい……っ!!
「……ご馳走………様でした」
も、もうわからない。なにも。
こ、こんな事が……許されていいのか。
「どうだったかな。コレは私から……キミ達だけの特別メニューだったんだ」
「えっ!そ、そうなんですか」
半ば放心状態で空っぽになりかけていた頭の中に海月店主の言葉が差し込まれる。"私たちだけ"なんて、そんな事あってもいいのだろうか。…それに、
「………どうして、ですか?」
疑問だった。兎はともかくとして、私は初対面な上にまだお店に行った事もない立場だ。
特別メニューに特別席まで準備してくれて、おそらく客入りを調整していたのも……関係しているのだろう。廻琉と碧から聞いていたにしてもどうしてここまでしてくれるのかがわからなかった。
「…そうだね。二人から聞いて、だけだと納得できないだろうから。二人が来るまで少しだけ話そうか」
海月店主がすらりと伸びる長い脚を組み替えて体勢を整え、ゆっくりと話し始める。私と兎は彼女の落ち着く語り口と、耳心地の良い声色にただただ聞き入っていた。
「兎ちゃん達が来た日から少し後…かな。
廻琉が一人でやって来たんだ。注文を聞いたら"弟子にしてください!"なんて言ってね、驚くだろう?
どうしてか聞いたんだ、一応ね。
そしたら……ふふ。なんて言ったとおもう?」
海月店主はそこで一度言葉を区切り、思い出し笑いをするかのように口元を抑えて小さく笑っていた。
無理もない。廻琉の突飛な行動には、私も時々笑ってしまうから。まぁそこも……良いところではあるけど。
「"凪乃と約束したんです!"って、真面目な顔でね。
あの時はまだ店を開けてすぐだったからね。
……ふふっ。他にお客さんが居なくてよかったよ、本当に。……で、面白そうだったからもう少し聞いてみたくなったんだ。そしたら……くっ。ずっと"凪乃に!凪乃が!"って……ふふ、可愛いだろう?」
「…………」
楽しそうに話す海月店主を見て言葉に詰まった。
なんというか、言葉が出てこなかった。
……まだ、わからなかった。
「それで根負けした訳さ。弟子をとるタイプでもなかったからね、悩んだけれど、面白かったから。
初めの頃はまぁ大変だった。なかなかに不器用でね。でも全てに真摯だった。出来ないことも諦めずに挑戦し続けた。だから私も応えたくなった。
それから少ししてね、廻琉が碧を連れてきたんだ。いや、連れてきたというよりは…ついてきた、かな」
碧の名前が出てきた時、兎の肩がぴくりと揺れる。しかし、海月店主が言葉を終えた頃、遠くから廻琉と碧の声が届いて海月店主が立ち上がり、話はそこで一旦区切りとなった。
「おまたせぇ〜っ!」
「えへへ!ちょっと時間かかっちゃった!」
満面の笑みで現れた二人はそれぞれひとつずつ、綺麗な色のドリンクを携えていた。
「えへ、こっちは凪乃の!ね!」
そう言って、廻琉が持っていたグラスが私の前に置かれる。零してしまわないように、それはそれは大事にそっ、とテーブルの上に乗せられたゴブレットグラスの中は見事なまでに三層に分かれていて、なんというか……目が離せなかった。
「こっちは兎のだよぉ〜っ!」
碧の小さな手に抱えられたフルート型のシャンパングラスの中には赤紫色のドリンク、中心には大きな白い丸氷が浮かんでいた。
「二人とも、説明をお願いできるかい?」
二品が届けられたのを確認し、海月店主が二人に向けてひとつ、指示を送る。
指示を受けた二人は事前に打ち合わせしていたかのように、自然な流れで立ち位置を変えた。はじめに前に出た碧が兎の前に置かれたグラスを示して、堂々と語り始めた。
「これはねぇ!オリジナルカクテル!だよぉ!
名前は……ひひ、"ムーンラビッツ"!」
"ムーンラビッツ"と呼ばれたそれに目を向けると、グラスの中に浮かぶ丸氷がじんわりと溶け出していた。輪郭を保ったまま、仄かな光のように広がっていく様はまるで夜空に浮かぶ月のようだった。
「……綺麗だな」
じんわり溶け出す月をみて兎がぽつりと零す。それを聞いた碧は得意気に鼻を鳴らし、後ろで待つ廻琉とハイタッチしてから立ち位置を入れ替えた。
次に前に出た廻琉は私の前に置かれたグラスを示して、これまた堂々と説明を始めた。
「これは……凪乃の為だけに。
名前はね!"夜明けへと"っていうの!」
"夜明けへと"と呼ばれたそれを改めてじっと見つめる。
グラスの中で分かたれた三層の下層は深い群青が、中層はほんのり混ざって紫がかる橙色が、その更に上には淡い金色の層が輝いていた。まるで昇る朝日が夜の闇を照らしているようだった。金色はずっと綺麗に輝いていて、廻琉の声を聞いていると視界がじんわりと輪郭を失っていった。
「……ふふっ。では。悪いけど二人とも、洗い物だけ頼めるかい?店仕舞いは済ませてあるから」
何故だか籠った耳に海月店主の声に続いて、二人の快活な返事が届く。
二つの足音だけが離れていった後は、この場を心地良い静寂が支配していた。歪んだ視界にはもはやなにが映っているのかわからなかったけれど、ずっと金色が輝いていた。
「凪乃、ほら」
声に応じて顔を上げると"ムーンラビッツ"のグラスをこちらに向ける兎の姿があった。言葉にはせずとも、"夜明けへと"のグラスをかちんとぶつけてから一口、喉へと流し込む。
口に含むと柑橘系の程良い酸味と強い甘みが舌からふわっと広がっていく。豊かな果実味の中に隠れた苦味がより甘みを引き立てている。飲みやすくて、満たされてとても……優しい味だ。
「……美味しい」
「……はは、ほんとにな」
一度に全部飲んでしまうのは勿体なくなり、グラスを卓の上に戻す。
どうやら兎も同じようだ。かたりと音を立てて戻されたグラスを見て、愛しいものを見るような笑みを浮かべていた。
「カクテルというものは────、」
微笑みを湛えた海月店主が足を組み替えながら口を開く。視線は卓の上に置かれた二つのグラスに落ちていた。
「───作った人間の"飲ませたい相手"が出る。
味よりも先にね」
海月店主の視線がグラスから顔を伏せる兎へと移り、そして私の方へと送られる。
「凪乃、私からキミへは野暮だ。わかるね」
視線は合わせたまま小さく頷いた。
私の手は自然と"夜明けへと"のグラスに伸びていた。ひんやり冷えたグラスをそっと掴み、胸の辺りへと持ってくる。結露でぽつりと落ちる雫が服の上に落ちたが、染みはこれ以上増えることはなかった。
海月店主は未だ顔を伏せたままの兎の方へと視線を戻して言葉を続けた。
「"ムーンラビッツ"のベースはキールなんだ。……ノンアルだから"風"ではあるけれどね。
それでも込められた意味は変わらないさ」
海月店主の発した"ムーンラビッツ"に反応してか、兎がそっと顔を持ち上げる。よく見てみると、目元が随分と赤くなっていた。
「知っているかい?キールのカクテル言葉」
海月店主が私たち二人に向けて軽い問いを投げかける。花言葉のようなものだろうか。なにせ未成年なものだから、いくら頭を悩ませてもそれらしい答えは出てこなかった。
目を腫らした兎と交互に顔を見合せ、首を横に振る。それを見た海月店主は小さく笑い、言葉を続けた。
「…ふふ。キールのカクテル言葉はね。
"あなたと出逢えてよかった"だよ」
あっ、ダメだ。
「……っぐ、うっぐ……ぅっ」
兎の方を見ることができなかった。視界の外からはただ嗚咽が聞こえるばかりで、海月店主に向けていたはずの視界がまた輪郭を失くしていく。どこか籠った兎の嗚咽はだんだんと大きくなって、時間を忘れた頃になって漸く目元に籠った熱は引いてくれた。
二人がまだ帰ってくる様子はなく、海月店主は疲れていたのか、椅子に座り目を瞑ったまま動かなかった。
平静を取り戻した私と兎は、心地の良い沈黙を保ったまま少しずつお互いのグラスを飲み進めていた。ほどなくして、"ムーンラビッツ"の月を模す丸氷がグラスの底でからんと音をたてた頃、兎が口を開く。
「少し話したいことがあるんだ。……謝りたい事も。
……聞いてくれるか?」
その声はいつになく落ち着いていて、こちらも相応に向き合う必要があることを予感させていた。
「凪乃は───、」
「……うん」
言葉を区切り、顔を持ち上げた兎と目が合う。兎は変わらず真面目な顔をしたまま、重々しい声で言葉を続けた。
「───あたしのこと好きか?」
「えっなに急に」




