39.きっとこれも、ほんの少しだけ
あれからも廻琉と碧は毎日のように朝の六時にはどこかに出掛け、夜の八時過ぎくらいに帰る日々を送っている様子だった。トイレやお風呂で時々すれ違う事はあったが一言二言交わすばかりで、不思議と会話はなかった。
……いや、本当の事を言えば私から話しかけないようにしていた。廻琉の方から話しかけてくれた時も、なんとなく相槌を打って、適当なところで切り上げては部屋に籠るようになった。
そのせいで、というか、そのお陰というか、『昏』十三日目にして課題も全て終らせてしまっていた。
明日は七月二十六日、忘れもしないあの日。
両親の命日だった。
毎年、この日だけは必ずお墓参りに行くと決めている。本来であれば週に一回でも行くべきであることはわかっているが、どうしても向き合う勇気が出なかった。それに墓石は置いてあるけれど、あそこに両親は眠っていない。……《《わからなかった》》のだから、仕方ない。
目覚まし時計はかけないまま布団に潜った。
空は一日中仄暗いままだから、出る時間を気にする必要はない。だから朝早くに出る必要もない。
わざわざ六時前に廊下に出ている必要も……ない。
明日はひとりで行こう、そうしよう。
でも、なんというか。……ほんの少しだけ。
「……さむいなぁ」
部屋の気温は26℃。丁度いい筈なのだけれども、1℃だけ上げてみる。それでも寒さは埋まらないまま。
布団の中は少しだけ広く感じられた。
***
七月二十六日。
やっぱり六時に目が覚めた。ばたばたと駆けていく足音が消えたことを確認してから、襖の外に出る。音の抜けた廊下と階段は、普段より一層静かに感じられた。
リビングに出てみると兎も既に起きていた。兎は二人と話せたのだろうかと思いつつも口には出さなかった。
「おはよ、兎。パン一枚もらうね」
「おう。早いな」
ソファにどっかり寝転がってタブレットを眺めている兎に一声かけて、食パンを一枚、オーブントースターに預ける。じじ、と低い音を鳴らして赤くなるヒーターを見つめて待っていると、兎の声が背中を叩いた。
「今日さ、行くんだろ」
「うん。……ひとりで行こっかなって、思ってる…けど」
当然、両親の命日の事は兎と碧も知っている。
二人と出会ったのが事故の後に入院していた病院だったから、成り行きで……という形にはなるけれど、それでも二人に話した事を後悔したことはなかった。
ただ、これまでのお墓参りに二人を連れて行った事はなかった。二人と言わず、これまでも誰かを伴う事もなかったのだからなにも不自然ではない。
不自然なのは……今回だけだ。
「あたしもさぁ。そろそろ身体動かさねーとなーって思ってたんだよなぁ」
兎がいつからか咥えていたエネルギーチャージを吸いきり、ゴミ箱に放り投げながら立ち上がる。よく見てみると兎が着ていたのは部屋着でも寝巻きでもなく、外出用のものだった。
空の容器ががちゃんと音を立ててゴミ箱の底に落ちた時、ふと先日の兎不在の時間があった事を思い出した。
「…でもこないだ、」
「覚えてねーなぁ。寝過ぎちまってんじゃないか?
あぁ、あたしにも一枚頼むわ。マヨかけてくれ、たっぷりな」
「……ん」
次にタブレットをソファに放り投げた兎がにんまりと笑みを浮かべて食卓に着く。向かいには私の定位置があった。
「腹拵えしとかなきゃな。出掛けんならさ」
「…ありがと」
温めきらないまま、蓋を一度開けて二枚並べた。
焼き終わった時には一枚は少しだけ焦げていたけれども、要望通りにたっぷりかけて、誤魔化してみた。
隠しきらなかったけれどそれでいい。とりあえず、今のところは。
***
手提灯を片手に歩く外は暖かく、首筋を撫ぜて過ぎる風はほんの少しだけ涼しい。
空にはちらほらと雲がかかり、所々が一層暗くなっている。兎に勧められて持ってきた手提灯が実に役に立ってくれていた。遠くでは今日もどこかから小さく太鼓の音が響いて聞こえている気がする。
「今日のはどこでやってんだろな」
「広報も出てなかったくらいだし、小さめのかもね」
『昏』では毎日のように鹿々桜のどこかで小さめのお祭りが開かれているのだ。
直近で予定されている規模の大きいものは、明日二十七日からの『花芽ラあまいものまつり』。まさに今通っている花芽ラ商店街からロータリーまでにある空きテナントが解放され、鹿々桜の名だたるスイーツ店が集う日の事である。所々電気がついているのも、おそらく明日の準備をしているからなのだろう。
「明日だね。行く?兎」
「当然。あいつら置いて食い尽くしてやろうぜ」
「…ふふ。良いね、それ」
甘味好きとしては外せない催事である為、ノータイムで返す兎の軽い言葉が嬉しかった。
私が特に注目しているのはなんといっても『鹿々桜スイーツ選手権』だ。参加店舗の中でも特に人気のある店にのみエントリー資格が与えられ、客にはそれぞれ五枚ずつ投票用紙が配られる。開催期間中に最も得票数の高い店には記念トロフィーと賞金百万円が贈呈されるそうだ。当然、客として参加するからには公平な視点から投票先は選びたい。私は味にはうるさいのだから。
商店街を抜けた時、アーチに付いた花芽ラのネオンに目が留まった。白々と点る"花芽ラ"の"ラ"とはなんなのか、今までは気にした事もなかったがなんとなく気になってしまった。
「ねぇ兎。花芽ラのさ、ラ…ってなにか知ってる?」
「おっ、凪乃も気になったか。あれにはな、ある理由があるんだ。今こそ話そう」
「……ほう」
ふっと神妙な面持ちになる兎に釣られて、私の声も一段落ちる。きっと真面目な話なのだろうと身構えた私を見て、兎がいつものように口角を上げて、いや、それ以上に悪い顔で笑って語り始めた。
「その昔、それはそれはデッカいラーメンブームがあったんだ。聞くところによると…三十年くらい前らしい」
「……ふむ」
「この商店街ができた時期と重なるな。ちなみに当初は"花芽ラーメン横丁"って名前だったわけだが」
「…ふむ」
「哀しきかな、ラーメンブームもほどなく廃れてな。改装工事ついでに改名に合わせて取り外し工事が行われたんだが……"ラ"だけ取り忘れたんだと」
「…うん?」
「そのまま定着しちまったわけだ。ははっ!くだらねーだろ」
笑い飛ばす兎の横顔を見て、ふと先程の悪い笑みを思い出す。あまりにくだらない理由…というよりも、私はひとつの可能性に目を付けた。ここは碧みたいにむすっとしてみよう、なんとなく。
「嘘でしょ、それ」
「くくっ、マジだって!白鳩さんが父親から聞いたっつってたんだから!んだその顔!クソッ、可愛いことしやがって」
「あっちょっ!撮るな!」
口を尖らせてあからさまに不機嫌です、といった顔をしてみせると、兎が懐から出したスマホをこちらに向けて連写音が鳴り響く。やらかしてしまった、弱味を握られてしまった!
「いやでぇ〜す!ハハハ!あいつらにも見せてやる!」
「ちょっ!もう!逃げるなぁ!」
カメラの連写音に続いて駆ける足音が二つ。
商店街に響いた笑い声も、今はまだ二つだけだ。
***
花芽ラ商店街から十五分程歩いた頃に目的地が見えてきた。麓から斜面にかけて墓石の立ち並ぶ水鯱山。そのずっと上、約三百の階段を登った先に両親のお墓は置いてあった。
代理人になってくれた上、「できるだけ空に近いところがいい」という幼い頃の私の頼みを聞き入れてくれたさっちゃんには今でも感謝してもしきれない。
階段の前に着いた頃、少し先に見える自販機に向かって兎が歩を進めていく。
「じゃ、あたしはコーラでも飲みながら待ちますわ」
「上まで来ないの?」
「家族水入らずってやつだ。それとも…怖かったか?くくっ。…つってな!気にすんな!ベンチもあるしさ」
ぶらぶらと手を振る後ろ姿を少しだけ見送る。
聞こえないくらいの距離、届かないくらいの声量で小さく呟く。
「……カッコつけ」
返事はない。おそらく、聞こえていたとて。
そういう奴だ。
***
約三百段をひとつひとつ踏みしめて、【夜明家之墓】と刻まれた墓石の前に座り込む。一年に一回しか来ていないというのに墓周りは綺麗に整っていた。同じように綺麗にされて、花まで替えられている墓石を見て、きっと隣の人達がついでに掃除してくれたりしたのだろうと、そう思った。
墓石を磨いて杯の水を入れ替える。
花を差し替えて線香に火をつける。
手を合わせて、目を瞑る。
毎年繰り返した動作だ。
毎年一回だけだけれども、両親の事を思い出しながらひとつひとつの動作に心を込めてきた。
ここの下には両親は眠っていない。それでも見てくれているから、きっと。そう信じていた。
目を開けた時、視界がじんわりと滲んでいた。
線香から立ち上る白い煙がゆっくりと黄昏の空に溶けて消えていく。
「……十一年、か」
長いのか、短いのか。もうよくわからない。
大好きだった両親の顔は今でも思い出せる。目を瞑ればいつだってそこに映っていたから。
声だって、匂いだって。
最期にみた笑顔だって……思い出せる。
「私、かわったよ」
ぽつりと呟いた言葉が風に乗って流れていく。
届けてくれるだろうか。
「……ほんの少しだけ」
やりたい事、知らない事、これからの事。
少しずつ考えるようになった。
一緒にいたいと思える人たちにだって出会えた。
「さて、と。………ん」
目元を拭って視界が輪郭を取り戻した時、線香の煙がふっと揺れて、脳裏に"青"の字が過ぎり、視線が後方の草むらに吸い寄せられる。
「にゃあ」
不意に向いた視線の先には猫がいた。お腹に青色の模様を付けた、いつぞやの猫だった。逃げるわけでもなく、悠長なことに喉を鳴らしてその場に佇んでいる。
相変わらず妙に目が合うというかなんというか、いつだって逃げられるぞ、といった顔をしている…ような気がした。
「…こんな感じなんだ。認識着色って」
屈んで手を差し出すとそっと近付き、指先をくんくん嗅いで擦り寄ってくるその姿は、見ている分にはただの可愛い猫だった。
「……あれ。お前」
ふと視線を向けた草むらからは、三匹の仔猫と母親らしき黒猫がこちらを覗いていた。小さな顔に輝く宝石のような丸い瞳が並んでいる様子は、見ていると自然に笑みが零れてしまうほどに可愛らしかった。
警戒心が薄らいだのかぞろぞろと出てきたかと思えば、足元でお腹を出して転がる様には、あまりの可愛さから少しだけ笑ってしまった。
「……生きてるんだよね、お前たちも」
自然と零れた言葉だった。
捕獲には失敗したけれども、少しだけ傷付けてしまったけれども、それでもこの子は生きている。
この街で、家族と共に。これからもきっとそうだ。
私も……そうできる筈だった。
「……どうして、か」
そう思えばこその"どうして"だった。
あの時の…砂溟先輩もそうだったのだろうか。
『諦めませんから』
そう言った砂溟先輩の顔を思い出す。
きっと家族を愛していたからこその必死さだった。それは私にもよくわかる。…痛い程に。
砂溟先輩と同じ…なのかはまだよくわからないけれど、もしまだ知らない事があるのなら。
「……知りたい、かな」
線香は既に燃え尽きてしまっていて。
掛かる雲はいつしか流れて、遠くに滲む茜色が鹿々桜の地を照らしていた。




