38.兎の受難
それは七月十七日の事だった。
兎のもとにある誘いのメールが届いたのだ。
『明日の十時に【LOVERS】に来い。奢ったるさかい。朝の十時やからな!』23:07
『遅れんなや!』23:07
『朝の!やで!』23:15
廻琉のメタモルとクレフロを注文し、上機嫌のまま夜通しクレフロの世界へと潜界するべくベッドに身を放ったばかりの彼女は実に不機嫌だった。
『念押ししてんじゃねーよ』23:17
明日は凪乃にクレフロの進め方でもレクチャーしてやろう、という兎の予定は見事打ち砕かれた。
【LOVERS】は先月に最寄りの駅前に新装開店したカフェの事である。肆京からやってきたという女店主の提供するスイーツは絶品と評判であった。
兎も廻琉と碧を連れて一度行ったことがあった。
肆京宛らの和モダンの内装に、隠れ家的な広すぎない店内はとても居心地が良く、漂う珈琲の香りは一層心を落ち着かせてくれた。隅に設けられた本棚には絶版となった漫画が所狭しと並べられており、兎はそこに並ぶ漫画のチョイスから店主のセンスにも一目置いていた。近いうちに凪乃も連れていこうと思っていたものの、先に自分が、しかも卜部から誘われる事になるとは思ってもいなかった。
「……クソだりぃ」
断る事もできたが兎がそうしなかったのには理由がある。卜部のメールからは、なんでもない文面に似つかわしくない"焦"の語を得られていた為であった。面倒だと思いながらも、明日の為に寝支度を整えてから、兎は卜部とのトーク画面を開き、凪乃から貰ったスタンプを一つだけ飛ばした。
『OK』23:43
***
「おっ!兎!こっちやこっち!」
手提灯を片手に【LOVERS】へと辿り着いた兎を、ドアベルの小気味の良い音と卜部の声が同時に出迎える。
窓際に置かれた小さめの丸机に着いた卜部が大きく手を振っているのが目に留まり、兎は向かいの椅子に腰を掛ける。幸い他の客は離れた席に二組ほどいるだけで、声量にさほど気を遣う必要もなかった。
「それで、なんだよ。わざわざ呼び出して」
「……落ち着いて聞いてくれや。あ、どうもぉ!」
メニューを置き、「ごゆっくりどうぞ」と去っていく女性の後ろ姿に兎の目は惹かれていた。優しげな笑みや綺麗な白髪、整った顔立ちが魅力的だから。といった理由ではなく、ちょっとした物珍しさからだった。
「店主もホールやるんだな。忙しいからか」
「どやろ。今日は落ち着いて見えるけどな。
それより兎。ちょいと相談……乗ってくれへんかな」
相談という言葉に、兎は返事ではなく態度で示した。椅子に深く座り直してメニューを眺める兎を見て、卜部は安心した様子で言葉を続けた。
「…あんたけっこうモテるらしいやんか」
「あぁあ〜〜???」
「ちゃうねんちゃうねん!ちょいと紹介して欲しいだけやねん!」
兎は焦るように首を振る卜部を横目に、メニューを静かに閉じてから呼び出しベルを一回鳴らした。このまま帰ることも考えたが、卜部の声に反応した他客の視線が痛く、なにより傍から見れば歳下の女の子を放って帰る冷血な人間に思われかねない事が嫌だった。
「すんません。この国産いちごのショートパンケーキ一つとホワイトモカ一つ、お願いします」
「アタシも!お姉ちゃんと同じもんをお願いします!」
「……歳考えろよお前」
注文を聞き届けた店主が離れていったのを確認してから、兎が小さな声で悪態をつく。それを聞いた卜部の眉がピクリと動いて表情筋が強ばるも、深く深呼吸をしてから、落ち着いた声で話は続けられた。
「それやねん。…焦ってるわけと違うけどな別に。
焦ってへんよ?まだ二十三……ピチピチやんか。
でも…そろそろ、な?わかるやろ?」
「わかんねーよ。紹介するほど男友達いねーし。
だいたいあたしら学生だぞ、高校生!犯罪だろお前とだと」
「ちゃうねん!アタシな……別に女の子でもええねん。どっちかて言うと女の子の方がええねん!」
「違わねーだろバカ!歳考えろっつってんだろ!友達もみんな未成年に決まってんだろこのバカ!」
兎が声を荒らげた時、離れに居た一組が退店していくのが見えた。彼らは随分前に会計を終えていた為、彼らの退店に二人が影響した訳では無いのだが、それを知る由もない兎は居心地が悪くて仕方がなかった。
「さっちゃんがいるじゃんか。
仲良さそうだったし。付き合い長いんじゃねぇの」
「いやぁさっちゃんはなぁ。ええ子やねんけどな。そういう関係じゃないっていうかなぁ。まぁ……付き合う…んんっ。なら?もうちょい落ち着いてる方がええかなとは思ってんねん。ああ、あと兄貴がアカンわ」
「知らねーけどよ。あ、ども」
届けられたモカを一口含みつつパンケーキを切り分けながら、兎の目は店主の後ろ姿を追っていた。店主がキッチンへと姿を消した時、小さい一口でパンケーキを食べ進める卜部の方へと顔を寄せて兎が小さく呟く。
「なぁ、ここ他にスタッフいねーのか?
ずっとあの店主しか見てねーけど」
「あん?元々店主一人やんここ。最近は見習いの子らに裏は任せてるとか聞くけど。だからずっとホールに居るんやないの?それよりやね──」
「へぇ。……うまっ!」
ひとりで話し続ける卜部の言葉を右から左へと聞き流しつつ、兎はパンケーキを堪能していた。口に入れた瞬間ふわっと広がる甘みだけを残して溶け消えていくパンケーキといちごの程よい酸味との相性は抜群で、兎の皿に盛られたパンケーキはみるみるうちにその量を減らしていった。その間も耳を通り抜けていく卜部の声は、それはそれで良いアクセントになっていた。
「ふぅ。ご馳走さん、と」
パンケーキを食べ終えた兎は湯気の立ち上るホワイトモカをちびりちびりと飲み進めながら、八分ぶりに言葉を返した。店内に残る客は既に兎と卜部だけになっていた。
「もう羽々斬でいんじゃねーのか。女の子みたいな見た目してんだろあいつ」
「ええわけあるかァ!!見た目の問題ちゃうやん!
第一!あんなもんにアタシの人生は預けられへんね!!ぜ〜〜〜ったい!ふん!」
「なんでちょっと偉そうなんだよ。……んぉ」
小さな胸を張る卜部から呆れ様に視線を外した時、こちらに向かってくる店主の姿が兎の目に留まった。
「なんだか随分と──」
程なくして、がたりと小さく音を立てながら丸椅子に腰を掛けた店主が二人に向けて話を始めた。
「──楽しそうな話をしているね」
兎は一瞬、「騒ぎすぎたか!?」と店内を見回したが既に他客の姿はなく、すらりと長い脚を組んで二人に視線を送る店主は温かな微笑みを湛えていた。静かな店内に低く響く声は微笑みと相まって、兎に不思議な安心感を与えた。一方の卜部はなにをするわけでもなくカップに口を付けたまま、中で湯気立つホワイトモカにじっと視線を落としている。
「あ〜…。すんません、喧しくて」
「いいんだ。今はキミ達だけだから。
ただ次からはもう少し、ね」
店主は二人に向けて、微笑む口元に人差し指を当てながら小さくウインクを飛ばした。一流の彫刻のように整った顔立ちに、飾られたような知性と冷徹さを兼ねる切れ長の瞳は、妙に芝居じみた彼女の行動を至極自然なものにしていた。
唐突な"ちゃんとした大人"の乱入に尻込みした兎は言葉に詰まり、卜部よろしくホワイトモカを一口含んで間をもたせた。
「私は曦海月。
他にお客様もいないし、少しだけ混ぜてくれるかな」
海月と名乗った店主は、すっかり黙りこくった二人を前に淡々と話を続けた。初めのうちは緊張から跳ねるようだった兎の鼓動は、店主の声を聞くにつれて次第に落ち着きを取り戻していった。
「鹿々桜には最近やって来たんだ。『昏』が目当てでね。思っていた通り……いやそれ以上に、いいものだね。実に満足しているよ」
「まっ、まま前はっ!どっどどどどっ、どっ、こから来はったんですかっ!」
卜部はすっかり空にしてしまったカップを震える手で戻しながら、なんとか言葉を発した。文意だけは辛うじて伝わるその有様に、兎の能力が"慌"の語を弾く。弾かずとも明らかな解を弾く能力の平常運転っぷりは兎を苛立たせつつも、気を楽にするのに一役買っていた。
「私は肆京から。地元なんだ。方言からして、キミもだろう?同郷の士というものかな。これも縁だね」
「ひゃっ!ひゃいっ!よっ、!ろしくおおっ、おねがっしまっすぅ!うっ!卜部 飾っていいます!」
「よろしく」と差し出された店主の手に重ねられた卜部の手は随分と小さく、相変わらず震えたままだった。先程までとは打って変わって借りてきた猫よりも酷い卜部の様子に、兎は若干呆れていた。
海月は握手を交わした手をじっと見つめる卜部を見て小さく笑いながら、次に兎に向けて右手を差し出した。
「そちらは……兎ちゃん、だね。よろしく」
「よろしゃす。……ん?」
能力が弾く前に、兎は違和感を覚えた。なにせ兎が名乗る前にも関わらず呼ばれたのだから至極当然の反応ではあった。怪訝な表情を浮かべた兎を見てか、海月が繕うように付け加える。
「いやすまない。キミが入ってきた時に聞こえていてね。可愛くていい名前だ。勿論、飾ちゃんもね」
"真"。
嘘はついてはいないらしく、兎は特に気にするほどでもないとそのまま流すことにした。
それ以上に兎が気にしていたのは卜部だった。
海月と握手を交わしている間中、視界の外にいるはずの卜部の表情がわかるほどに刺すような視線を感じていた。手を離した時に視線が緩むのを感じて、兎は胸を撫で下ろした。
「キミ達は二十七日の『あまいものまつり』には来るかい?」
「はいっ!いいっ、いきましゅ!」
「まぁ、行こうとは思ってっすけど」
「それは良かった。私は見習い達とスイーツ選手権に出るから、良ければ応援してくれたら嬉しいな」
海月は二人の返事を受けて満足したように頷き、席を立つ。小さな丸椅子ががたりと音を立てて、元あった隣の席へと戻された時、壁に掛けられた鳩時計が気の抜けた声で十二時を告げた。
「もうこんな時間か。二人には申し訳ないね。
『あまいものまつり』まで、午後は閉めることになっているんだ。是非また来て欲しいな」
海月の申し訳なさそうな笑みを受け、二人も席を立つことにした。
会計を済ませている間、卜部はじっと手を見つめたまま無言だった。昨晩の「奢る」という言葉はどこへやら、二人分の支払いを終えるまで、余りに自然な流れに兎までその事を忘れてしまっていた。
「すんません。騒いだ上に長居しちまって」
「いいんだ。ここはそうできる場所にしたいから」
そう言う海月の顔は、兎の目にはどこか哀愁を帯びているように映った。同時に、そのうち漫画の話でもしに来よう、そう思っていた。
二人が少し歩いた頃、兎がふと振り返ると小さく手を振る海月の姿があった。兎がそれに応えた時、ある一言が風に乗って流れてきた。
「お友達によろしくね」
その意図を理解しようとした時、隣で俯きながら歩く卜部が発した小さな呟きによって兎の思考は遮られた。
「なぁ兎。アタシな、みつけたわ」
「あん?」
無言を貫いていたとは思えないほど力強い卜部の呟きは兎の思考を塗り変えるには十分だった。
すっと顔を擡げて目を輝かせる卜部が続けた言葉は、兎にとって到底無視できるものではなかった。
「なりたいねん。絶対…!
海月さんの…恋人にっ!」
「うるせえよ」




