3.月に叢雲①
その日は家に帰りついてからも落ち着かなかった。
シャワーを浴びて、夕飯を食べ、課題を済ませてベッドに身体を放る。いつも通りのルーティンだ、今日も身体は同じように動く筈だった。しかし、なぜだろうか。無意識のうちに順序は入れ替わっていた。
シャワーは一番に浴びた、汗を流したくて。
その後、お腹が鳴って気が付いた。いつの間にか机に向かっていた、課題も済んでいた。髪は濡れっぱなし、水滴がいくつかノートに滲んでいた。
空腹を満たす為、冷蔵庫から作り置きのカレーと冷凍していた白米をレンジに詰めた。……五分でいいか。
レンジが鳴るのを待っている間に髪を乾かして、何故だろう。歯を磨いていた。今から食べるというのに。
五分と少し、何度目か知らないレンジの呼び声に意識を引き摺られた。皿に盛って、食べて、また歯を磨いて。それで終わり、少しズレたがいつも通りの夜だ。
「……ん」
一口含んだカレーはぬるくて、かたい白米の中はまだ少しだけ冷たかった。……あたため損ねたかな。
二度目の歯磨きを済ませた頃、時計は二十二時を差していた。ベッドに身体を放って枕に顔を埋めて、まだ遠くの眠気をこちらへ引っ張る。頭の中があの子で埋まってしまう前に。
転校生。
能力者。
『ほんの少しだけ 思い通りになる』能力の。
陽戸 廻琉。
そして、あの一言。
『一目惚れしました』
めちゃくちゃだ、意味がわからない。
能力も。告白も。あの子も。
考えても答えは出なかった。
ならもう考えない、これ以上は。
寝よう。今日のところは。
いつも通り電気はつけっぱなしで。
夜も明るい部屋の中で今日もひとり。
静かな部屋の外からは虫の鳴き声だけが聞こえていた。
***
翌日。朝のHRではいつになく教室がザワついていた。転校生が来て初日というわけでもないのに、何をそこまで話す事があるのかさっぱりわからない。
私の左隣に座る、話題の中心であろう転校生、陽戸 廻琉は古文の教科書に目を通していた。何をそこまで読み込む事があるのか、これもさっぱりわからない。もっと言うなら、わかろうと思わない。そう思えない。
興味がない。必要なら勝手に耳に入る事だ。
──がら。
「なんとぉ!今日の五限、六限はレクリエーションに変更になりましたぁ〜。ほら、拍手拍手〜」
「五六限なんだったっけ?」
「化学。墨ちゃんの」
「ぃぃいよっしゃぁあああ!!」
「ナイスー!」
「なにすんの!なにすんの!レクリエーションなにすんの!」
開扉音に続いて響いたご機嫌な祭歌先生の声が教室に流れる。次の瞬間、それをかき消さんばかりの勢いで歓呼の声が教室を満たしていた。
「うぃ〜。もちつけい皆の衆。
あんま騒ぐと怒られちゃうでしょあたしが」
あちこちから重なる声が朝からやけにうるさい。男子の笑い声も、女子の弾む声すらも、今日は妙に耳につく。
その点、兎はこういう時にも落ち着いてくれているから有難い。碧は……居ない、休み?……風邪だろうか。
「転校生来たからねん。必要でしょ?顔合わせ、自己紹介!なのでぇ〜、校内全域を使った『かくれんぼ』を執り行いま〜す!」
「いいねぇ〜!」
「……校内て大丈夫なん?許可とか」
「なにすんの!なにすんの!具体的になにすんの!」
「かくれんぼつったらかくれんぼに決まってんだろぉ!
鬼は陽戸っ!サポートは……凪乃っ!他は隠れる!以上!あと能力持ってる奴ぁ使えよぉ〜っ!」
祭歌先生の手からチョークが二本、私と転校生に向けて打ち込まれる。私は額を教科書で覆ってそれを弾く。狙いは決まって額、着弾まで二秒。慣れたものだ。
「ぐぇっ!」
左隣からは哀れにも被弾する声が聞こえる。
まだ転校して二日目。そのうち慣れるだろう、これが祭歌先生だ。
転校生のサポートとは。全くもってありがたい事にどうやら面倒な役回りを賜ったらしい。だからといって断る理由もない。
「さっちゃんはかくれんぼの間どーすんの?」
「あたしはアレよ。駅前の新しくできたカフェに行ってくるから。問題だけは起こすんじゃね〜ぞっ!」
「あぶなっ!オイ!虐待教師!」
教室の誰もが抱いていたであろう疑問をぶつけた月炉に、わかりきっていた返答とチョークが返る。
「どぉ〜しよ。……今から行っちゃおっかな。
一、二限あたしのだよね?自習にしちゃ……ダメ?」
「ざけんなバカヤロー!」
「給料ドロボー!」
「せめてお土産買ってきてくれよ」
まぁ、そんな事だろうと思っていた。祭歌先生が業務時間中に学校を抜け出すのは珍しいことではない。それに、バレた時に教頭から中庭に逆さ吊りされているところを見掛けることもそう珍しいことではない。
「な、なんかさ。変わってる、ね!」
「……まぁ、ね」
チョークと罵詈雑言の飛び交う教室内を見兼ねたか、転校生が私の方に身を寄せて小さな声で零す。
身に染みて学ぶといい。これが神代桜高等部だ。
***
昼休みの間、兎は沈黙を貫いていた。
碧のいない時間自体は、十年も付き合いがあれば別に珍しいことではない。珍しいのは、
「かくれんぼってさ!なにするのかな!?」
「……かくれんぼでしょ」
この騒がしい転校生の存在だった。
だんまりを続けている兎の顔を見るに、転校生がいるから不機嫌という様子でもない。昨日は普通に話していたし、そこまで露骨に好き嫌いを態度に示すほど捻た奴ではない。
「………ぶふっ……くくっ……くっ」
それに、転校生の度を超えた世間知らずな発言を聞いてか、時々笑いを堪えている様子だった。
「ちょいちょちょ〜い!咬郷せんぱぁ〜い!」
弁当も食べ終えて話題の種も底を尽き始めた頃、廊下から、兎を呼ぶ肆京訛りの大声が聞こえてきた。振り向いてみると、階段の袖から中等部らしき女子生徒がこちらに向けて手を振っていた。碧よりも小柄で、制服の袖が少し余っている。神代桜に初等部が併設されていればそちらの疑いをかけていただろう。
「部長が探してはりましたよ。
なにやらかしましてん今度は」
「……あぁ〜。卜部、今行くって伝えといてくれるか。悪い凪乃、陽戸。ちょっと外すわ」
「かしこまり」とだけ言い残して、卜部と呼ばれた小さな少女は去って行った。
兎は心当たりがあるのか、なにやら苦い顔を浮かべていた。大方、器材を壊したとかだろう。物の扱いが雑なのは今に始まったことじゃない。碧にすら何度か苦言を呈されているこいつの悪いところだ。
「悪いな、先戻っててくれ」
自業自得にも関わらずふてくされた顔のままの兎は、肆京訛りの少女の背を追うように部室棟へと駆けて行ってしまった。碧の事は……帰りにでも聞けばいいだろう。
***
いつも通りなんとなく時間は過ぎて、昼休みの終わりを告げるチャイムのなる頃には教室で本を読んでいた。
生物学。別に面白いことなんてない。なんとなく手に取ってみただけの本だ。特に意味なんてない。
視界の端で、時折こちらに向けて視線を送る転校生の姿が映る。……昨日の事であれば、私はもう忘れてしまった。そういう事にしておく。
──がら。
「集まっとるかぁ〜?……よし、揃ってんね。
ああ、碧休みだって、知ってた?」
「おせーよ!」
「もう昼過ぎだぞ!イカれてんのか!」
「おぃすぅ〜。元気でなによりですぅ〜。
うぃ、陽戸。はいコレ。っとぉ、凪乃にはコレ!」
祭歌先生は野次を左から右へと聞き流しながら、転校生に一枚の紙を手渡した。かと思えば私の方を向き直り、更にもう一枚、似たような紙を寄越してくれた。
紙面には当クラス総数二十三名のうち、能力を持つ十二名の"能力名"のみが書かれていた。『かくれんぼ』に使えという事だろう。
「ほんじゃルールを説明します。
まずひとつ!他クラス・校長室・"禁区"!この三箇所には踏み入らないこと。
ふたつ!能力者はなるべく能力を活かして隠れること!できない場合は……コントでもやってろ!むしろ覚えられやすいっしょそっちの方が。
みっつ!鬼の始動は十分後!以上! では、散っ!」
祭歌先生の号令に合わせ、私と転校生を除く二十名が一斉に教室を飛び出していく。十分の待ち時間で足音に耳を澄ませるでもして、大まかな位置把握だけでもしておきたいところだが。
「夜明さん!よろしく、ね!」
「……ん」
そうもいかないのが面倒なところだ。
「おっおっお〜?思春期かな、凪乃〜ん?
悪いねぇ陽戸。愛想悪いのこの子ったら」
それに、この教室にはまだ祭歌先生も残っている。
「な……なんか距離近いです、ね!」
「そ、仲良し。ね?」
「……別に」
「んもぅっ!素直じゃにゃあの!」
……この人に感謝している事は多いが、毎度毎度、隙あらば頭を撫でくり回してくるところはあまり好ましいとは言えない。かといって、わざわざ振りほどく必要もない。受け入れていればいつか終わることだ。
待ち時間の間中、隣では騒がしい二人が会話を続けていたが、内容はこれっぽっちも頭の中に入ってこないよう努めた。理由は終始私の話だったから。
「おっ、時間じゃん。ほいだらあたしはカフェ行ってくるから。あと任せたよん、なんかあったら電話よろ!」
祭歌先生はそう言い残して、時計の針がきっかり十分を刻んだ頃に窓から外へと飛び出していった。
ここは三階、常人であれば無事では済まない。
「ちょちょちょっ!えっ!えっえっえっ!」
常人であれば。
「んじゃあねぇ〜っ!」
落下中だろう。徐々に遠のいていく祭歌先生の声に続いて重たい音が響き、校舎がふる、と揺れる。
「いつもああだから。気にしない方がいいよ」
「えっ、えぇ……」
慣れたものだ。あの人はどこかが少し……おかしい。
まぁ、身に染みて学ぶといい。
あれが百目鬼 祭歌。我らがさっちゃん先生だ。
──がら。
「やっとうるせーのが出てったな」
静かになったばかりの教室の戸が開き、軽いぼやきと共に姿を見せたのは兎だった。
「隠れるのめんどくせーし。探すの手伝うわ。
自己紹介は……今更だな、いらねーか」
「ほんと!?たすかる、ね!夜明さん!」
祭歌先生が出ていくのを待っていたのだろうが、もし普通に廊下から出て行った場合はどうしていたのか。……それはないか。あの人は最短ルートを選ぶタイプだ。
「……だね」
それはそれとして、一人増えてくれたのは大助かりだ。欠席の碧を除いて残り十九名、探すこと自体にはそこまで手間取らないだろうが面倒な事にかわりはない。
「じゃ、中庭から行くから」
「おー!」
「りょーかい」
見つけた後の自己紹介は後で勝手にやってくれればいい。コントは……まぁ、見る必要がないだろう。無視してこちらから名前を教えて、それで終わりでいい。
「手早く終わらせよう」
理由は面倒だから。




