11.蜃気楼のよう
七月九日 十三時。天気は快晴。
花芽駅から電車で二十分、そこから歩いて十五分ほどの短い旅路を経て辿り着いたのは、本日の目的地である双木市の双木商店街。
額から頬へ伝う汗が地を濡らす。時々吹き抜ける風が髪を梳かして心地良い。やはり晴れた日に歩くのは嫌いじゃない。
腰に巻いたポーチにしまっていた小さな封筒を開く。中身は依頼の内容と引き継ぎ情報だ。双木商店街に構えるある店舗の写真が数枚と小動物の糞を写したものが一枚。そして成分分析表が一枚入っていた。
依頼の内容は概ね電車の中で確認済みなのだが、こちらの成分分析表だけは後回しにしていた。理由は文字が小さくて酔ってしまいそうだったから。
ざっと目を通してみたところ気になった箇所は脂肪酸、インドールといった一般的な悪臭成分に加えて、唯一、赤線の引かれたフェリニンの項目だった。
そしてもうひとつ。成分分析表の裏に「刺激が強かったカナ!?」の丸文字。これは間違いなく羽々斬先輩だろう。この独特すぎる文体はあの人しか使わない。激励と受け取っておくが、なんとも気の抜けるサプライズである。
次にその隣に描かれたネットのイラストに餅のサイン。ネットの意図は不明だが、サインからして餅染先輩の描いたものだろう。意味があるのだろうが、なにもわからない。変な人だ、字で書いてくれたら良かったのに。
依頼の内容は先月の半ばから双木商店街一帯で発生している小規模被害の調査だった。
被害の内容は様々。
盗難被害十八件、被害店舗は六店舗。
商品棚の転倒、店内での糞害含む店内トラブル二十五件、被害店舗は十三店舗。
小さな引っかき傷に噛み傷等の直接的被害二件、被害者は二名。
どれも大きな事件ではない。が、件数だけが妙に多かった。
「……」
最初に向かったのは一連の被害第一号である老舗のパン屋さんだった。
ここは商品のレパートリー自体は多くはないが、イチオシの塩バターロールが好評で、常連だけでなく新規の客足も絶えない、と兎から聞いた事がある。
アンティーク調の扉を開いて店の中へとお邪魔する。チリリン、と軽い音が鳴り、その音を聞いてか店の奥から店主であろうおばさんが顔を覗かせた。
おばさんは私の顔を見るやいなや、パッと明るい笑顔をみせて手を振ってくれた。事前に訪問の連絡を入れていた為か、手を空けておいてくれたらしい。
「百目鬼さんとこの子ね。待ってましたよ」
「被害の件で」
「ええ、ええ。もう困っちゃってねぇ」
おばさんは首を傾げながらため息を吐いた。
「直接見られたことはありますか?」
「それがねぇ、見てないのよ」
「見てない?」
「気付いたらなくなってるの」
妙ではある。
店内はそう広くはない。見たところ従業員は四人ほど。学生バイトらしき若者がレジに張り付いており、扉にはベルが付いている。不届き者の入退店を見逃す事はまずないだろう。盗難に気が付いてから前後の記憶を辿れば、全体像までは難しいとしても何かしらの特徴くらいは掴める筈だ。監視カメラだってあるわけだから、映像を確認していないなんて事はまずないだろう。その上で"見てない"のだとしたら、不自然ではある。
「猫とか犬、のような野良の子でしょうか」
仮にそうであれば衛生面の問題も出てきてしまうが、今は置いておく。これはあくまで私の憶測。
おばさんは豪快に笑って、世間話のトーンで話を続けた。
「たぶんねぇ」
「たぶん」
「おそらくねぇ」
「おそらく」
曖昧だった。
***
二件目。
魚屋。
「見てねんだな、それが」
三件目。
八百屋。
「気付いたらなくなってたな、ウチの野菜は美味ェからな」
四件目。
駄菓子屋。
「なにか声が聞こえた気がするのよ」
五件目。
蒲鉾屋。
「目ぇ離したらもう板だけよ」
六件目。
「あれは雨の日だっただな。
足跡があったような気がすっけど覚えてねだ」
七件目。
「臭ぇなぁと思ったら糞が落ちててねぇ。
ビビったねマジで。
店の外ならともかくさぁ、中は無ぇよマジ。
いやぁ見てねえ、つか覚えてねぇ。マジでマジで」
***
おかしい。
どの店も被害内容は覚えているのだが、犯人に関する情報だけが曖昧だった。
「……」
ぐるりと一周して商店街の中央広場へ戻ってきてしまった。
ベンチへ腰掛けて資料を見返す。陽射しに熱されてか、お尻が少し熱い。
被害場所。時間。証言。写真。
そしてこの成分分析表。
正直な話、既に犯人は絞れている。
フェリニン。小型の猫科動物特有の尿中成分。排泄時に付着したか、糞の後に済ませたか。
羽々斬先輩のラクガキはおそらくヒント。
七件目の「臭かった」証言はその証左。
猫だ。それだけ。
ただそれ以外が異様にぼやけている。
「……そこに居たはずなのに」
モノも残されている。猫で確定でいい。
″見えている″のに誰も見ていない。
いや、見えていないのか?そんな印象を受ける。
そして意図の読めなかったネットのラクガキ。
おあつらえ向きに支給されたデバイス『三番』。
察するにこの任務は。
「……捕獲、かな」
ふと呟いたその時だった。
視界の端で何かが動いた。
「……」
反射的に顔を向ける。
細い路地の奥に一匹の猫がいた。
白地に黒の斑模様。
細身。首輪なし。
揺れる尾の先にきらりと光る銀のタグ。
特徴は覚えた、間違いなく。なのに。
視界から外れたその瞬間、
どんな姿だったのか、その模様すらも思い出せなくなりそうな違和感があった。
「……ああ」
たぶん、あの子。
***
花芽ラのそれより一回りほど大きく弧を描くロータリーの一角、八巾通りの脇の細い路地。
既に朧気な模様の猫の背を追う。
なるべく視界から外れないよう、視点をブラさず、中心に据えて。
散らばるゴミに足をとられぬよう、一歩ずつ着地点を選んで走る。瓦礫を避けるべく一瞬だけ視線を落とす。時間にしてコンマ数秒、⬛︎の姿が視界から外れる。コンマ数秒、それだけで、
「……あれ」
足が止まりそうになる。
どこへ行った。
そう思ってから猫が前を走っていたことに気付く。
いる、前に。ずっと、間違いなく。
かわらず私の前を走っている。
「……っ」
息が切れ始める。気持ちが急く。
早めに終わらせなければ。見失う前に。
腰で揺れるデバイス『三番』に手を伸ばし、付属のカラビナを外す。円盤状のユニット部分を握り、本体脇の円筒部を猫に向けて構えて撃つ。
バスン、と籠った低音が響き、捕獲用の非殺傷ワイヤーが二本、空を切る。猫は依然前方を駆けている。
外れた。当たり前だ、走りながらでは。
路地を抜けて、少しだけ開けた場所に出る。
人通りのないシャッター街。
割れたガラス窓、頭より高い草の生い茂る空き地、屋根まで蔦に覆われたトタン屋根の古民家。
おそらく、いや確実に人はいない。幸いにも。
ワイヤの残数は一、残りはマーキング弾が五発。
猫が道の脇で立ち止まる。錆びたシャッターを背に、私の方を向く。
意図せずして対面する形になる。間を挟む距離は目測四メートル。この距離であれば、イレギュラーが起きない限りはワイヤを外す事はない。
改めて、猫に向けてデバイス『三番』を構える。
「……ごめんね」
少しだけ痛いかもしれないから。
トリガーに指を掛けたその時。
猫が半歩、こちらに踏み込む。ゆっくりと余裕を持って。逃げるでもなく、こちらを視て。
半歩、ただそれだけの行動。
それだけだというのに。
視界に映る猫の輪郭が薄れる。意識が滑る。
一瞬、わからなくなる。抜け落ちたように。
…………私は今、何を。
「……っ!」
反射的に照準が揺れる。指はトリガーにかけたまま。まずい、これでは
バスっ──バツン
最後のワイヤーが空を切り、シャッターに激突する。目的を失ったワイヤーが力なく垂れ下がり、地に落ちる。
「困ったな」
残りはマーキング弾五発、これでは捕獲は難しい。素手で捕らえられる筈もない。
それにこの弾は……ちょっと痛い。
思考を巡らせる、視線は猫から外さない。
これ以上意識を逸らされる訳にはいかないから。
猫はその場に佇み続けている。同じく、こちらを視たままに。
(………仕方ないか)
デバイスのケーブルを引いてモードが切り替わる。
今の優先順位は、
「ごめん、痛いよ」
マーキング。
二度目の謝罪。
デバイス『三番』を構え、狙いを定める。腹部から後ろ足の付け根の辺り、脂肪の多い箇所。且つ、視認性の良い部位を。これは三度目の正直。
トリガーを引く。
ばつっ
青い着色弾が飛ぶ。
猫が反応するより早く後ろ足の付け根に命中する。
「ニギャッ」
猫が声を上げて跳ね上がる。一瞬だけ、こちらを見る。その次の瞬間には、物陰へと駆け出していた。
追おうとした足が止まる。もう、見失っていた。
猫の居た場所には青い塗料だけが残されている。血の色は……混じっていない。よかった、で良いだろう。ひとまずは。
羽々斬先輩謹製の認識着色弾。
物理的な着色の他、″認識情報″に着色する。
詳しい理屈は知らない。ただ、当てられた対象は他者の目に付きやすくなる、見つけやすくなる、らしい。
少なくともあの猫はもう誰の記憶からも零れ落ちることはない。これで被害も減るだろう。
デバイス『三番』のカラビナを腰に掛けてポケットからスマホを取り出す。
ホーム画面には通知が十二件、どれも兎と碧、廻琉の写真だった。どうやらカフェに行っているらしい。涼しげな店内に、なんとも美味しそうなスイーツを頬張る三人の姿が何枚も送られてきている。…………今はとりあえず、報告を。
「……失敗、か」
後ろ足の青く染まった猫の姿を思い出しながら、電話帳から所長の番号を探す。
『昏』休み前の締め括りだったというのに情けない。第一声は本日三度目の謝罪になりそうだった。




