10.過ぎし日へ
────がちゃん。
「……どうだった。彼女は」
閉扉、乾いた音。
二人分の足音が遠くなった頃、両目のコンタクト……正確にはn番『エディタ』を外す千景さんに向けて、所長が言葉を掛ける。
「至って普通スね。見ての通りって感じです」
千景さんの手元には琥珀色に光を放つコンタクトレンズ、デバイスn番『エディタ』が握られていた。
視界内、任意の対象の感情シグナルを察知。全身の筋肉の動きや発汗、呼吸音を始めとしたあらゆるバイタルサインから推察される心理状態を、オブジェクトとしてAR表示する事で視認可能とするウェアラブルデバイス。
情報収集・推察は強制的に実行、装着者の意識に直接書き込まれる為に激しい負荷を伴う。使用には適性の他、特殊な訓練が必要との事。私にはまだ使えない。
二人の話題の芯は恐らく陽戸 廻琉。
普通ですか。アレが?
特異な能力を持ちながら未申告のアレが。
……それでも今のところは異論無い。見る限り、言葉を交わした限りは至って普通の女子高生。劇物を隠し持っている事以外はだが。
今日の様子、千景さんが『エディタ』で観ていた以上はもっと違う言葉、私と同じ意見を期待していた。
「僕は観ていない。砂溟君に至っては今の今まで君が観ていた事を知りもしなかった。もっと具体的な報告を心掛けたまえ」
「″見″ての通りっつったでしょ。伝わんねーかなぁ。
ずっと凪乃ちゃん凪乃ちゃん、桃色矢印全集中スよ」
桃色矢印、好意のサインだろう。
アレが。夜明さんに?
追加。……異常な執着。
「あぁ、それと」
千景さんが勢いよく事務椅子に腰を下ろし、がしん、と高い音が鳴る。部屋の奥から珈琲を淹れに行った所長の小言が聞こえたのか千景さんが軽口を一つ返す。
「左ちゃんのお祭り紹介コーナーの時。めちゃくちゃ花が舞ってましたよ。お菓子だったり魚だったり月だったり?勿論凪乃ちゃんに向けてですけど」
小さく「余程楽しみなんでしょうね」、と一言零す。付け加えるように。
湯気の立つカップを片手に、所長が戻る。よく見るともう片方の手には腕輪が握られていた。初めて見るモノだった。千景さんの新作か?
「危険性は低い、と」
「現時点では。そうスね」
所長は千景さんとの話を続けながら、腕輪をそっと私に向けて差し出した。
「結構、陽戸君の件は〆とする。今日のところはな」
話を終えた所長の視線がこちらに向けられる。丸いレンズの奥、暗い瞳。見透かされているような、鋭い光を含んだ切れ長の眼。
「それで、」
落ち着いた口調。怒りの音は含まれていない。
「砂溟君、『昏』の間はコレを付けておくように」
無地、無装飾、三重に螺旋を描いた銀の腕輪。軽い、素材は…なんだろう。
「すみません、こちらは──、」
「羽々斬の新作だ。
銘は未定だが、今は『失効』と呼称する」
間を置かず返った言葉に一瞬だけ思考が停止する。
……失効?なにを、
「匣の開錠権限だ。本来の用途では無いがこうでもしない限り休もうとしないだろう、キミは」
困惑が表情に出てしまっていたのだろうか。抱いた疑問が先回りされているかのように消化されていく。
「鹿々桜一部地域における生態系の構造と動態及びその評価に関する研究、拝読した。見事だったよ。特に渡蟻のルーツ。面白い着眼点だった」
論文、私の。先日提出したもの。
話の繋がりが、意図が読めない。
「キミは優秀だ」
所長が手にしたカップを口元に運び、湯気でレンズが曇る。見透かされるような瞳が覆われて、一瞬安堵する。
「が、だ」
カップが机に置かれ、所長が一つ息をつく。
「若く、優秀な者ほど、
取り返しのつかないモノを後回しにする」
取り返しのつかないもの。
言葉にはできない疑問がいくつか浮かぶ。
「せっかくの無害な異常なんだ。
今を楽しみたまえ。また、それ以上にこれからを」
これからを、ですか。
自分でもはっきりとしない言葉達が頭の中で浮かんでは弾けていく。心が膿んでいくようで、言葉が、抱いた感情が澱のように沈んでいく。
数秒、沈黙が落ちる。言葉は浮かばないままだった。
────オニーチャン オニーチャン オニーチャン オニーチャン♪
「……?」
場違いな少女の音声が静まり返った部屋に響く。肉声ではない、電子音、一定のリズム。着信音か?
「ああ、すまない。僕のだ」
所長が白衣のポケットからスマホを取り出して、音が鎮まる。
「すまないが用事が入っていてね。僕はここで失礼するが、砂溟君。昏の間だけでもいい。存分に遊びたまえ。きみ達には期待しているのだから」
所長はそう言い残し、未だ湯気立つ珈琲をぐっと飲み干し、足速に部屋を後にした。事務室には机に足を乗せ、ホットアイマスクを付けている千景さんと私が残された。行儀もなにもあったものではない様子の千景さんに向けて素朴な疑問を一つ投げる。
「今のは何だったんでしょうか」
「くくっ。ああ、あれっスよ。祭歌ちゃん。妹ちゃんの小さい頃の音声録音。着信音に……ぷふっ、してるんスよね………あの人。だっはははははははは」
千景さんがアイマスクをズラし、手を叩きながら下品な笑い声を上げる。
「……ありがとうございます」
なんだそれは、とは言わない。
妹さんと話している姿は何度か見た事があるが、その様子を思い出して納得できたからだった。
体勢を崩し、文字通り椅子から笑い転げている千景さんから視線を外して時計を見る。
時刻は十八時。空は既に暗がりが見え始めていた。『昏』を控えた今、夏にも関わらず日は短い。
「私もこれで失礼します。
千景さん、今日はありがとうございました」
「はー腹いてー。あぁ、もう暗いですから入り口まで送りましょう。左ちゃん、足元気を付けてくださいね」
「ありがとうございます」
一通り笑い終えた千景さんが立ち上がり、ドアを開ける。背を追って、三歩後ろを続いた。
昼間通った渡り廊下。吹き抜ける風が涼しい。暗がりで見る庭園はまた違う味わいがあった。この景色を、夜明さんにも見てほしかった。
渡り廊下を抜けた時、千景さんが口を開く。
「『失効』なんスけど、『昏』が終わる頃には外せるようになるんで。安心してくださいね」
『失効』。不可思議な形状の腕輪。私の枷。
「わかりました」
数分して、出口へ辿り着く。
千景さんに促されて『失効』と呼ばれた物を左の手首に通す。一瞬だけ掌に熱が灯る気がしたが、瞬きもしないうちにその感覚は消えていた。一時的とはいえ、これで私の匣の開錠権限は失われた。
権限を対価に得た暇。埋めていたスケジュール帳を思い出して一瞬、不安が過ぎる。……私は、これから何をすれば、
「休暇は心置き無く楽しむものですよ」
千景さんの言葉で、ふと我に返る。
「今日はまずまっすぐ帰って寝ること。ご飯も食べてお祭りに備える。学校の課題はきちんと済ませること、いいですね?」
「……わかりました」
一礼して支部を後にする。
「ありがとうございます」。「わかりました」。
今日だけで何度口にしたのだろうか。
やるべき事を見失って、狼狽えて。
一言しか返せない。なんて情けないのだろう。
誰そ彼時の街並をとぼとぼと歩く。
頭上には星々が瞬いている。遠い光。
届いているのは、過去の輝き。
「楽しむ。……今を、これからを」
所長の言葉を復唱してみる。小さい声で。
今、これから?
楽しむ?………私が?
「……どうやって」
私は、ずっと過去に囚われている。
私の家族には、今もこれからも無い。瞬きさえも。
私の家族は、ずっと過去にある。過去の光だ。
忘れもしない十一年前の七月二十六日。
そして真実を知ったあの日。
私の世界が、夜に堕ちた日。




