Ep.37 エメラルド・キャノピー ― 確かな証
その静けさは、ほんの数秒しか続かなかった。
二人の前、胸の高さより少し低いあたりに、ふっと光が生まれる。
エーテルの前にひとつ。マッチーの前にもひとつ。
どちらも掌を広げたくらいの大きさで、丸く浮かんでいる。色は翠緑。森の色よりも澄んでいて、淡いのに、輪郭だけは不思議なくらいはっきりしていた。
「……なんだろ、これ?」
「なんだろね~。ドロップアイテムじゃないよね~?」
マッチーも目を細める。落ちてきたわけでも、地面に転がったわけでもない。ただ二人の前に、浮いている。
エーテルは手を伸ばす前に、ほんの一瞬だけ周囲を見た。何かの罠にしては、気配が静かすぎる。ナナミの声もない。なら、触ってみれば何かわかるかもしれない。
「触ってみようか」
「うん。何が出るかな~」
二人はそれぞれ、自分の前に浮いた翠緑の光体へ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、光が強くなる。
眩しいとまではいかない。だが、森の緑を押しのけるくらいには濃い。翠緑の色だけが二秒ほど脈を打つように膨らみ、そのあと急に落ち着いた。
光が収まる。
残ったのは、宝玉だった。
直径五センチほど。表面は滑らかで、内側に同じ翠緑の光が静かに沈んでいる。さっきまでの光体が、そのまま凝縮されたような形だった。
「へぇ……」
マッチーが声を漏らした、その次の瞬間には、宝玉が二人それぞれの胸へ吸い込まれた。
熱も衝撃もない。ただ、するりと胸の中に納まった感覚だけが残る。
直後、視界中央へ文字が現れた。
――《翠樹勲章》を獲得しました。
――《同一領域のモンスターの活性化を確認》
エーテルは表示を見たまま、わずかに眉を上げる。
「翠樹勲章? マッチーもしかしてさ」
「うん。あいつってエリアボスだったのかもね~」
マッチーも同じ表示を見ているらしい。声が少し弾んでいた。
表示はすぐには消えなかった。普通の取得通知より長く残り、それから淡く薄れていく。
文が消えたあと、森の音が戻る。
けれど、音の戻り方がさっきまでと違った。
近くの葉が風もないのに細かく擦れる。少し離れた奥で、何かが枝を踏んだ。ひとつではない。間を空けて、また別の音がする。さらにその先でも、乾いた樹皮が鳴った。
エーテルは視線だけを動かした。見える範囲にモンスターの姿はない。だが、さっきまでの静けさとは密度が違う。森全体に、薄くざわついたものが広がっていた。
マッチーも周囲を見ていたが、そこで斧を下ろしきらずに止めた。
「……そろそろいいかな~?」
「うん」
エーテルは返事だけして、別の方向へ意識を向ける。
戦闘の途中で見えた。眷属の向こう、茂みの奥。弓を構えた男と、それを引っ張って隠れようとしていたもう一人。見間違えるには近すぎたし、間の悪さも覚えている。
まだいるなら、今だ。
エーテルは少しだけ体の向きをずらし、斜め奥の茂みへ声を投げた。
「さて、そちらのお二人さんはまだいらっしゃいますか?」
葉の揺れが、ぴたりと止まる。
その横で、マッチーは何も言わずに斧を構えた。肩へ預けていた重みを両手へ戻し、半歩だけ前へ出る。いつでも振り下ろせる位置だ。さっきまでの勝利の余韻は、もう表情から抜けていた。
数秒の沈黙。
それから、茂みの奥で枝が押し分けられる。
先に出てきたのは、弓を持った男だった。両手を上げるために、弓は指に引っかけたままぶら下がっている。後ろから、もう一人の男も同じように両手を上げて出てきた。どちらも腰が引けている。目だけは二人の武器から外せていなかった。
「出てきたね~」
マッチーの声は軽い。だが、斧は下がらない。
エーテルはそのまま視線を動かさずに言う。
「前に話したPK、この二人だね」
返事をする代わりに、マッチーの口が開いた。
「火よ、集まれ――」
「待っ、待ってくれ!」
弓の男がほとんど悲鳴みたいな声を上げた。もう一人も慌てて言葉を継ぐ。
「この前は! この前はそこの刀女に敗けたんだ! そんな俺らがなんでとか、分かってる!」
「あいつを二人で倒すようなやつらに、俺たち、喧嘩売るつもりないから! 本当に!」
「まだここいたのだって、あわよくばあれを誰かが削ったあと横取りできねぇかなって思ってただけで――」
勢いだけで喋っているせいで、言葉が何度も絡まる。必死さが露骨すぎて、マッチーの詠唱が途中で止まった。
斧の切っ先はまだ下がっていない。だが、さっきほどの熱はもう残っていない。
「……しょぼい理由だね~。もういいや」
そう言ってから、マッチーはふっと息を抜いた。興を削がれた、という顔のまま、ようやく斧を少しだけ下ろす。
だが、マッチーの視線はPK二人ではなく、そのさらに後ろへ向いていた。
「ねえねえ、あいつらの後ろみて~」
言われて、エーテルもそちらを見る。
樹々の間から、四つの人影が歩いてきていた。
先頭はヒサメ。その少し後ろにガイ。さらにスズネとコウジュ。四人とも武器は手にしているが、走ってきたわけではない。
PK二人もそれに気づいたらしく、揃って肩を跳ねさせた。
ヒサメが先に口を開く。
「お疲れさまです。まさかとは言いませんが、出会うとは思っていませんでしたよ」
「そっちもお疲れ様です」
エーテルが短く返す。
四人はそのままこちらへ歩み寄ってくる。
そこでガイがPK二人を見て、眉をひそめた。
「で、誰だこいつらは? 二人のパーティって訳じゃなさそうだが」
ガイの問いに、エーテルは素直に答えた。
「前に私をPKしようとしてきた二人ですね。返り討ちにしましたけど」
その一言で十分だったらしい。
PK二人は顔を見合わせる暇もなく踵を返した。枝を弾き、蔦を踏み、転びそうな勢いのまま一目散に走っていく。誰も追わない。背中はすぐ木々の奥へ消えた。
ヒサメが、その逃げた先を見たまま問う。
「逃がしていいのですか?」
「別に問題はないですね。何戦戦っても、負けるつもりないですし」
エーテルが答え、マッチーもそれに倣い肩をすくめた。
「うん。今はいいかな~。余韻をちょっと邪魔されたけどね」
「なら、こちらも問題ないということにしましょうか」
ヒサメがそう返し、ガイたちも特に異論は挟まなかった。
その次の瞬間。
さっきまで斧を構えていたマッチーが、くるりと四人のほうへ向き直る。そのまま数歩で距離を詰めた。
「装備、すごく良かった~!」
いきなり声が近い。
ヒサメが一歩も引かないまま瞬きをする。スズネとコウジュも目を丸くし、ガイだけが半歩遅れて状況を飲み込んだ顔をした。
「これのおかげでね、危ない場面もちゃんと抜けられたし、前より全然押せたし、あと斧が――」
「マッチー、落ち着いて」
横から入ったエーテルの声で、ようやくマッチーが息を止める。
「あ」
それでも口元は緩んだままだった。
エーテルは小さく苦笑してから、四人へ向き直る。
「ありがとうございました。無事倒しました」
言葉にした瞬間、四人の表情が揃って止まる。
マッチーもすぐに続いた。
「本当に良かったよ~。ありがとう!」
ヒサメたちは、その礼そのものより、そこに混ざった「倒しました」のほうを受け止めきれていない顔だった。最初に戻ったのはガイで、次にヒサメ。スズネが口を開きかけて閉じ、最後にコウジュがゆっくり息を吐く。
「……確認しても良いですか?」
ヒサメが言った。
「何を手に入れたんですか?」
エーテルとマッチーは、ほとんど同時に答えた。
「翠樹勲章」「翠樹勲章だよ~」
今度こそ、四人とも完全に言葉を失った。
愕然、というのが一番近い。目の前にいる二人と、自分たちが想定していた相手の強さが、そこでようやくきちんと繋がった顔だった。
しばらくしてから、ガイが低く息を吐く。
「……ほんとにやったのか?」
「やったよ~?」
マッチーはそこだけはあっさり返したが、すぐに首を傾げた。
「でも、同一領域のモンスターの活性化って何だろ~?」
視界中央へ出た文言をそのまま口にする。
エーテルは一度だけ周囲の木々を見て、すぐにマッチーへ視線を戻した。
「また楽しみが増えただけだよ。たぶんね」
その言い方に、マッチーは一拍置いてから笑う。
「それもそうか~」
納得したのか、そこで深く追わない。ヒサメが二人を見比べてから、静かに確認した。
「でしたら、こちらから情報を言う必要はないですね?」
エーテルとマッチーは顔を見合わせた。次には、ほとんど同時に笑っている。
「問題ないですね」
「大丈夫だよ~」
答えを聞いたヒサメも、そこでそれ以上は言わなかった。
森の奥からまた小さく物音がした。さっきより近い。だが、もう今日はいいとマッチーが先に言った。
「今日はもう満足したし、帰ろっか~」
「うん、私も満足してる。帰ろうか」
エーテルが頷くと、ガイが前方の木立を示した。
「なら帰りは俺たちが露払いをする。楽しみを取っておくんだろ?」
その言い方に、マッチーがすぐ笑う。
「分かってるね~」
「助かります」
エーテルも短く返した。
一同はそのまま、木衡門のほうへ向かって歩き出した。
先を行くのはヒサメたち四人。現れたツタバインを止まりもせずに切り、横から回ろうとしたリーフウルフを短く処理し、少し離れた場所で棘を向けたトゲタワーも淡々と潰していく。戦い方そのものを見せつけるような派手さはない。ただ、迷いなく前を開けていく。
エーテルとマッチーは、その後ろを並んで歩いた。
焦げた匂いも、湿った葉の匂いも、まだ装備の表面に残っている。肩は重いし、腕にも脚にも戦闘の名残がある。それでも足取りは軽かった。
前でまた一体、コケガードが崩れる。
その音を聞きながら、マッチーがちらりと横を見た。
エーテルも同じタイミングで見返す。
どちらからともなく、笑った。
声は出さない。何を言うでもない。ただ、やった、という実感だけがそのまま通じる。
マッチーが手を上げる。
エーテルも合わせる。
乾いた音が一つ、森の中で短く鳴った。
二人はそのまま足を止めず、前を行く四人の背中を追った。




