Ep.27 蒼環都市 ― 朝の再調律
目が覚めたとき、孔雀はすぐには起き上がれなかった。
白い天井をぼんやり見上げたまま、何度か瞬きを繰り返す。部屋の明かりはもう朝の明るさに切り替わっていて、居住ユニットの中も静かに起きていた。けれど、孔雀の意識だけが少し遅れている。まぶたが重い。頭も身体も、ほんの少し鈍い。
「……あ、やっぱり」
枕に頬を半分埋めたまま、小さく呟く。
昨日はリリース日だった。始まる前から楽しみにしていたぶん、入ってからも熱が入って、気づけば日付が変わる寸前まで遊んでいた。さすがにやりすぎたかな、とは思う。けれど、楽しかったのだから仕方ないとも思う。そういう朝だった。
視界の端にある時刻表示へ目を向ける。いつもなら、もう少し余裕のある時間に起きている。完全な寝坊というほどではないけれど、今日はきっちり遅れていた。
「うーん……そりゃそうだよね」
少しだけ笑って、孔雀はようやく布団の中で寝返りを打つ。背中に残っている眠気がまだ抜けきらず、起きるぞという気持ちと、もう少しこのままでいたい気持ちが半分ずつ引っぱり合っていた。
でも、今日も今日で朝の流れがある。起きる時間がずれたからといって、そのあとまで崩してしまうと、たぶん一日中なんとなく鈍いままになる。
「……よし」
今度は少しだけちゃんとした声で言って、孔雀は上体を起こした。足を床へ下ろすと、ひやりとしすぎない感触が返ってくる。室温はいつも通り、ちょうどよく保たれていた。こういうところは蒼環都市らしくきっちりしていて、寝起きで頭が回らない時ほどありがたかった。
立ち上がって一歩動くだけでも、身体の重さがいつもと少し違う。痛いわけでも、動けないわけでもない。ただ、昨日長く集中していたぶん、その反動が薄く残っている。首筋と肩のあたりに、わずかなだるさが引っかかっていた。
「昨日、ほんとずっと入ってたもんね……」
自分で言って、自分で納得する。
洗面台の前に立って顔を洗う。冷たすぎない水が頬に触れると、少しずつ意識が浮き上がってきた。鏡に映った自分は、いかにも寝起きという顔をしている。目元に少し眠気が残っていて、髪もまだ整っていない。
「まだちょっとぼーっとしてるなあ」
そう言いながら軽く髪を整え、もう一度だけ顔を見る。ひどい顔というほどではない。でも、しゃきっとしているとも言いにくい。昨日の余韻がそのまま朝まで伸びてきている感じだった。
着替えを済ませて部屋を出ると、居住棟の通路は今日も静かだった。必要以上の音はなく、白く整った明るさだけがまっすぐ伸びている。人の気配がまったくないわけではないけれど、誰かが慌ただしく行き来しているわけでもない。蒼環都市の朝は、いつだってこうだ。
「ほんと、朝でも静かだよね」
誰に聞かせるでもなく呟きながら、孔雀は朝食の場所へ向かった。
八時の朝食は、もう習慣になっている時間だった。起きるのが少し遅れても、ここは崩したくない。ここから先のストレッチや運動まで考えると、食事の時間がずれるほうがあとでやりにくくなるからだ。
席について朝食を取り始めても、最初のうちはまだ頭の回転が半歩遅かった。手は普通に動いているのに、思考だけがふわっとしている。眠いというほどではなくて、起きてはいるけれど、まだ温まっていない感じだ。
「昨日の私、絶対テンション上がりすぎてたなあ」
小さく言いながら、スープに口をつける。温かさが入ると、身体の内側がようやく朝へ追いついてくる気がした。昨日は本当に、いろいろありすぎた。見たものも、考えたことも、感じたことも多かった。リリース日だから当然とも言えるけれど、そのぶん気持ちの使い方も大きかったのだと思う。
食事を進めていくうちに、起き抜けのぼんやりした重さも少しずつほどけていった。まだ完全にしゃっきりしているわけではない。それでも、朝の輪郭はちゃんと戻ってきている。
「うん、だいぶまし」
誰もいない方へ小さく頷いて、孔雀は朝食を終えた。
部屋へ戻ってからは、すぐに動き出さず、少しだけ身体を休ませる時間を取る。そこもいつもの流れだった。食べてすぐに動くより、一度落ち着けてからのほうが、そのあとのストレッチも入りやすい。
部屋の中は変わらず静かで、ベッド、小さなテーブル、壁面端末、最低限の収納。どこも乱れておらず、朝の明るさの中で淡々とそこにある。昨日は寝る前に部屋へ戻ってきたはずなのに、今こうして見ると、夜の余韻より朝の整った静けさのほうが先に立っていた。
ベッドへ腰掛け、少しだけ身体を休める。ぼんやりするのではなく、次に動くまでの間をつくる感じの時間だ。こうして一度間を挟むと、身体の動き方がかなり変わる。急に全部を切り替えるより、順番に朝へ戻していくほうが自分には合っている。孔雀はそれをもうよく知っていた。
九時が近づくころには、さっきまでの寝ぼけ眼もかなり薄くなっていた。まだ完全に冴えているとは言いにくいけれど、運動へ入る準備はできている。孔雀は床にスペースを取り、いつものようにストレッチを始めた。
最初は首と肩からだった。首筋をゆっくり回して、肩を開き、腕を伸ばす。勢いはつけず、呼吸を止めず、少しずつ動かしていく。昨日の疲れがどこに残っているか、探るような動きだった。
「あ、やっぱりちょっと固い」
肩のあたりに引っかかる感じがあって、孔雀は苦笑する。昨日遅くまでゲームに入っていた影響は、こういうところに素直に出る。背中、腰、脚へと順番にほぐしていくと、身体がどのくらいまで戻っているかがよく分かった。
でも、動けない感じではない。少し重い、少し鈍い、そのくらいだ。むしろ、ちゃんと動かしてやれば戻るのが分かるぶん、気持ちは楽だった。
「大丈夫大丈夫、動けば戻るよね」
自分に言い聞かせるように笑って、さらに脚を伸ばす。
呼吸を整えながらストレッチを続けていると、身体の芯が少しずつ温まっていく。起きた直後はぼんやりしていた感覚も、ひとつずつほどけていった。首筋の鈍さも、腰の重さも、伸ばしていくうちに薄れていく。
ストレッチを終えるころには、朝のだるさはかなり引いていた。まだ完全に軽いとは言えないけれど、少なくとも起きられていない感じはもうない。孔雀は一度大きく息を吐いてから立ち上がった。
「うん、これならいける」
部屋を出て、居住区に併設されているスポーツジムへ向かう。現実側の身体をちゃんと使う時間は、孔雀にとって大事なものだった。蒼環都市の生活は、何もしなければ本当に何もしないまま一日が成立してしまう。だからこそ、自分から動く時間を選ぶ必要がある。
ジムの空気は、居住棟の通路より少しだけ引き締まっていた。広さも設備も十分に整っているけれど、騒がしさはない。それぞれが自分のペースで身体を動かしている、静かな運動の場だった。
孔雀も、最初から無理はしない。昨日の疲れが少し残っている朝に、いきなり強い負荷をかける気にはならなかった。だから今日は、いつも以上に感覚を見ながら丁寧に入る。
呼吸を整え、身体を温め、そこから段階的に運動量を上げていく。身体が本調子へ戻っていく感覚は、やはり分かりやすかった。朝の時点では少し眠気が残っていたのに、動いているうちにそれはすっかり消えていた。
「うん、もう平気かも」
運動の合間に出た独り言が、思ったより素直な声だった。頭も身体も、もうちゃんと現実の方へ揃っている。起きて、食べて、休ませて、伸ばして、動く。そこまで来ると、ようやくその日の自分になる感じがする。
いくつかの運動を順にこなしていくうちに、昨日の余韻も別の形になっていった。朝はまだ、遅くまでやっていたなという重さのほうが強かったのに、身体が整ってくると、今度は純粋に昨日は濃かったなという感触だけが残る。
リリース日だったのだから当然だ。楽しくて、熱が入って、つい夢中になった。そういう一日だった。でも、現実側の朝まで崩してしまうのは違う。孔雀はそういう意味では、ゲームの感覚に現実の身体まで引っぱられたくなかった。
だからこうして、ちゃんと食べて、休んで、伸ばして、動く。その流れをひとつずつ進めていくだけで、気持ちも自然と落ち着いていく。ゲームの熱が悪いわけではない。ただ、その熱のまま一日を流しっぱなしにしないための朝だった。
十一時半、ちょうどいい区切りで運動を終える。身体にはほどよい疲労感があり、気分のほうはむしろはっきりしていた。朝起きたときの寝ぼけ眼が嘘みたいに、感覚が揃っている。
「よし、戻ろ」
軽く汗を拭ってからジムを出る。
居住棟へ戻る道は、朝より少しだけ光の感じが違っていた。昼前の落ち着いた明るさが通路に満ちていて、静けさはそのままなのに、時間だけがちゃんと進んでいるのが分かる。
部屋へ戻ると、やはり最初に感じるのは変わらない静けさだった。ベッドも、テーブルも、端末も、朝に見たときと同じ場所にある。でも、自分の感覚のほうはもうまるで違っている。起きたばかりの鈍さは、もうどこにもなかった。
「これでようやく今日って感じ」
部屋の中へ向かって笑いながら言って、孔雀は軽く身体を落ち着ける。運動のあと、昼食までの少しの時間は、そのまま何もしないわけではなく、でも次へ急ぐわけでもない、小さな余白だった。
汗を軽く流し、時計が十二時を少し過ぎるころには、空腹もちゃんと戻ってきた。昼食は朝食のときよりずっとはっきりした頭で取れたし、気分もかなり軽い。起きる時間はずれた。朝は少し鈍かった。でも、そこから流れを崩さずにいつもの形へ戻せたのは大きかった。
「まあ、リリース日の翌朝ならこんなものかな」
小さくそう言って、孔雀は少し笑う。
昨日はたしかに熱が入っていた。けれど、そうなるだけの初日でもあった。でも少なくとも、現実側の朝はちゃんといつもの形へ戻せた。
それだけで十分、気分は整う。
昼の静かな明るさの中で、孔雀は食事を進めながら、昨日から続いていた熱の輪郭が、ようやく現実の一日の中へ収まっていくのを感じていた。
昼食を食べ終えた孔雀は、食器を片づけてから壁面端末へ目をやった。時刻は十三時十分を回っている。朝の鈍さはもうない。運動も終えて、身体の感覚もいつもの位置へ戻っていた。
「そろそろ入ろっかな」
小さくそう言って、孔雀はベッドへ向かった。昨日の熱はまだ残っている。でも、引きずられている感じではない。現実側の流れを一通り済ませて、そのうえでまた向こうへ入る。その順番にできたのが、今日は少し気分よかった。
ベッドに横になり、フレームへ身を預ける。視界の端が静かに狭まり、淡い光が重なった。




