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剋生の孔雀  作者: 氷炎
新しい世界 定めた目標

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Ep.26 蒼環都市 ― 残響の夜更け


 

 意識が、短い空白へ沈む。


 次に戻ってきたのは、現実の身体の重さだった。


 瞼の裏の暗さが薄れ、孔雀はゆっくり目を開いた。天井の照明がやわらかな白い光を落としている。視界の端で、フルダイブ装置のフレームが静かに持ち上がった。


 接続解除を知らせる電子音が短く一度だけ鳴り、頭部を覆っていた装置が元の位置へ戻っていく。


 背中にあるのは、生活ユニットのベッドの感触だった。さっきまで横になっていた宿の寝具とは違う、現実の布とマットレスの重み。孔雀は一度ゆっくり瞬きをして、小さく息を吐いた。


 部屋は静かだった。


 居住棟047の生活ユニット。広くはないが、狭苦しさを感じるほどでもない。ベッド、小さなテーブル、壁面に埋め込まれた端末、最低限の収納。目に入るものはそれくらいで、余計な装飾も散らかった気配もない。整えられた、いつもの空間だ。


 体を起こす。首筋と肩に、フルダイブ直後らしいわずかな鈍さが残っていた。重いというほどではない。ただ、長く別の感覚へ浸っていた身体が、現実へ馴染み直すまでの短い遅れみたいなものだった。孔雀は肩を軽く回し、ベッド脇のフルダイブユニットへ視線を向ける。


 薄いフレームの機材は、今は何事もなかったように静かだった。ついさっきまで、あれ一つで別の世界へ入っていた。向こうで長く過ごしていたはずなのに、戻ってきた今ここにあるのは、変わらない部屋だけだ。その差が、意識をわずかに揺らす。


 孔雀はベッドを降り、窓の方へ歩いた。床を踏む足裏の感触は現実のもので、一定で、平らで、段差も乱れもない。


 窓の外には、蒼環都市の夜景が広がっていた。海上都市の巨大な構造体が規則正しく遠くまで連なり、通路の照明が一定の間隔で並んでいる。その光が海面へ細く反射し、静かに揺れていた。暗い海と人工光の境目まで、整然としている。


 人影は多くない。見えたとしても、遠い通路をまばらに横切る程度だ。深い時間帯に近いこともあって、都市全体がゆっくり休息へ沈んでいくような静けさがある。騒がしさはなく、急ぐものもない。ただ整った夜が広がっていた。


 窓辺に立ったまま、孔雀は端末で時刻だけを軽く確認する。もう深夜に近い。ログイン前に食事は済ませてある。このあと何かをする必要もない。こういう時間になると、居住棟の空気はさらに静かになる。都市全体が、何の抵抗もなく夜へ入っていく時間だった。


 窓の外を見ながら、孔雀は小さく息を吐く。


 今日のことを思い返そうとすると、強く残っているのは最後に見た景色ではなかった。先に浮かぶのは、敗北したときのことだ。


 相手が強かった。それは間違っていない。けれど今意識に残っているのは、相手の強さそのものより、そこへ向かっていた自分たちの認識の方だった。


 どこかで、この二人なら何とかなると思っていた。


 追い込まれてから切り返す形でも、どうにかなるかもしれないと軽く見ていた。


 けれど、そんなものは通らなかった。


 逆境になってから一発逆転を狙うくらいなら、最初からちゃんと戦えばいい。


 敗北のあとに口にしたあの言葉が、今はそのまま残っている。分かっているつもりで、実際には自分も同じことをしていた。そういう失敗だった。


 勝って兜の緒を締めよ、ではなく、負けたときにも同じことが言える。まだ駆け出しで、まだ弱い。だからこそ、おごらず、一つ一つを大切にしなければいけない。相手も、自分の切れる手札も、その場の流れも、軽く見ていいものではなかった。


 敗北した直後、二人で交わした会話は思ったよりはっきり残っている。軽い調子のまま話していても、中身は重かった。この世界では、まだ温存していていい段階じゃない。そう認識を切り替えたことの方が、今は何より芯にある。


 楽しかった初日だった。いろいろ見て回り、最後まで動けた。戦う流れも少しずつ掴めた。けれど、一日の芯に残っているのは、やはりあの敗北だった。


 負けたことより、負け方の方が残る。


 見誤っていたこと。


 軽く見ていたこと。


 まだ力を出し切る段階ではないと思っていたこと。


 そこが崩れたからこそ、今日という一日が少しだけはっきりした気もする。ただ遊んで終わるより、よほど強く残る初日だった。


 窓の外の蒼環都市は、相変わらず静かだった。危険も、敵の気配も、判断の遅れを突かれるような瞬間もない。ただ整えられた夜が、いつも通りそこにあるだけだ。


 けれど、だからこそ余計に、あちら側で知った緊張が際立つのかもしれないと孔雀は思った。気を抜けば崩れる。見誤ればそのまま負ける。そういうものが、今日の中で一度はっきり形になった。


 安全で、安定していて、揺らぎの少ないこの都市の中にはない種類の感覚だった。


 孔雀は窓から離れ、再びベッドへ戻った。腰を下ろし、そのまま静かに横になる。天井の照明が変わらない明るさで視界へ入った。室内には風も、足音も、敵の気配もない。ただ穏やかな空気だけがある。


 それが、この都市では普通だった。


 孔雀は目を閉じる。


 まぶたの裏に残るのは、ひとつの景色ではなく、今日崩れた認識の方だった。強い後悔というほど鋭くはない。だが、薄く流れて消えるほど軽くもない。


 次は、ちゃんと戦う。


 そう思う。相手を見る。自分たちの切れる手札も見る。追い込まれてからどうするかではなく、最初からどう向き合うかを考える。今日の敗北は、そのためのものとして残っていた。


 呼吸だけがゆっくり整っていく。外の蒼環都市は変わらず穏やかで、整然と光り、何も乱さず夜を保っていた。その安定の中で、孔雀の意識に残っていたわずかな緊張も、次第に静かな眠気へ変わっていく。


 蒼環都市の夜は、どこまでも穏やかだった。



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