Ep.25 土城領の宿 ― 初日の余韻
採取ポイントを離れたあとも、二人は何度かモンスターを倒しながら進んだ。
何戦か重ねたところで、エーテルは視界の端へ目をやる。表示されている時刻は二十三時三十分だった。
「そろそろ時間だね」
「うん。一時間半くらいは戦ったかな~」
「それくらいだね」
まだ岩棚は遠くまで続いている。遠くでまた、小石が転がった。
マッチーもそちらを見る。
「まだいるね~」
「うん。でも、今日はここまでにしよっか」
「了解~」
二人は来た方へ向き直った。
戻る途中でも、モンスターは普通に出た。砂が弾けてスナモグラが飛び出す。段差の陰からイシガメが寄る。少し開けた場所ではイワウシが走り、通り道にはツチゴレムが立つ。
けれど、行きより足は止まらない。止まる場所も、下がる幅も、崩す順も、もう迷わなかった。必要な分だけ捌いて、そのたびにまた歩き出す。
「当たり前だけど、帰りでも普通に襲ってくるね~」
「モンスターにこっちの都合は関係ないからね」
何度か戦っているうちに、敵の間隔も少しずつ開き始めた。
足元の岩が乾いた音を返す。戦っている時は狭く感じた岩棚も、戻る向きになると少し広く見えた。振り返れば、灰色の段差がいくつも重なっている。
「結構歩いたね~」
「うん。思ったより奥まで行ってたね」
しばらく戻ると、視界の先に土城領の門が見えてきた。
「なんか、戻ってきたって感じする~」
「うん」
二人は門をくぐった。外の乾いた空気がそこで切れ、張っていた意識が少しだけ緩む。時間は遅いはずなのに、空はまだ明るいままだった。
宿は、土城領の中を少し歩いた先にあった。石造りの、簡素な建物だ。
近づくと、火鍛領の宿とは違う静けさがあった。壁は厚い石で積まれ、入口まわりにも余計な飾りはほとんどない。灯りも控えめで、明るく客を呼び込むというより、そこで夜を過ごすための場所として、ただ落ち着いて立っているように見える。
「こっちは、ちゃんと土って感じだね~」
「うん。火鍛領よりずっと静か」
中へ入ると、空気は外より少しだけ柔らかかった。広さはあるが、賑やかさは薄い。石壁に囲まれた空間は声を跳ね返しすぎず、誰かが話していても広間全体が騒がしくならない。床も柱も無骨で、目に入るものは少ない。けれど、戦闘のあとの身体にはその簡素さがちょうどよかった。
受付の奥にいた女性が、二人に気づいて顔を上げた。
「宿泊ですか?」
エーテルが頷く。
「はい。二人で一部屋、空いてますか?」
「空いております。お二人で一室、ご利用料金は属性硬貨五枚になります」
エーテルは硬貨を取り出して渡した。受付の女性はそれを受け取り、確認してから口を開く。
「二階、奥から三つ目のお部屋になります」
「ありがとうございます」
「ありがと~」
二人はそのまま奥へ進み、階段を上がった。廊下に並ぶ扉の一つひとつも、土城領らしく飾り気がない。火鍛領の宿にあった熱や匂いの強さはなく、そのぶん静けさが前に出ていた。
教えられた部屋の扉を開けると、石壁に囲まれた小さな室内に、ベッドが二つと窓が一つあるだけの簡素な造りが目に入る。余計な物はほとんどない。けれど、その何もなさが今はちょうどよかった。
マッチーが先にベッドへ腰を下ろし、小さく息をついた。
「落ち着くね、こういうの」
「余計な物ないしね」
「なんか、ちゃんと休む場所って感じする~」
エーテルも反対側のベッドへ座る。足に残っていた岩棚の感覚が、少しずつ薄れていった。さっきまで耳に入っていた砂の擦れる音も、風の抜ける音も、ここにはない。
しばらく、どちらも喋らなかった。
マッチーがベッドへ手をついたまま、ぽつりと言う。
「……今日いちばん印象に残ってるの、やっぱ負けたとこかも」
エーテルは少しだけ間を置いて頷いた。
「うん。私も」
翠樹海の深部で押し切られた、あの一戦だ。
「楽しかったこともいっぱいあったんだけどね~」
「それでも、あそこが一番だよね」
マッチーが苦笑する。
「普通に悔しい~」
「うん」
部屋は静かだった。窓の外はまだ明るいのに、その静けさだけが少し不思議だった。
エーテルが口を開く。
「でも、後半はちゃんと掴めてきた感じもあったよ」
「ストーンシェルフ?」
「うん。あっちはだいぶ見えた」
マッチーが顔を上げる。
「だね~。スナモグラもイシガメも、最初よりずっとやりやすかった」
「イワウシも、タイミングさえ外さなければ対応しやすかったし」
「ツチゴレムも、挟めばかなり楽だったね~」
少し間が空いてから、マッチーが斧を振る真似をしながら肩をすくめた。
「でもさ~、明日からは雑魚相手でもちゃんと魔法使おっか」
「うん」
エーテルもすぐに頷く。
「今日は様子見もあったけど、使わないで押し切れるほど軽くはなかったしね」
「だよね~。温存とかじゃなくて、普通に使った方が安定しそう」
「うん。後半は動きが見えてきたし、そこに魔法を合わせれば、もっと楽になると思う」
「次はちゃんと混ぜていこ~」
マッチーがそう言って少しだけ笑った。
「だから余計に、次はもっとやれそうって感じする」
「うん」
「次はもうちょっとちゃんと勝ちたいね~」
「だね」
エーテルも頷く。
マッチーがベッドの端に手をついたまま、ふと思い出したように言った。
「あ、そうだ~。明日なんだけど、昼から入るのちょっと遅れるかも」
「そうなの?」
「うん。ちょっと外せない用事あるから~。夕方までは行かないと思うけど、昼ぴったりには無理そう」
「わかった」
そこでエーテルが少しだけ首を傾ける。
「今の経験値って、いくつだっけ?」
マッチーはすぐに表示を開いた。
「えっとね~……二百三十三だね」
エーテルも自分の表示を見てから、小さく頷く。
「じゃあ、先に入るだろうし少し稼いで、追いつくくらいまでは上げとくよ。レベルアップのタイミング、ずれるのちょっと気持ち悪いしさ」
マッチーが笑う。
「だね~。できるだけ早めに入れるように頑張るよ~」
「入れそうになったらメッセージ送って」
「うん。送るね~」
そこで話すことはだいたい話し終えたらしく、また少し静けさが戻る。
マッチーがベッドの端に手をついたまま、小さく息を吐いた。
「初日から、かなり濃かったね~」
「うん」
そこで会話が途切れた。
エーテルは部屋の中を見回し、それから窓の方へ目を向ける。外はまだ明るい。けれど、感覚としてはもう一日の終わりだった。
負けたことも、ストーンシェルフでの経験も、明日から試すことも、まだ頭の中に残っている。二人はそれぞれのベッドの上で、ようやく落ち着いた。
マッチーが先にベッドへ倒れ込み、気の抜けた声を出す。
少し沈黙が流れた。
「また明日ね~」
「うん、また明日」
エーテルも反対側のベッドへ横になった。柔らかすぎない寝具が背中を受け止め、ようやく全身の力が抜ける。
歩き続け、戦い続けていた間は意識の外へ追いやられていた疲れが、止まった途端にじわりと浮いてきた。耳の奥に残っていた硬い打撃音や、足を止めるたびに張っていた感覚も、少しずつ遠のいていく。
簡素な石壁。二つのベッド。窓の向こうの明るさ。宿の部屋そのものは何も変わっていないのに、もう今日は終わりだという感覚だけが先に落ち着いていた。
これ以上、何かを話さなくてもいい。初日の終わりとしては十分だった。
視界の端に淡いメニューが浮かぶ。
【ログアウトしますか?】
二人はほとんど同時に選択した。
部屋の輪郭が少しずつ薄れていく。石壁の色が淡くなり、天井の形がほどけ、窓の向こうの光も静かに遠ざかる。
身体を預けていた寝具の感触まで、急に切れるのではなく、ゆっくり指の隙間から抜けていくように失われていった。




