Ep.21 中央塔二階層 ― 立ち上がる市場
視界の奥で、淡い光が広がる。
暗闇の底に、ゆっくり色が戻ってくる。現実の身体感覚が遠のき、その代わりに軽い浮遊感が広がった。
意識が完全に同期した時、目の前の景色がはっきり形を持つ。
空だった。
広い、何もない空間。
けれど落ちているわけではない。
足元には透明な床があり、軽く踏みしめると、ちゃんと足場として返ってくる。その下には、巨大な都市が広がっていた。
ペンタクルベース。
正五角形の都市構造が、はるか下に静かに広がっている。五つの領域が均等に置かれ、その中央には、正五角形の広がりとは対照的に、一本の巨大な塔がまっすぐ立っていた。
空中から見下ろすその景色は、都市全体が一枚の設計図になったみたいだった。
意識の奥へ、やわらかな声が届く。
『接続を確認いたしました。お帰りなさいませ、エーテル様』
「ただいま、ナナミ」
エーテルは軽く周囲を見渡した。
ここはログイン直後の待機領域。操作するアバターを選ぶための空間だ。
このゲームで、『十二影座』に就いたプレイヤーは複数のアバターを持つことができる。
ただし、同時に操作できるのは一体だけ。
目の前に淡い光の輪が現れ、その中央に二つのシルエットが浮かぶ。
一つは、通常アバター。
白と黒を基調にした軽装。装飾は抑えめで、視界を邪魔するものがない。金と水の属性構造に沿った、静かな雰囲気の鬼人だ。
もう一つは、『十二影座』アバター。
深墨と暗灰を基調にした軽装。こちらも余計な装飾はない。吹き荒れる嵐そのものみたいな鬼人。
けれど、今そちらを使う必要はない。
『では、操作するアバターを選択してください』
「もちろん、メインアバターでプレイするよ」
『了承いたしました。メインアバターへの意識同期を実行いたします』
光が静かに揺れ、足元の透明な床へ淡い線が走る。
ペンタクルベースを見下ろす景色がゆっくり遠ざかり、視界が一瞬だけ白く塗りつぶされた。
次に目を開けた時、視界に赤い光が入った。
炉の熱が空気を揺らし、壁に映る火の色がゆっくり揺れている。
エーテルは宿のベッドの上に座っていた。
黒鉄と木材でできた簡素な部屋。壁に余計な飾りはなく、炉の熱が室内をゆるやかに温めている。
軽く手を握って、感覚を確かめる。指の動きに問題はない。視界も安定していた。
『身体同期率、正常値です。遅延も確認されておりません』
「問題なさそうだね」
立ち上がり、肩を軽く回す。
窓の外には火鍛領の街が見えていた。
建物の壁には煤が残り、炉の開口部からは橙色の光がこぼれている。遠くでは槌音が断続的に響き、街全体が巨大な鍛冶場みたいに脈打っていた。
昼固定の世界でも、この領域だけは常に火の色をまとっている。
「今何時?」
『現在のゲーム内時刻は、二十一時十三分です』
「あと四十分くらいあるんだね」
エーテルは小さく頷く。
窓の外では、火鍛領の炉の光がゆっくり揺れていた。
イベントまでの時間としては、長いようで短い。少し街を歩くくらいなら十分できる。
視線を窓から外し、扉へ向かう。
廊下には炉の熱がほのかに残っていて、木の床板が足元でわずかに軋んだ。
階段を降りると、一階の広間にはまだ何人かのプレイヤーが残っている。
長い木卓で装備を確認している者。通りへ出ていこうとしている者。
イベント前だからだろう。宿の空気は少し落ち着かない。
エーテルはそれを横目で見ながら、宿の外へ出た。
炉の熱を含んだ空気が頬を撫でる。
火鍛領の通りが広がる。
石畳は赤い光を受けて鈍く光り、建物の壁には煤の跡が残っていた。炉の口からは橙色の炎が揺れ、鍛冶台では鍛冶師が無言で槌を振り下ろしている。
カン、カン、カン。
鉄を打つ音が、通りへ響く。
エーテルはゆっくり歩き出した。今のところ、はっきりした目的はない。ただ、なんとなく足を進める。
それでも、火鍛領には独特の空気がある。
火の匂い。金属の匂い。街そのものが鍛冶場みたいだった。
通りをいくつか抜けたところで、プレイヤーの流れが少し変わっていることに気づく。
同じ方向へ歩く者が増えていた。
『中枢域へ向かうプレイヤーが増加していますね』
不意にナナミが言う。エーテルから呼びかけたわけではない。目的なく歩いていることを踏まえて、声をかけたのだろう。
『イベントを考慮した行動と推測されます』
「だろうね」
イベントの場所は告知されていない。
けれど、この都市の中心がどこかは明らかだった。
中央塔。
エーテルもその流れに混ざり、中央へ続く通路へ入る。
五領から中央へ向かう通路は、緩やかな勾配になっていた。進むほど、行き交うプレイヤーの数が少しずつ増えていく。
やがて通路の先が開け、中枢域へ出た。正面には、見慣れた中央塔がそびえている。
ちゃんと観察していなかったせいか、改めて見て初めて気づく。
壁面に、火のような文様が描かれていた。
今エーテルが立っているのは、火鍛領側から中央塔へ入る入口のすぐ前だ。たぶん五領それぞれに面した塔の壁面には、それぞれの領を表す紋様が刻まれているのだろう。
観察はそこまでにして、エーテルは塔の入口をくぐった。
内部は見慣れた一階の広間だ。イベント前だからか、いつもよりプレイヤーが多い。
(ナナミ。一階には売り買いできそうな場所が見当たらないけど、どこにあるのかな?)
『水晶柱の足元に描かれた五芒星の頂点部に、上層階へ移動できる魔導エレベーターがあります。二階層が総合購買階層です』
(教えてくれてありがとう)
案内通りに五芒星の頂点部を見ると、ちょうどプレイヤーらしい人影が上層から降りてくるところだった。
その人と入れ替わるように、エーテルは頂点部の足場へ乗る。
足元の円盤が淡く光り、視界の端に階層選択のUIが開く。
二階層。三階層。四階層。
その中の二階層へ意識を向けた瞬間、体がふわりと持ち上がった。音も衝撃もない、静かな上昇だった。
『二階層は、売買や出品、装備閲覧、素材閲覧、工房接続など、主に物品管理と生産導線に関わる窓口が集約された階層です』
「アイテム周りの窓口がまとまってる階って感じなんだね」
『概ね、その認識で問題ありません』
上昇が止まり、足場が二階へ滑るように繋がる。エーテルは一歩踏み出して周囲を見回した。
中央の移動機構を囲むように通路が巡り、その外側へ用途ごとの窓口が並んでいる。表示は目立ちすぎず、導線も開けていて、初見でも大まかな構造は掴みやすかった。
「外周に窓口を寄せてるんだね」
『移動距離と視認性を優先した構造です』
エーテルは頷き、近い窓口から順に見て回ることにする。
最初に開いたのは素材一覧だった。
半透明の表示が広がり、木材、鉱石、モンスター素材といった分類ごとに品名と価格が並ぶ。まだ出品数は多くない。けれど、今どんなものが流れ始めているかを見るには十分だった。
並んでいるのは、ほとんどがアイテムレベル1から5の素材。
レベル五素材で、おおよそ一枚。
「大体の相場は決まってる感じだね」
『はい。システム的制限がかけられていますので、相場は安定しています』
表示を流しながら、いくつかの素材名と価格を頭の中で結びつけていく。
木材。鉱石。モンスター素材。
序盤に必要なものは、もうひと通り並び始めている。けれど量が多いとは言えない。出てきたものが、そのまま試しに置かれているような市場だった。
素材一覧を閉じ、次は装備の窓口を開く。
こちらはさらに少ない。
低レベルのクラフト装備がいくつか並んでいるだけで、空欄のほうが目立った。
レベル五装備で、十五枚。
素材単価から考えれば不自然ではない。完成品には作成の手間が乗るし、そもそもまだ生産側も立ち上がったばかりだ。
「やっぱり、まだ装備は少ないね」
『クラフトを行っている人自体、まだ少ないのでしょうから、自然な状態かと思われます』
「作る側も、まずは自分の分を揃える段階だろうしね。レベル上げもしないといけないし」
その後も、ナナミと話しながらいくつか別の窓口を見て回った。
ひとつ確かなのは、基本的なHP・MP回復薬や食事アイテムは売られている。けれど、それ以外でこの世界の住人が作ったものは、今のところ販売されていないということだった。
ひとつひとつは短い確認でも、順に見ていけば全体の輪郭は見えてくる。
素材は動いている。
けれど完成品は少ない。
生産は始まっている。だが都市全体で見れば、まだ立ち上がりの段階だ。
リリース初日。
市場も、生産も、まだ本格的に回り出す前の呼吸をしている。
エーテルは最後にもう一度素材一覧を流し見し、表示を閉じた。
時刻を確認する。
二十一時四十分。
イベントまであと二十分だった。
「そろそろマッチーもログインしてくるかな?」
小さく呟き、窓口群から離れる。
一通り見て回って、この階で掴めることは掴めた。なら、次に見るべきは、人が集まり始める中央の動きだ。
一階へ降りたエーテルは、そのまま中央塔の外へ向かった。




